第十章『邂逅(二)』
血の海に佇む男は青い外套を身に纏い、こちらに背を向けていた。
拓飛が妖怪の死骸に眼を向けると、全てバラバラに寸断されており、原型を留めているモノはいなかった。その傷口は何か鋭利な刃物で切り裂かれているようだったが、奇妙な事に男は何の得物もその身に帯びていない。
意を決して男に近づくと、拓飛は恐るべき事実に気が付いた。先程の左腕の反応から、この鏖殺は数瞬の内に行われたはずにも関わらず、男の外套には一点の返り血も散っていないのである。拓飛は警戒を緩めず男に話しかけた。
「おい、これはおめえがやったのか?」
ゆっくりと男が振り向くと、拓飛は思わず息を飲んだ。
————どんな大家にも描き表す事ができない、完全な美がそこにはあった————。
歳の頃は十七、八だろうか、切れ長の瞳に長い睫毛、すらりと通った高い鼻に薄い唇。青年を構成する一つ一つが、完璧な取り合わせで配置されていた。しかし、青年の顔には何の表情も浮かんでおらず、どこか石像のような冷たい印象を与えた。
拓飛は一瞬、時が止まったような感覚に陥ったが、我に返ると再び青年に問い直した。
「おい、聞いてんのか! おめえに言ってんだぜ!」
「…………」
青年は無言のまま拓飛の顔を見回すと、視線を左腕に移した。
「……その左腕、尋常じゃないね」
言い終わりに青年が腕を動かすと、光が走り拓飛は眼が眩んだ————。
「もう、拓飛ってば、いつも一人で突っ走るんだから……」
文句を言いながら凰華が丘を越えると、ボトリと足元に何かが落ちた。
————それは人間の左腕だった。
「————グアァァァァァぁッ‼︎」
狂虎の咆哮が山々に木霊すると、凰華の瞳に、左腕を切断され叫び声を上げる拓飛の姿が映った。拓飛の傍らには青い外套の青年が立っており、その右手には光り輝く剣が握られていた。
青年はうずくまる拓飛を無表情のまま見下ろすと、ゆっくりと右腕を振り上げた。
「左腕以外は人間のようだけど、一部分でも妖怪であるなら君は生きていてはいけない存在だ……」
「————やめて‼︎」
今にも剣が振り下ろされようとした時、凰華が拓飛の前に両手を広げて立ち塞がった。その眼には足元に転がる無数の死骸も入っていないようだった。
「すまないが、どいてくれないか。君がいては斬れ————」
うつむいていた凰華が顔を上げると、青白い青年の顔に赤みが刺し、驚きでその眼が見開かれた。
「君は……、いったい……!」
凰華の顔を認めた青年は、何故か剣を振り上げたまま固まってしまった。
「————うおおオォォォォッ‼︎」
突然、拓飛が絶叫すると、地面に落ちた左腕がブルブルと震え出し、虎化した。虎手は絶叫に呼応するように独りでに浮かび上がると、矢のような速度で拓飛の切断された左腕に戻って行った。
左腕を取り戻した拓飛は凄まじい形相になると、心配で駆け寄ってきた焔星と凰華を振り払い、青年に襲い掛かった。
「拓飛‼︎」
凰華が止めようと声を掛けるが、拓飛の耳には届かず、連続で虎手を振るう。拓飛は正気を失っているのか、技にいつものような精密さは無く、大振りで単調な攻撃であった。青年は悠々と躱すと、隙を見て反撃の一閃を虎手に突き刺した。
しかし、拓飛は掌を突き刺されながら光の剣をガッシリと握りしめると、空いた右拳を青年に向かって打ち出した。
拓飛の拳が胸に命中すると思われた刹那、青年が右腕の力を緩めると光の剣は消え去り、とんぼ返りをして距離を取った。
「————龍悟!」
その時、龍悟と呼ばれた青年の背後から、同じ青い外套を纏った四人の男女が姿を現した。
「……慶、大丈夫だ。手を出さないでくれ」
龍悟は先ほど声を上げた女性——慶——を後ろ手で制すると、小さく息を吐き、今度は両手に光の剣を発現させた。
「……この妖虎は僕が斬る……!」
低く呟いたのち、龍悟は凰華の方へ視線を向けると一転して優しく語りかけた。
「危ないから君は退がっていてくれ。そこの馬も妖怪の血が混じっているね? 一緒に斬り殺してあげよう」
龍悟は微笑を浮かべた。こんな美しい笑顔を凰華は向けられた事が無い。年頃の女性が龍悟に微笑まれると、きっと誰もが虜にされてしまうだろう。しかし、凰華の背筋には冷たいものが走った。
「どこ見てやがる! スカシ野郎‼︎」
再び拓飛が龍悟に襲い掛かった、その時————どこからともなく周囲に甘い香りが立ち込めた。
「何これ……! 桃の香り……⁉︎」
桃の香りを少し吸い込んだ凰華はクラリと足元がふらつくのを覚え、慌てて袖で顔を覆った。
思い切り吸い込んでしまった拓飛は、意識が遠くなりドスンとその場に倒れ込む。
「拓飛! しっかりして‼︎」
凰華が拓飛の側に駆け寄ると、ただ眠っているようで、毒に中った様子は無い。
「龍悟、これは……」
「吸い込むな。西王母の術だ」
龍悟は慶と呼ばれた女性の近くに歩み寄ると、顔をしかめて言った。
『青龍派のご門人よ、よくぞ白虎派まで参られた。この西王母、歓迎致すぞ』
突然、西の空から艶めかしい女の声が響いてきた。不思議な事に女の姿は見えないのに、その声だけが耳元に届いて来るのである。
龍悟は声のする方へ包拳すると、大声で呼ばわった。
「西王母さま! 私は青龍派、第七世代の弟子、黄龍悟と申します。此度は貴派にお招きいただき恐悦にございます!」
龍悟の声にも氣が込められており、彼方まで響いていたが、その声は距離が離れるほどに徐々に小さくなっていき、先程の女性のようにまるで耳元で聞こえるようなものではない。西王母と名乗った、この女性の内功の深さはいかばかりなのか、凰華には見当も付かなかった。
「すぐにでもお伺い、直接ご挨拶をさせていただきたいのですが、しばしお待ちを! 今、残りの妖怪を片付けますので!」
龍悟は振り返ると昏倒する拓飛に向かって剣を構えたが、西王母はまるで、その声が聞こえているかのように返答する。
『我が門派の管轄内の妖怪を片付けてくれた事、礼を申そう。じゃが、その猛虎のような小僧と白馬は白虎派の弟子じゃ。それには及ばぬ』
「……この者たちには明らかに妖怪の血が混じっております。それをかばい立てなさるとは。我が師父にはありのまま報告致しますが、よろしゅうございますか?」
『構わぬ』
龍悟は納得がいかない様子だったが、白虎派の掌門にこうも言い切られてしまっては、これ以上反駁はできない。剣を消滅させると拓飛に背を向けた。
その瞬間、拓飛がガバッと起き上がると、左腕の爪を龍悟に向けて振り下ろした。
油断していた龍悟の反応が遅れ、爪がその身を切り裂くと思われた刹那、眼に見えるほど濃い桃色の霧が拓飛の全身を包み込む。拓飛は膝から崩れ落ちて今度こそ完全に動かなくなった。
『ホッホッホ! 何たる小僧じゃ! 妾の桃氣を一息でも吸い込めば、並の妖怪であれば数日は昏倒すると言うに!』
西王母の声は愉悦に震えているようだった。
「……行くぞ」
龍悟は拓飛と凰華の顔を順に見回すと、仲間を引き連れて声のする方へ行ってしまった。
気がつくとすでに陽が暮れかけている。残された凰華は拓飛の様子を窺うが、死んでしまったかのように動かない。
『娘よ……。心配は要らぬ。その馬に乗って妾の元へ参るが良い』
途方に暮れている凰華の耳に、西王母の声が優しく響いた。
———— 第十一章に続く ————




