月と星の国、その下の恋の話
この世界の果てに常夜の国があります。
かつてひとりの魔術師が繰った術がその国を常夜に変えてしまったのです。
昼の無いその国から民はひとりふたりと減っていき、最後まで残っていたそれらを統べる王が身罷ってずいぶん経ちました。
国があった大部分は湖に変わってしまいました。
王城であった場所は、今は傾いた白っぽい石の柱があちこちに残るだけで、丈の短い草で地面は覆われています。
時々月が通り過ぎる以外は、空には星が巡るばかり。
雨も無く雲すら掛かりませんが、冬の時期に遠くから風に運ばれた雪が散らつくことはあります。
大きな大きな湖にはいつも空と同じ数だけの星が鏡映しになっていました。
民はひとりも居なくなりましたが、誰も住んでいない訳ではありません。
人は陽の光が無い場所では生きていけませんが、人でない者は違います。
そこには人であった者が住んでいました。
見た目は若いですが、彼の歳は国王がまだ健在であった大昔に止まったまま。
肌は青白く薄っぺらな身体をしていますが、とても美しい顔立ちの青年です。
彼もまた魔術師でした。
常夜の国に残り、この地で己の成すべきことを成そうとしています。
民はひとりも居ませんが、彼はひとりではありませんでした。
白と黒の羽毛で覆われた地を歩く鳥のような生き物と、ボタンの目が付いたぼろ布の人形、四つの車輪がある木馬の玩具。
特にぼろ人形と木馬の玩具は彼の言うことをよく聞いてよく働きます。
白と黒の鳥のような生き物は地をよたよたと歩いたり、空を飛ぶように湖を泳いで好きなようにやっていました。
それらは言葉を発しませんが、彼にはそれで充分。あちこちで動いているのを見ているだけで孤独はひとつも感じません。
ある夜、といっても常夜なのでずっと続きの一夜のことですが。
青年が白と黒の鳥のような生き物の後を付いて、短い草を踏んで歩いていた時のことです。
湖の畔で大きな網をかけてそれを引いていた、ぼろ布の人形と木馬の玩具が慌てた様子で彼の元までやって来ました。
彼の足元にまとわり付き、網の方を指し示します。
鳥はこの騒ぎに湖に滑り入ってしまいました。
湖の周りにある白い山が、風もないのにからからと音を立てて崩れていきます。
先程引いていた網の、陸に上がった部分がひとりでに持ち上がり、その中からもからからと小さなかけらが集まっていきます。
いくつもの白いものは骨で、少しずつ集まって人の形になり、それが歩いて青年の前までやってきたのです。
「おや、珍しいね。ついさっきひとり送ったばかりなのに」
「君が装丁の魔術師か」
「そうだよ」
「……もっとおどろおどろしい姿かと思っていたが」
「想像と実際が違うなんてよくあることでしょう?」
青年の目の前に現れたのは、隻腕で額に大きな傷がある屈強そうな男でした。
「ここにに来たということは、下の世界で私の話を聞いて来たんだね?」
「そうだ」
「貴方は蘇りを望むんだね」
「お願いする」
「思い残しがあるの? このまま時が経てば生まれ変わることができるのに?」
「思い残し……そうだな、ああ、ある」
「交換条件は知っている?」
「それも聞いた」
「そう。それじゃあ、話して。貴方の『恋の話』を」
男は周りを見回すと、目に止まった無数の骨の山に顔を僅かに顰めて、小さく息を吐き出しました。
「本当に俺を蘇らせてくれるのか?」
「本当だよ」
「その代償が『恋の話』?」
「貴方の恋の話、だよ」
「安い代償だな」
「……本当はね、代償なんて要らないんだ」
「なに?」
「肉体の装丁だなんて、大袈裟な話を下の国で聞いて来たんだと思うけど。貴方の身体の骨はあるし、それに惹かれて魂がここに来たから材料は大体揃ってるんだよね」
「……そういうものなのか?」
「そうだよ。でも私は割とヒマだし、肉体を作るにも少し時間が必要だから、その間に貴方の話を聞かせてもらいたいなって、ただそれだけなんだ」
「ずいぶんと自分の術を安売りするんだな」
「相手はきちんと見ているつもりだよ」
「そうは思えんが」
男は無くなった部分を反対の腕で撫でました。自分の見た目が普通とは違うと分かっていたからです。
「なぜそう思うの? 貴方は正直で真面目そうだし、私に対して敬意を持っているように見えるよ」
「そりゃ……蘇りたいからな」
「でもそうならない者も中にはね」
「断るのか?」
「蘇らせてあげるよ」
「なんだ、そうなのか?」
「でもそういう奴らはまたすぐに下の国に戻っていくんだ。貴方が下の国で私の話を聞けた理由だよ」
「……なるほどな」
「さぁ。貴方の肉体ができあがるまで、貴方の恋の話を聞かせて?」
青年は足元にまとわり付いているぼろ人形と木馬の玩具を宥めるようにして網のある方へ行かせました。
男はぼろ人形と木馬の玩具が、意思を持ったように走り去る様を見送ります。
「かれ……と言って良いのか、彼らが湖から骨を引き上げているのか?」
「そうだね、私も彼らと言うのが正しいか分からないけど、貴方にはあの子たちにこそ感謝してほしいな」
「……分かった」
「素直な人は好きだよ」
「よろしく頼む」
「任せて」
青年は男を湖から少し離れた平らな場所へ連れていきました。
そこはかつて王城であった場所、石造りの床です。
昔あったままのように、つるつると磨かれたような見事な石床でした。
ただ天井も壁も無く、床には大きな陣が刻まれているので、男にはそこが大昔に城であったなどとは思いもよりません。
男は円形の陣の真ん中に座らされました。
「なんで片腕が足りないのに魂が戻って来たんだろうね?」
「俺が死ぬ前には腕が無かったからか?」
「あー。そういうことかぁ」
「もうひとつ考えつくことはあるが」
「どんなこと?」
「『恋の話』はしなくていいのか?」
「その中に腕の話が出てくるんだね?」
「どうだろうな」
「じゃあ、どっちも聞かせてくれる?」
青年は男の周りに細く光る糸のような、星々を写した湖の水のようなものをたらしていきました。
糸巻きのようなものも、器のようなものも、何も持っていない青年の手から、それらはこぼれ落ちていきます。
男は目の届く範囲でそれを見届けました。
再び青年が目の前に戻ってきた時に、男に向けて大きく頷きます。
それが話を始める合図だと、男は口を開きました。
男は幼いうちから周囲の誰もに荒くれ者と呼ばれて大きくなりました。
力任せで人を痛めつけることも、罪深いとされることにも、それほど自分の心を痛めることはありませんでした。
それは男の育った場所がそういうところだったからです。
小さな複数の家族で構成された盗賊団の子どもとして男は生まれたのです。
人を傷付けることも、物を奪い盗むことも、それが生きるに必要なことだと教えられました。
悪と言われることを悪とも思わず大きくなります。
でもそれは彼が世界の広さを知る前までの話。
成長するにつれ、己の、仲間のしていることに、少しずつ不信が湧いてきたのです。
このままではいけないと、男は仲間の元を離れました。かといって自分にできることは荒事ばかり。男は争いごとの多い場所に流れるように漂って、すぐに傭兵として戦地を駆けるようになりました。
男はいくつもの国を、戦のある場所を渡り続けました。
やがてとても大きな戦場に辿り着き、そこでも彼は戦って過ごしたのです。
延々と激しく続くようでしたが、戦術も何も無い白兵戦のようになってきて、男はこれまでの経験から、この戦の終わりを感じていました。
殺さなければ殺される日々が続き、その中でも考えることはあります。
男は己の育った故郷を思い出します。
決して良い場所とは言えませんでしたが、悪いことばかりではなかったのです。
そのひとつは仲間を大事にする気持ち。
それは男にも誇れるものでした。
そんな気持ちがある彼でしたから、戦場でも仲間はたくさんいました。
酷い有り様の場所でしたが、そこに居るのは、気持ちの良い楽しい仲間たちです。
彼らを大事に思うことに、男はひとつも抵抗がありませんでした。
長い眠りから目覚めたような気がして、周りを見てみると、本当に長く眠っていたようでした。
整えられた清潔な寝台に横になっていたのです。
男はいつの間にか戦場から遠く離れた場所にいました。
片方の腕は無くなり、そちら側には美しい女性がいました。
死にかけていた男を、彼女は街角で見つけたのだと後に教えてくれました。
身体が良くなるまで、気に負わず過ごして欲しいと、彼女は男をなにくれとなく助けてくれます。
時を置かず男は彼女の優しさに惹かれ、彼女を好きになりました。
しかし自分が彼女に不釣り合いなことは重々と理解しています。
人を傷付けて奪うことしかまともにできることが無い。大事にしようと思っていた仲間たちともいつの間にか離れてしまっている。
言葉さえ通じない。
戦地から遠く遠く離れた場所。
聞いたことも無い国の名前。
驚くしかない文明と文化。
今までいた所とは全く別の世界に来たようでした。
それを覚えたばかりの拙い言葉で話すと、彼女はゆっくりと答えてくれたのです。
いつか自分の世界に帰るその日まで、ここに居れば良いと。
男はその日まで、彼女を大事にすると心に決めました。
美しい女性は、その美しさを武器に、彼女もまた戦う人でした。
男の居た世界には無かった女優という生業を、そう感じたのです。
そして女優という生業にも荒事は付き物でした。
身近で彼女を守っているうちに、男は自分の居た世界に帰ることはあまり考えなくなり、そうなった頃、ふたりは夫婦になりました。
「奥さんが今も好き?」
「もちろん」
「貴方はどうして死んじゃったの?」
「事故に巻き込まれたんだ」
「あらら。奥さんは?」
「俺ひとりで死んだ」
「蘇って奥さんの元に行きたいの?」
「いや……自分の居た、元の世界に帰りたい」
「あれ? そうなんだ?」
「そもそも彼女の世界に、俺が居ること自体が間違いだろう?」
「……どうだろうね、私には分からないけど」
「魂だけでも帰ることができるのかと思ったが、そうでもないらしいな」
「だから肉体を装丁しにきたの?」
「ああ、そうだ」
「腕は元の世界に落として来たんだね」
「多分な」
「元の世界の仲間が心配?」
「もちろん。でも戻ったところでどうなっているんだか予想も付かない」
「そうだね。とっくに戦は終わってるかも」
「その時の仲間が生きているかも分からん」
「なら、どうして戻ろうなんて」
「元の世界に戻って、そこで死ぬ為だ」
「そこでまた死ぬの?」
「……ああ、蘇らせてもらった義理も恩も何も無いが。もし、生まれ変わることがあるのなら。また今度があるのなら。彼女と同じ世界に生まれたい」
「……貴方が生まれ変わっても、その時に彼女は生きてるかな」
「彼女はもう亡くなっているよ」
「え? そうなの?」
「下の国で噂を聞いた。人気の女優が自死をしたとな」
「貴方を追って?」
「だとしたら怒ってやろうと思って、あちこちに行ってみたよ」
「奥さんを探したんだね?」
「そうしている内にこちらに呼ばれた」
「……ごめーん」
「いや。これも巡り合わせだろう」
「下の国に奥さんはいるんでしょ? 戻ることもできるけど」
「あそこは広過ぎる。いつか会えると希望も湧かん。途方が無いとはこのことかと身に染みた」
「たしかにー」
「他所の世界の俺がここに引き上げられたんだ。妻がいつかそうなる可能性の方が高いだろう?」
「まぁねぇ」
「その時は妻を頼む」
「良いよ。たっぷり貴方の惚気話を聞かせてもらうから」
「……俺は元の世界に戻れると思うか?」
「なんとも。私にその知識は無いね」
「知っている者を知っているか?」
「……悪いけど。魔術師が他の魔術師の話をするのは倫理に欠ける行為なんだ」
「……そういうことか。ではまず戻る方法を知っている『魔術師を探せば良い』んだな?」
「下の国に戻る方が早そうだね」
「それを言ってくれるな」
「遠大な計画だ」
「君ほどじゃないさ」
「……奥さんにいつかまた会えると思う?」
「どうだろうな……そうならなくてもまぁ、それで諦めがつくわけでもないしな」
「奥さんは貴方を忘れるかも」
「俺を気にせず別の人生を歩むのも構わないさ。それに彼女は自分が嫌いだった」
「女優で人気者だった自分が嫌いなの?」
「だからだよ。美しいのは罪だな」
「罪なのかな」
「だから俺みたいな男に絡めとられるんだ」
「ああ……なるほど。いいね。とてもいい恋の話だったよ。ありがとう」
青年の術で肉体を取り戻した男は、その場をゆっくりと立ち上がります。
久しぶりの生きた身体の重さに、少しだけふらついたようでした。
これから始まる男の長い長い旅を少しだけ思って、青年はこの時に、男と出会って初めてはっきりとわかる笑顔を見せました。
「下の国で聞いた話だが」
「なにかな?」
「君の話は本当なのか?」
「何を聞いたか知らないけど、まぁ間違っていないと思うよ」
男も初めてにやりと笑って、青年に頷いて返します。
「お互いに難儀なもんだ」
「まったくだね」
「……うまくいくよう祈ってるよ」
「ありがとう。貴方もね」
「こちらこそ、ありがとう」
この世界の果てに常夜の国があります。
その国には月と星を映す大きな大きな湖がありました。
湖には無数の人々の骨が沈んでおり、その下に死者の国がありました。
そしてさらに一番奥底に、青年の恋人が今も居るのです。
死んだ王妃を蘇らせよと国王に命じられ、彼の彼女は自らを贄として命をかけた魔術を完成させました。
湖は今なお死者の骨を集め続けます。
その底から引き上げられた骨はひと揃いすると、骨に惹かれた魂が戻ってきます。
青年は人の身体を蘇らせる魔術を作り出しました。
いつか恋人を蘇らせるために湖の畔で術を繰るのです。
無数の骨を湖から引き上げ続け、その山から集まった骨と魂で望む者だけに肉体の装丁をする。
代償はその魂が持つ『恋の話』。
有り余る時間を潰したいのだと彼は言いますが、男は恋人への想いを忘れたくないのだろうなと思いました。
王が命じた王妃の骨はまだ湖の中。
王妃は戻らぬまま、国王も身罷ってしまいました。
今もふたりは湖の底に。
青年の恋人はいまだ還りません。
彼女の小指の先だけが彼の元に戻っているのだと、下の国では、そう話が聞けるのです。