第三十週:帝と蛇と死刑囚(金曜日)
「良かったら飲むか?」
と、いつもの看守がいつもの口調で葉来に訊いた。彼の手には白酒の小瓶が、他の囚人たちからは見えない角度で握られており、
「こんな時だ、一杯やらなくちゃやってられんだろ?安心しろ、こいつは上物だからな、あとに残ることなんてない」
とのことだった。
そうして、問われた来は、この期に及んで“あとに残る”も何もないものだ、とは想ったものの、このガサツだが心根の優しい看守の手から小瓶を受け取ると、ゴクゴクゴク。と、そいつを一気に肚へと入れた。
「お、イケる口だったんだな?」と看守は言い、「ま、全て万事うまく行くさ」と笑った。
彼らがいま居る廊下には、彼らの他に男が二人。一人はいつもの看守の同僚で、つい最近配属されたばかりの、オムツも取り切れていないような若い看守で、もう一人は、この時代には珍しいある宗教の教誨師であった。
そうして彼らの左右には、出番待ちの死刑囚たちが七人、鉄格子の向うから来に別れの言葉や視線や無関心を送っていた。
「じゃあな!葉の旦那!!」と、その中の一人――“騎士殺しの丹”が言った。「俺も金曜には行くからさ、また象戯でも指そう」
*
「アレは確かに正当防衛だった」と、ある時、丹は来に言った。「しかも、騎士さま二人にこちらは丸腰だぜ?殺される方が悪いよ」
が、しかし、それでも殺人は殺人であり、名もなき男に騎士が二人も殴り殺されたとあっては帝国も看過するワケにはいかない。
「それで俺は殺されるんだ」と、囚人用バンドで赤くなった手首を掻きながら彼は言った。
*
「すみません、神父様」と、決められた時間に決められた椅子に座りながら来が言った。「祈りの言葉は、もう結構です」
何がどう誰に伝わったのかは定かではないが、刑務所が用意したと云うこの教誨師は、来とは違う神を信仰していた。
「ではよろしいですか?」と、来の口中のフェイズシフターを確認しながら、担当の技術士が言った。「よろしければ始めて貰います」
自らの死が間近に迫ったこの時、来は、自分があまりにも冷静且つあまりにも無関心な気持ちであることに気付いた。
執行室の中には彼のほかに六名の男たちがいたが、彼に死を賜わる者は恐らく、その壁か天井の向うにでも居るのであろう。
『いや、あるいは地の底か?』と、来が想った瞬間、果てしない痛みと伴にここに至るまでの一連の出来事が想い返された。裁判、手錠、見物人の薄笑い、ナイフ、指紋、汚物塗れの毛布……、彼は、彼の恋人を殺害した罰として、いまここに居る。
『しかし、私にはあんな恋人はいなかった』どうして私はここにいるのだ?私が何をしたと云うのだ?どんな罪を犯したのだ?
直後、彼は目覚める。傍らには愛しい妻と娘の寝顔と優しい朝の光がある。
『なんだ、夢か……』と彼は悟り、愛しい妻の黒髪に口づけを送った――瞬間、彼の処刑も終わった。
*
『えっと、それで……これ、なんて読めば良いんですか?』と、六祥・シズカが訊いた。『“イェ=ライ”とかで良いんですか?』
すると、自分へ向けられたのであろうこの質問には答えずに彼は、
「……ここは?」と、白酒で赤くなった目を隠しもせずに訊いた。「……どこだ?」
薄青色のだだっ広い空間に安手の事務机がひとつ――ここは明らかに執行室ではない。
そこで“シズカ”は少し困った顔をすると、
『私もよくは分かってないんですけど――』と、小鼻の周りを掻きつつ、『ま、更生施設みたいなもんですよ』と、返した。
(続く)




