1.旅立ち
黄緑色の海のように広がる草原。その中を、1本の道が走る。
ラクダ村を出て、7時間。日は少しずつ山の向こうに沈んでいく頃だ。重たいリュックを背負って、黙々と歩いている少年、ライムも、ついに座り込んでしまった。
「まだ、なんにも見えないや・・・」
水筒の水も、残りわずか。先が思いやられる。
ラクダ村での15年間。ライムにとって、決して幸せなことばかりではなかった。良いことも悪いこともすぐに広まって、それでいて1度流れた噂を塗り替えることは難しい村社会で、生きづらさを感じることも多々あった。
物心付いた時には、両親はいなかった。それでも親戚のレモン姉さんが面倒を見てくれて、学校にも通うことができた。友達は、あまりできなかったけれど・・・。だから、今朝ライムが村を旅立つ時も、大半の住民が無関心だった。レモン姉さんだけは昨日の夜から「うるさいガキがいなくなって、清々するよ」なんて言っていたのに、今朝は村のはずれまで見送ってくれて、黙って弁当を差し出してくれた。
事前に、ラクダ村から、目指すライオンタウンまでの道程は調べていたつもりであった。村の図書館で地図を見て、最も安全な最短距離は、この草原を抜けるルートであったはず。暗くなるまでには、辿り着く予定であったのだ。
汗を拭って立ち上がり、歩き出す。こんなところで座り込んでいては、「未完の冒険譚」には挑むこともできないだろう。
ライムが初めて本物の「冒険譚」を見たのは、10歳の誕生日のことだった。レモン姉さんに渡された一冊の分厚い革表紙の本。表紙には、本の絵がいくつも描かれ、それが円環となっている。ページを捲ると、「A」と印が押されていて、横には「シトラス」の名が。ライムの、父の名前である。
世界中に、未完の冒険譚と呼ばれる不思議な本が散らばっていることは、知識としては知っていた。しかし、ラクダ村には冒険者はいなかったし、図書館のどこを探しても冒険譚は見つからなかった。きっと、自分には縁のないものだと、ライムは思っていたのである。それなのに突然、自らの手の中に。それも、写真でしか知らない父の名前が記されている。
それから、ライムは冒険譚について、調べられるだけの情報を集めようとした。しかし、図書館には学校で習う程度の知識しかなく、先生に聞いても口を濁される。村の人間は自分と関わり合いになりたくないとライムは知っていたので尋ねず、悶々としながら、半ば諦め気味にレモン姉さんに聞いてみると、予想通り「そんなもん、知ってどうすんの」と返された。
「父さんのこと、知りたいんだ」
思わず大きな声になって、慌てて「ごめんなさい」と謝るライムをじっと見つめるレモン姉さん。そして静かに、「冒険者になるとか、馬鹿なこと言い出さないでよね」と言いながら、冒険譚のことを教えてくれたのだ。
未完の冒険譚とは、まだ「完結」していない冒険譚であり、冒険者はその本の中に入って物語を完結させることを仕事としている。昔は、そんなものが何になると揶揄されたこともあったようだけれど、未完の冒険譚からは物語の世界の宝物や食べ物や、あらゆる物を持ち帰ることができると分かってからは、こぞって本を探す冒険者が続々と増えていった。また、未完の冒険譚からは物語の中の魔物や怪物が出てきてしまうことも分かり、それを討伐することを目的とした冒険者も現れるようになった。そうなると、未完の冒険譚自体に価値が見出され、それを研究する者も登場した。未完の冒険譚の存在が確認されてから、この100年間程の歴史を、レモン姉さんはスラスラと口にした。
正直、あまり勉強が得意だとは感じなかったレモン姉さんから、こんなにも詳しい話が聞けるなんてと、ライムは驚いた。驚いたのは、それを語るレモン姉さんの表情が、見たことのないものだったから、というのもあるが。
夕日と星空が溶け合った時間。
ようやく遠くの方に、背の高い建物が見えてきた。ライオンタウンには、この国有数の冒険者ギルドが存在する。そこに加入して冒険者になることが、ライムの夢なのだ。
リュックを背負い直し、気合いを入れて足を踏み出した瞬間、突然頭上が真っ暗になった。
豪雨のような羽音。
首をすくめながら見上げると、大量の巨大な黒い鳥。渦を巻くように旋回し、明らかにライムを狙っている。辺りを見渡しても、逃げ込めるような場所はない。草原に飛び込んでも、上空からは丸見えだろう。
無我夢中で走り出すと、魔カラスの群れも一斉に追いかけてきた。羽音がどんどんと迫ってくる。ダメだ、逃げられない。
立ち止まる。膝が震える。唇を噛み締める。
大きく息を吸い込んで、吐き出し、振り返る。魔カラスたちは、いつの間にか夕日を飲み込んだ夜空の中でも姿が見えるくらいに、低く低く飛んできている。ライムは、拳を構えた。怖い。ぎゅっと、目を瞑る。
頬に冷たいものが、ぽつりぽつりと落ちた。うっすらと目を開けると、信じられないことに草原が凍り、空からは雪が降ってくる。辺りには、氷漬けになった魔カラスたちが、点々と転がっている。
「大丈夫ですか!?」
ライムが来た道の方から、綺麗な黒髪の、メガネをかけた少女が駆けてくる。
「お怪我は、ないですか?」
いつの間にか雪はやんでいて、凍っていた草原は雫で濡れていた。
「は、はい・・・」
やっとの思いで、答えるライムを見て、少女は安心したようにホッと息を吐く。
少女の後ろから、ブロロロロとエンジン音を響かせて、軽トラがやってきた。運転席には、銀髪の恰幅のよい女性。
じっと顔を見つめてくる銀髪の女性に、ライムはタジタジとなった。しばらくして、女性は「乗んな」と軽トラの荷台を指さした。
面食らっていると、メガネをかけた少女が、「ハクビさん、あなたのことが気に入ったみたいです」と、笑いかけてくれた。
ライムが荷台に乗ると、助手席に乗り込もうとした少女が、銀髪の女性と少し話してから、ライムの隣に腰掛けた。「お隣いいですか?」と言われ、「あ、は、はい」と緊張しながら返すライムに、少女は口に手を当てて笑った。
「わたし、ヨモギっていいます。ライオンタウンでウェイトレスをしてて」
ライムも、慌てて自己紹介を返し、自分もライオンタウンに向かう途中であったことを付け加えた。
「そうなんですね!お荷物を見た感じ・・・旅の方ですか?」
「まあ、そうですね。今朝旅立ったばかりなんですけど・・・」
微笑みながら相槌を打ってくれるヨモギに、なんだか無性に、格好つけたことを言いたくなってしまう。しかし、今しがた命を助けてもらったところで、そんな言葉は浮かんでこない。
「僕、ぼ、冒険者になりたくて・・・。情けないですよね、旅立った初日に死にかけて、助けてもらう冒険者なんて・・・」
ぱっと顔が明るくなる、ヨモギ。夜の帳が下りているのに、ヨモギの表情が分かるくらい近くにいることに今更気づき、自らの汗の臭いが気になり始めるライム。
「そんなこと、ないです!ライオンタウンには沢山の冒険者さんがいますし、皆さん、パーティーを組んで冒険されてるんです。それなのに、魔カラスの群れに1人で立ち向かおうとするなんて、格好良かったです!」
照れて頭を掻くライムは、荒れた道をゆく軽トラの上で、尻が浮いて後ろにひっくり返った。
夜なのに、ライオンタウンは明るかった。初めて見る都会の光景に、口をぽかんと開けながら一頻りキョロキョロとし、ヨモギの存在を思い出して慌ててやめた。代わりに、質問が口をついて出た。
「そういえば、さっきのあれ、氷の、ヨモギさんが・・・?」
ふふふっと悪戯っぽく笑うヨモギは、振り返って運転席の銀髪の女性を示した。
「ハクビさん、あなたが魔カラスに追われてるのに気づいて、車から降りて。わたしも、居ても立ってもいられなくて、気づいたら駆け出していて」
軽トラは、街中を走り抜け、大きな建物の前で停まった。
「冒険者ギルド『竜の筆』」
書かれた看板の文字を読む。運転席のドアがバンっと開き、ハクビが降りてくる。
「着いたよ。冒険者になりたいんなら、この街ならここだね」
慌ててリュックを背負い、荷台から飛び降りるライム。
「あ、ありがとうございます!助けていただいたうえに、送っていただいて・・・」
また、じっと顔を見つめられる。
「あんた、逃げなかったじゃないか。いい根性してるよ。でも、1人じゃ立ち向かえないものもある。助け合える仲間を見つけな、ここで」
ギルドの看板を指差す、ハクビ。
「わたしたち、隣の酒場、『でんえん』で働いてるんです。冒険の後の宴には、是非おいでください!」
ぴょんっと荷台から降りて、笑顔でお辞儀をするヨモギ。
何度も感謝の言葉を述べ、ハクビに「いい加減、入んなさいよ、ほら」と背中を押され、深呼吸をする。
ライムは思い切って、ギルドの門をくぐった。