第二十五章『紅霞島(五)』
拓飛は掌門の間から紅霞山荘に下りると、最初に通された応接間へと戻った。フウッと一息つくと、倒れ込むように長椅子へと身体を預ける。
ほどなくしてドタバタとした足音が聞こえ、乱暴に扉が開けられた。
「クッソーッ! どうやっても勝たれへん!」
戸口から姿を現したのは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた斉であった。
「おっ、なんや、戻ってたんか?」
長椅子に腰掛けた拓飛に気付くと、斉は声をかけた。
「……ああ」
呆けたような表情で拓飛が返事をすると、斉は向かいの椅子に座り、まくし立てた。
「聞いてくれや、拓飛! あれから朱雀派のおネエちゃんたちに手当たり次第に挑戦したんやけど、誰にも勝たれへんねん!」
「そうか」
「あの空中からの攻撃には、なんとか返し技を合わせられるようになってんけど、上手く攻撃を当てても紙をドツいてるようでサッパリ手応えがあらへんねん! あの『軽氣功』て技、ヒキョーやろ、反則やろ、禁じ手やろ!」
「そうだな」
「拓飛、お前あの燕児ちゃんを倒した『浸透勁』て技の打ち方、教えてくれやあ!」
燕児の名前を聞いた途端、拓飛が急に立ち上がった。
「な、なんやねん、急に立ち上がって……」
「斉……」
拓飛は虚空をボンヤリと見つめたまま、ボソリと呟いた。
「燕児と結婚する事になった」
「————ハア?」
およそ『拓飛』と『結婚』という言葉が結び付かない斉は素っ頓狂な声を出すと、耳をほじって改めて聞き直した。
「……スマン、よう聞こえへんかった。燕児ちゃんと何をするて?」
「結婚だ」
「ケッコンて、誰が?」
「俺だ」
「お前が、誰と?」
ここで拓飛は斉に向き直ると、
「俺が、燕児と、結婚を、する事に、なった!」
斉の眼を見ながら、一言ずつ区切ってハッキリと口にした。あまりの迫力と衝撃に斉は椅子からズリ落ちてしまった。
「……ホ、ホンマに言うてんのけ? それ……」
「冗談でこんなコト言うかよ」
「そら……オメデトさんやけど、何がどないなったら、そないブッ飛んだ話になんねん……⁉︎」
拓飛は再び椅子に腰掛けると、顔の前で指を組んだ。
「燕児の母ちゃんが俺の左腕の事を何か知ってるようで、ソイツを教える代わりに燕児と結婚しろってよ」
「……お前はそれでええんか? いくら左腕を治すためや言うても……それに、凰————」
「————そんなんじゃねえっ!」
何も拓飛は突然去って行った凰華に対する当て付けや、左腕のためだけに燕児を娶る事を了承した訳ではない。
いくら女心に疎いとはいえ、拓飛とて木石ではなく、燕児の自分に向けられた好意には薄々と気付いていた。また、先ほど燕児が太鳳に叩頭して懇願する様を見て、その真心に応えてやりたいという気持ちが芽生えたのである。
燕児はそこらの男よりも腕が立ち、自分の背中を安心して任せられるし、女らしい細やかな気配りや思いやりも持ち合わせている。二人で神州中を飛び回って、妖怪退治などをすればさぞや痛快だろう。
「……アイツの、燕児の気持ちに応えてやりたくなっちまったんだよ……! なんか文句あっか⁉︎」
拓飛は照れ臭そうに言うが、その表情はどこか吹っ切れた様子でもあった。斉は拓飛の表情を認めると、フーッと息を吐いた。
「……せやったらええわ。ワイはもう、なんも言わへん」
珍しく斉は真剣な面持ちで言葉を続ける。
「ワイも大した人生を生きてへんけど、世の中っちゅうんは結局『縁』なんやと思うで。お前とあの娘は『縁』が無かったんや。これからは精一杯、燕児ちゃんを幸せにしたれや」
「斉…………、おめえ、変なモンでも食ったのか?」
「カーッ! お前っちゅうヤツは、せっかくこの斉さまがビシッと決めたったのに見事に台無しにしてくれよんな! 最悪や!」
悪態をつきながらも拓飛と斉は眼を合わせると、ニッと笑顔を見せた。
その時、扉を叩く音が聞こえ、子雀が部屋に入ってきた。
「凌さま、燕児姉さまが中庭でお待ちしております。恐れ入りますが、御足労願えますか?」
てっきりまた、このかしましい小娘にからかわれるかと思った拓飛だったが、予想に反して子雀は真顔で、からかいの色などは微塵も見られない。
「お、おう。分かった」
拓飛は返事をすると、そそくさと部屋を後にした。
山荘の外に出ると、辺りは夕陽に染められており、遠くの空から烏の鳴く声が聞こえる。
中庭を散策すると、小さな池の前に女がひとり立っているのが見えた。
「燕児……」
拓飛の声に燕児が振り返る。夕陽に照らされた燕児の顔は、えも言われず美しい。
「拓飛……」
燕児は瞳に映る男の名を呼びかけるが、何かが喉につっかえているようで言葉が続かない。
「どうした?」
拓飛が優しく声をかけると、意を決したように燕児が口を開く。
「……本当に、私でいいのか……?」
「…………」
拓飛の答えを聞く前に、燕児が言葉を続ける。
「師父の言われた事なら気にしなくてもいいんだ。あんな……条件を飲まなくても、どうにかして私が師父から聞き出してみせる」
燕児がぎこちない笑顔を見せると、拓飛は肩をすくめた。
「そんなの関係ねえよ。おめえが、俺みてえな左腕がバケモンのゴロツキが嫌じゃなけりゃ無問題だぜ」
「人の皮をかぶった人面獣心の輩はいくらでもいるが、お前は違う」
「よせよ。俺はそんな大した人間じゃねえ」
「————そんな事はない!」
珍しく燕児が肩を震わせ、大きな声を上げた。
「……私こそ、お前が思っているような人間じゃない。卑怯な女なんだ……!」
うつむいて肩を震わせる燕児は、武術など出来ない普通の娘のようにか細く儚げに見えた。拓飛はゆっくりと近づくと、燕児を優しく抱きしめた。
「よ、よせ拓飛、蕁麻疹が…………」
燕児は顔を赤くして振り払おうとするが、拓飛は無言で力を込めて自由を奪った。徐々に抵抗する力が失われていき、燕児は両手を拓飛の背中へそっと添えた。
ほのかに蕁麻疹のかゆみが首筋に感じられるが、拓飛は燕児を抱きしめる手を離さない。
(……これでいいんだ。これで…………!)
混ざり合った若い男女の影は、闇夜に溶けるまで離れる事はなかった————。
———— 第二十六章に続く ————




