第十八章『隠士捜索(二)』
突然現れた白髪の若造の口から岳という名が飛び出すと、つい先ほどまで和気藹々とした雰囲気だった食堂の中は、一気に戦場の如く張り詰めた空気に包まれた。
村民たちは全員血走った眼で立ち上がり、店主に至っては包丁を握りしめている。拓飛の前の立つ男はボキボキと拳を鳴らした。
「ガキぃ……! どこからその話を聞きつけたか素直に吐くなら、半殺しで勘弁してやるぜ」
男は筋骨隆々でケンカ自慢のようだが、内功を体得している様子はない。
「拓飛! 手を出しちゃダメよ!」
凰華が血相を変えて呼びかけると、拓飛は菩薩のような笑顔を向けた。
「……なーに、手は出さねえよ」
拓飛がヨソ見をしている間に男が拳を放った。誰もが鈍い音と共に白髪の若造が吹っ飛ぶと思ったが、予想に反して聞こえて来たのは、ボキっという甲高い音と男の情けない叫び声だった。
「————うぎゃああああああァァァァッ‼︎」
男は拳を押さえて、その場に跪いた。見れば指が五本ともあられもない方向を向いており、明らかに骨折している。
「な? 手は出してねえだろ?」
拓飛は悪い笑顔のまま両腕を広げて見せた。凰華は額に手を当てて、ため息をつく。
「そういう事じゃないでしょ……」
「虎の尾を踏みよったんや。あの程度で済んだら儲けモンやろ」
斉がニヤつきながら言うと、拓飛はうずくまる男の肩をポンと叩き優しく語りかけた。
「おーおー、こりゃ大変だ、拳が折れちまったなあ。じゃあ今から岳先生のとこに行って、その怪我を治してもらおうぜ?」
「う、うう……」
男は立ち上がると、ほうほうの体で食堂から出て行った。
「なにボサッとしてんだ、お前ら。アイツを追っかけんぞ」
拓飛が凰華と斉に呼びかけると、三人は男に続いて食堂を出る。食堂に残された男たちは唖然とした表情を浮かべるばかりで、誰も白髪の若造を追い掛ける者はいなかった。
男は食堂から出ると鎮の外れへと走り出した。拓飛たちは男の後をゆっくりと追い掛ける。
「ねえ、拓飛。どうして、あの人たちは岳先生の名前を聞いた途端に殺気立ったの?」
「それ、ワイも聞きたいわ」
凰華と斉が尋ねると、拓飛は走りながら答える。
「ああ岳のオッサンはな、住処と決めた鎮を見つけると、まずそこの重病人やら大怪我人を治しちまうんだ。無料でな。で、『今後もどんな怪我人だろうが治療費はいらねえ』と言う。そうすっと、どうなると思う?」
「医者にかかるとエラいカネが掛かる。タダで治してくれるんやったら、鎮ぐるみで囲うやろな。それが凄腕の医者やったら尚更や。せやけど、タダより高いモンは無いんやで?」
斉の返答に拓飛はニッと笑った。
「そうだ。助けられた鎮の奴らはオッサンを逃さねえために住む家を与えて、食いモンや着るモンなんかの世話を始める。そこでオッサンはこう言うんだ。『もし自分を訪ねて来る者が一人でも現れたら即刻出て行く』ってな」
拓飛の言葉に凰華が手を叩いて口を開く。
「あっ、だから別の鎮で岳先生が居るって言われた時は、人違いだってすぐに分かったのね?」
「そういうこった。オッサンに尋ね人が来てるなんて事が耳に入っちまったら、出て行かれちまうからな。前を走るあの野郎のように、絶対に居るなんて事は言わねえ。だから逆に居るってのが分かったんだ」
そうこうしている内に鎮の裏山の近くに小さな屋敷が建っているのが見えた。男は躊躇なく敷地に入って行く。
「どうやらアレだな。あの家にオッサンがいるはずだ」
「でも、どうして人が訪ねて来たら姿を消したりするのかしら?」
「さあな。俺も以前に訊いてみたけど、のらりくらりと躱されちまった。今にして思えば白虎派のしがらみが関係してるのかもな」
男は屋敷の玄関を折れていない方の手で乱暴に叩くと声を上げた。
「岳先生、岳先生! 俺の拳が折れちまったんだ! 早く治して下せえ!」
塀の陰から三人が固唾を飲んで見守ると、数十秒後ギィと扉が開き、中から気怠そうな女の声が聞こえて来た。
「……うるさいねえ。大の男が拳が折れたくらいで、ギャーギャー騒ぐんじゃないよ」
この声を耳にした凰華の口から思わず心の声が漏れた。
「えっ……? 岳先生っておじさんじゃなかったの……?」




