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素描集  作者: かやまりょうた
7/8

素描7 物語 丘の上の大学の話1

 その大学は丘の上にあった。

 学校の古い時計台からは、古くは東洋一の商港なんて称された港がよく見えた。

 陽光に浮かぶ港には目を凝らせば、大きなコンテナ船や客船が泊っている。 そして、そこから、今度は真下の地上に目を移すと、ゲバ字の立て看板が3号館前に立てかけてある。「Hさんの無罪を勝ちとろう」「改悪」「粉砕」「断固反対」など独特な言い回しと青赤の派手な文字が書かれている。    

 この立て看板は学生運動の残滓みたいなものだった。

 

その隣に、本館がある。教務課と本部が入っていて、地下1階地上2階建ての建物だった。本館の前には大きな山桃の木があった。何でもこの木は伊豆の山里から移植されたものだったらしい。

 右側の少し高くなったところには短期大学部があった。当時は短期大を併設しているところも多かったのだ。ここは吹奏楽部の練習場所になっていて、授業のない時間になると管楽器の音がいつも鳴り響いている場所でもあった。

 港とは反対側に回って真下を見ると中庭がありその向かいには大教室と食堂のある10号館、があり、半地下には武道関係の運動部の部室があって、畳やらバーベルが置いてあり練習風景が見える。   

 その先にはレンガタイルの図書館、その隣に、工場みたいな工学部の実験室、その先にはグラウンドがあって、迷路みたいな17号館、体育館、その先には20号館があった。北側の土地には工学部もあった。

 いま思うと、よくもまあ、こんな猫の額ほどの土地に集積回路なみの建物を建てたもんだと驚かされる。

 校舎はどれも団地みたいな当時としても一昔前の作りで、配管や電線が天井に貼り付けてある。照明は全体的に暗い。

 周りが住宅街なので、高層には出来ないので、面積を確保するために、どの建物も半地下に掘り下げてあり、一番下の階の教室は湿気があった。壁には雨が漏れて入ってきた跡がだらしなくついていた。


 時計台から地上に降りて、校内を歩く、7号館と工学部の間の通り、異様な数の学生がいる。ジーンズに白衣を着た理系の学生、パーカーを着た男子学生、洋弓を持った女子運動部員、スーツ姿の教員、渋谷の交差点並みに人がいた。次の授業に向けて移動中なのだ。

 あちこちに掲示板があり、遊びのサークルの勧誘や演奏会とかまだいいが、七輪で焼き肉を食べようとか、心霊スポットめぐりをしようとか、雑多で目的のわからない張り紙もある。

 会計研とか英会話、文芸、漫研とか比較的まじめなサークルのチラシまともな掲示板に貼ってあった。まあ、体験にしろ、少しでもかかわり合いになるなら、サークルは評判を事前によく吟味した方がいいという話のようだ。


 当時はどこへ行っても、夜間部もあるので、どんな時間でも人人人人人人で、キャンパス中、人のいないところはなかった。それもそのはずで、定員をはるかに超える学生をこの狭い場所に収容しているのだ。

 

 東京都心から私鉄電車と徒歩で一時間半くらい、K大学は地味な地方私立大学であった。

 

 もともと、夜学から発展した大学で都心から少し離れた全くの住宅街の真ん中にあった。

 大学があるキャンパスの立ち位置からしてなんとも微妙ではあったが、昭和初期に志を持った一人の青年によって創設され、社会科学系の学部からスタートした。

 立地としては東京からさほど遠く離れているわけでもないが、都内の大規模な大学と比べると、なんだかパッとしたところがなかった。


 その理由を学食で昼食をとりながら、職員にも聴いたことがあるが、その職員の語るところによると、学生運動の悪影響が残っていたからだと言う。


 そう、この大学の生い立ちを語るうえで学生運動について語らないわけにはいかない。それは学生運動の激化でこの大学は深い傷を負ったからだ。

 

 学生運動は戦後、昭和の中頃に起こった学生による政治運動である。

 K 大学の学生運動は東京の大学から10年ほど遅れて激化した。個性的だったのは、この大学には民族派の学生も数多く在籍していたことだ。作家の三島由紀夫が創設した「盾の会」のメンバーも幾人か輩出している。それくらい自分と生まれた国に対して、想いを持った人間が多かったということだ。その多くは学費の安さから入学した地方出身の学生たちだった。

 そうした右翼と左翼が入り乱れたのち、あるセクトが長年にわたって大学を占拠していた。左翼過激派による施設の占拠、内ゲバなどの暴力行為、教職員へのハラスメント、授業の妨害が常態化していたのだ。


 私が入学した当初はペンキの殴り書き、立ち入りがはばかられる場所などたくさんあった。大学は長く無意味な運動のアノミーからすでに脱し、運動は沈静化していたが、何とも言えない脱力感がそこかしこにただよっていた。

 学生運動は何一つ大学にいい影響や成果を残さなかった。壮大な消耗だった。それは他大でも同じだ。

 また運動を担った人たちの多くは、卒業と同時にあれほど嫌っていた資本主義の産業戦士となり、株式会社日本を作り上げる原動力になった。しかし、そこには学生時代、彼らが叫んだ、民主や平等はなかったし、いい大人になって、現実の社会に彼らはあれほど叫んだ理想を反映させようとも思わなかったのだ。平和も安保条約のもとではじめて保証されるもので、何も変わらなかった。

 ようするに、学生運動は不平を持った駄々っ子の地団駄でしかなかったのだと考える。そして、その課題のやりっぱなしと無責任さは指摘しておく必要があると思う。また、左右を問わず暴力が使われ、肯定されていたことについては声を大にして批判しておかなければならないと思う。

 ただ、これがなかったらと言いたいところだが、もう、起こってしまったことはどうしようもないことなのだ。彼らの唱えたことは多くが今も課題であることは確かであり、それは未来において取り組むべき課題なのだと思う。そうとしか言いようもない。

 

 さて、少々、脱線したが、話を本道に戻すと、卒業生の話では、ワンマンながら志をもって大学を発展させた創設者は、これより前に追放されるように大学を去り、民主的ではあるが、保守的な学校へ変わったという。

 こうして、かつては国立大学並みと言われた学費も気がつけば周囲の私立大学と変わらぬレベルになっていた。

 押し寄せる団塊ジュニア世代の志願者によって、大学自体は何もしないで、ステータスを上げつつあった。

 私は激しかった受験戦争をなんとかしのいで、こんな大学にたどり着いたのだった。

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