第二十五章『紅霞島(三)』
応接間から出て来た拓飛の姿を目撃すると、朱雀派の門人たちは再び色めき立った。拓飛は余計な揉め事に巻き込まれないよう、足早に『紅霞山荘』を後にする。
入り口から外に出て、改めて岩山を仰ぎ見ると、かなりの高さである。燕児は一足飛びで風に乗り、そのまま一気に頂上まで登って行ったが、軽氣功の使えない自分では、途中で幾度か足を掛けなければならないだろう。
「……思いっきり跳躍すんのは、あの猴野郎と会った街以来か」
拓飛は丹念に膝の屈伸を行うと、全身に氣を巡らし地面を蹴った。
瞬く間に数十丈の高さに達し、思わずその口に笑みが漏れた。
(————よし、あの時より跳躍力が上がってるな)
自らの成長具合に満更でもない様子で笑った時、身体の上昇が止まり、瞬時に重力が襲い掛かる。ちょうどいい具合に目の前には朱雀派の門人の住居があり、窓からは女がひとり茶をすすっている姿が見えた。
拓飛が窓の縁に足を掛けると、女は驚いた様子で持っていた湯飲みを落としてしまった。
「驚かせて悪いな」
拓飛はニッと牙を見せると、窓枠を足掛かりに再び頂上へ向けて跳躍する。このように数度跳躍を繰り返し、数分後には頂上へ到達した。
岩山の頂上にはこじんまりとした屋敷がポツンと建っているだけで、他には何も無い。門が開かれているのを認めると、拓飛は何の躊躇も見せず大股で敷居を跨ぎ、玄関の扉に手を掛けた。
中に入ると、見慣れた顔が立っていた。
「よく来たな、拓飛。さあ、こっちだ」
燕児が拓飛を先導して奥の間へ案内すると、中には背を向けた女が座っている姿が見えた。
————しかし、女の尻の下には在るべきはずの物が見当たらず、まるで視えない椅子に腰掛けているかのように、その身体は宙に縫い止められていた。
「ほぉ、思ったより早かったねえ。燕児を倒したと言うのも嘘ではなさそうだ」
女は宙に腰掛けたまま、ゆっくりと振り返ると、感心した様子で拓飛に話しかけた。
(……燕児は宙に留まる事まではできなかった。この女が朱雀派の掌門か、確かに門人とは格が違うみてえだな……)
拓飛は改めて女を観察した。歳は三十代くらいだろうか、彫りが深い顔立ちに褐色の肌、燕児とよく似た風貌だが、威圧感は桁違いなものを感じる。
「アンタが朱雀派の掌門だな?」
一派の頭に対して不躾な事この上ない拓飛の物言いだったが、女————朱太鳳————は特に咎める様子もなく、
「そうだ。そして、そこの燕児の母親でもある」
「ふーん、母ちゃんってより、姉ちゃんみてえだな」
何気なく拓飛が呟くと、太鳳は相好を崩した。
拓飛としてはおべっかのつもりは毛頭なく、思った事を率直に言ったまでなのだが、どんな女であろうと年齢を低く見積もられて気を悪くする者はいない。それが世辞ではなく、心の声が漏れたものであったなら尚の事である。
「姉だって? そう見えるかい?」
「ああ、見た目には西王母のバアさんと同じくれえに見えるが、アンタは見た目と実年齢があんま離れてなさそうだ」
「白虎派の掌門か。仙女のように美しいとの噂だ。一度お眼に掛かりたいものだねえ」
下手に出ているような口ぶりだったが、その実、美貌を比べたがっているようにも聞こえた。
「そいつはやめといた方がいいな」
「どうしてだい?」
少し不服そうに太鳳が尋ねると、拓飛は両腕を広げた。
「ツラがどんだけ良かろうと、腹ん中じゃどんな悪巧みを考えてるか知れたモンじゃねえからだ」
「アッハッハッハ! 言うねえ、気に入ったよ。凌拓飛!」
拓飛の言葉に太鳳が高笑いを上げた。母が大声で笑う事など記憶にない燕児は驚きを隠せないが、表には出さずそのまま黙って待機する。
ひとしきり笑うと、太鳳は真顔に戻り、
「……それで、お前が私に訊きたい事とは、その左腕の事だろう?」
「そうだ」
「聞くところによるとお前の左腕は妖怪に遭遇したり、身に危険が迫ると虎のようになるらしいねえ」
「随分詳しいな」
「青龍派の連中から要請があったのさ。『白髪赤眼の風貌を持つ凌拓飛なる者、身に妖虎を宿す凶悪な存在なり。見つけ次第、退治されたし』ってね」
青龍派と聞いて、拓飛の赤眼が鋭さを増した。
「そんな話は聞いておりません、師父」
拓飛が口を開く前に、燕児が声を上げた。
「それはそうだろうさ。まだ門人には伝えていないからねえ」
「……んで? アンタらは青龍派の奴らの言う事をペコペコ聞くのか?」
黙って聞いていた拓飛が、皮肉をたっぷり利かせて問いかける。
「そうだねえ……、今ここでもう一度燕児と立ち合わせるのも面白そうだけど……!」
「————ッ!」
突如、太鳳の眼が見開かれ、凄まじい氣の奔流が掌門の間に立ち込めた。
「————拓飛ッ!」
見れば、拓飛の左腕が肘の先まで虎と化している。燕児は驚愕の声を上げた。
(あれが拓飛の『虎手』か…………!)
話には聞いていたものの、実際に眼にすると、あまりの凶々しさと美しさに、惹きつけられる感覚さえ燕児は覚えた。
「てめえ……っ!」
拓飛は左腕を押さえながら、血走った眼で太鳳を睨みつける。
「……久方ぶりに仙士の任務と洒落込んでみようかねえ……!」
太鳳は空中で立ち上がると、構えを取った。




