第二十五章『紅霞島(四)』
太鳳が空中で両の腕を広げると、まるで鳳凰が羽を広げて降臨したかのようで、美しくも凄まじい圧迫感が掌門の間を覆い尽くし、拓飛はビリビリとした重圧をその身に受けた。
燕児は突然、母がこのような振る舞いに出た事に驚愕しつつも声を上げた。
「————師父! 何故このような事をなさるのです!」
「うるさいねえ、妖怪を滅するのは仙士の役目だろう?」
「————…………!」
太鳳の返答に、燕児は返す言葉がない。以前、拓飛と初めて会った時、己も全く同じ事を言い放ったのである。
師父に逆らう訳にはいかず、かと言って拓飛に加勢する訳にもいかず、燕児は立ち尽くす事しかできない。
「燕児、危ねえから下がってな」
「拓飛……」
呆然と立ち尽くす燕児に拓飛が声を掛ける。
「女と闘るのは気が進まねえが、挑まれたら断れねえんだよ、俺は……!」
「……無理だ。いくらお前が強くとも、師父には勝てない……!」
「闘る前から負けるコト考える馬鹿がいるかよ! いいから離れてろ!」
拓飛の眼は大きく見開かれ、強敵との闘いを心待ちにしているようであった。
「いーい心がけだねえ。それじゃあ、始めようか……!」
太鳳がゆらりと前傾姿勢を取り、照準を獲物に合わせた。
「師父、待っ————」
燕児が声を発したと同時に、太鳳の身体が光の矢となって拓飛のそばを通り抜けた。遅れたように暴風が部屋中に吹き荒れ、燕児は眼を開いている事が出来ず、吹き飛ばされないように踏ん張る事が精一杯であった。
徐々に風が止み、燕児が眼を開けると辺りには氣の粒子が無数に漂い、まるでどこからか蛍の群れが現れたようである。
数秒後、氣の粒子が晴れ、燕児が眼にしたものは先ほどまでと打って変わって気の抜けたように突っ立った拓飛と、その背後で脚を組みながら笑みを浮かべた太鳳の姿であった
「……どうして躱さなかったんだい?」
「当てる気がねえ攻撃を躱す必要はねえだろ」
「おや……ほぉ?」
「目線、筋肉の動き、氣の流れ、全部嘘っぱちだ。躱すのもめんどくせえ」
拓飛がつまらなさそうに言うと、太鳳はゆっくりと振り返り、
「————アッハッハッハ! 流石だねえ、凌拓飛!」
「アンタの狙いは、コイツを確認するためだったんだろ?」
拓飛も振り返り、左腕を掲げた。見れば、その腕は人間のものに戻っている。
「いちいち説明せずに済んで助かるよ」
太鳳は笑みを浮かべたまま答える。
「それで? コイツの正体をアンタは知ってるのか?」
「そうだねえ……」
脚を組み替えながら、太鳳は視線を拓飛の左腕に送る。
「お前はどこまで知ってるんだい?」
「西王母のバアさんによると、『原初の仙人』の中の『邪仙』ってヤツの遺伝子のせいだって話だ」
「そこまで知っているとなると、話が早いねえ……」
太鳳はなんだかんだと勿体つけて確信に触れようとしない。痺れを切らした拓飛が声を荒げる。
「————グダグダと勿体ぶってんじゃねえ! 知らねえなら知らねえってさっさと言いやがれ! 俺には時間がねえんだよ‼︎」
最初は手首までだった虎手が、今は肘の先まで侵蝕されている。普段はおくびにも出さない拓飛だったが、内心ではいつ自分が人ではなくなるかも知れないという恐怖と必死に戦っていた。
「落ち着け、拓飛。無礼だぞ」
燕児は興奮する拓飛をなだめると、太鳳の前へひざまずいた。
「……師父。私からもお願い致します。何かご存知ならば、ご教授ください……!」
「燕児……」
燕児は絞り出すように言うと、心を込めるように叩頭した。自分のためにここまでしてくれる燕児の顔を潰す訳にもいかず、拓飛はひざまずくことまではしないものの軽く頭を下げた。
「……頼む……!」
太鳳は頭を下げる娘と凶暴な若虎を無言で見下ろすと、ゆっくりと口を開いた。
「————一つ条件がある」
この言葉に拓飛と燕児が同時に顔を上げた。
「なんだ、その条件ってのは⁉︎」
「なんでもします! 教えてください!」
異口同音に二人が口を開く。太鳳は眼を細めると、燕児を指差した。
「…………条件とは、その娘を娶る事だ」
『————なっ……!』
あまりに予想外の言葉に、思わず拓飛と燕児は顔を見合わせた。普段あまり表情を変えない燕児の顔がみるみる内に赤みを帯びてくる。
「師父、この期に及んでそんな冗談はやめてください……」
消え入るような声で、燕児がようやく声を絞り出した。
「冗談じゃないさ。拓飛、お前は燕児に勝ったんだろう? その娘を娶る資格はある」
「……朱雀派の掟ってのは強え男にガキを産ませるだけじゃなかったのか?」
拓飛が静かに口を開くと、太鳳は遠い眼になり、
「……以前、私には可愛がっていた妹弟子がいた。その娘がある日、二人の男に求婚されてねえ、その内の一人と心が結ばれたんだが、当時の私たちの師父はどうしても結婚を許してはくれなかった。結局、二人は駆け落ちのように飛び出して行ったのさ。あの時の私は妹弟子に何もしてやれなかった。それが心残りでねえ……」
そう言うと、太鳳は燕児の顔を優しく見つめた。その表情は先ほどまでとは打って変わった、まさしく愛娘を包み込む母親のそれであった。
「掌門失格だが、娘には愛する男と幸せになってもらいたんだよ」
寡黙で表情の乏しい娘が帰って来るなり、男の取り次ぎを必死に頼んできたのである。先ほどの叩頭で娘の心情を確信した。母親として娘の意に叶う事はなんでもしてやろうという気持ちになったのだった。
「師……母さま……!」
普段は師父と弟子の関係でしかなく、初めて母の愛情に触れた燕児の眼に涙が溢れ出る。
黙って母娘の様子を見ていた拓飛が沈黙を破った。
「娘を俺に嫁に出すとなると、青龍派の奴らと揉めるんじゃねえのか?」
「最初から青龍派なんぞ相手にしちゃいないさ。お前が気にする事じゃないよ」
太鳳は拓飛に向き直ると、言葉を続けた。
「さあ、返事を聞かせてもらおうか……?」
拓飛は何か考え込むように眼を閉じた後、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は————」




