第九章『真氣開放(四)』
戸口から姿を現したのは、何の変哲も無い『花』であった。
————人の背丈よりも大きく、根で歩行している点を除いては————
その『花』は毒々しい赤紫色をしており、蕾の状態であったが強烈な異臭を放っていた。
驚愕した凰華が声を出せずにいると、花はピタリと歩行をやめ、幾度かブルブルと振動した後、突如花びらがガバッと開かれた。
先ほどとは比べものにならない臭気が廃廟の中に立ち込める。思わず顔を背けた凰華が視線を戻すと、花びらの中心に青白い少女の顔があった。
「みつぅけたぁぞぉ……!」
どうやらこれが先ほどの妖怪の真の姿らしい。凰華は異臭とおぞましさで気分が悪くなってきた。妖怪は座り込む拓飛の姿を認めると、不気味な笑みを漏らす。
「フフ……、さっきの仙士より注入した毒が少なかったせいか。だが、虫の息のようだな」
妖怪は今、拓飛が必死に毒を追い出そうとしている事にまだ気付いていない。自分が内功を開放された事にも気付いていないだろう。どちらも絶対に勘付かれてはいけない。
————妖怪を仕留める好機は一度きり————
妖怪は自分の事などまるで眼中に無いかのように、拓飛の方へ歩を進める。凰華は妖怪が自分に背を向けた瞬間に全てを懸ける決意をした。
凰華の横を通り過ぎて、今にも妖怪が背を向けようというところで、ピタリとその動きが止まった。
「……どうして俺が近づいているのに何の反応もしない? まさか内功とやらで毒を追い出そうとしているのではないだろうな……?」
凰華はすでに拳を構えていたが、妖怪の言葉に、打ち出す機を逸してしまった。
「以前に殺した仙士が、俺の目の前で座り込み、そんな事を始めていた。毒で死のうが死ぬまいが、結果は変わらなかったのだがなあ」
妖怪に気付かれてしまったが、凰華のする事に変わりはない。妖怪が背を向けた瞬間に、渾身の一撃を叩き込むだけだ。
その時、雲に隠れていた月が顔を覗かせ、ボロボロになった廃廟の天井から月光が注ぎ込まれた。神秘的な光が拓飛の身体を照らし、凶々しい左腕があらわになった。
妖怪は拓飛の虎手を眼にすると驚愕の表情を浮かべた。
「——そ、その腕は! まさか、し————」
妖怪は驚愕のためか言葉が詰まったが、すぐに興奮した面持ちになった。
「……素晴らしい……! こいつの力を手に入れれば、俺は至高の境地に辿り着ける……‼︎」
(この妖怪は拓飛の腕について何か知っているの⁉︎)
凰華は思わぬ所から拓飛の左腕の手がかりが出てきた事で、このまま退治していいものか迷いが生じたが、放っておけば、この妖怪はまず拓飛に手を下してしまう。手がかりは大事だが、拓飛の命には代えられない。凰華は迷いを捨て、改めて拳を打ち込む機を窺った。
しかし、妖怪は凰華の予想とは裏腹に、こちらを振り返るとニタリと下卑た笑みを浮かべた。
「娘……、その様子だとお前も内功を覚えたな?」
この言葉に凰華の心臓が早鐘の如く鳴り始める。
「俺はお前たちのように氣の流れだの何だのは分からんが、今まで何人もの仙士を喰らってきたんだ。仕草で分かるぞ」
妖怪は拓飛に背を向け、凰華の方を向き直った。
「お前を伝言役にして仙士を誘き出そうと思っていたが、この小僧の力が手に入れば、そんな必要も無くなった。小僧はすぐには動けんだろう。まずはお前から喰らってやる……!」
妖怪が凄まじい形相でゆっくりと迫ってくる。凰華は覚悟を決めて掛け声と共に右拳を繰り出した。
しかし、妖怪はその巨体からは想像もできないほどの速度で突きを躱すと、根をシュルシュルと伸ばし凰華の身体を吊し上げた。
眼を閉じてこの様子を窺っていた拓飛の表情が苦悶に歪む。
(あの馬鹿、躱されやがった……!)
拓飛はすぐにでも立ち上がり凰華を助けに行きたかったが、ここで氣の運用を止めてしまうと、せっかく下半身に集めた毒が逆流してしまう。拓飛は毒を早く追い出せるように氣の流れを強めたが、精神が揺らぐと却って毒は滞ってしまった。
その間にも妖怪は吊し上げた凰華を自らの頭部の方へ引き寄せた。嬉しそうな表情を浮かべると、妖怪の口がバカッと大きく開かれる。
「さあ、喜べ。お前も俺の力の一部となれるのだ……!」
「……やっぱり油断したわね。人間を甘く見たのが、あんたの敗因よ」
「何?」
凰華は渾身の力を込めて右脚を妖怪の頭部に叩き込んだ。
「グギャアァァァァッ‼︎」
またも妖怪がこの世のものとは思えぬ叫び声を上げた。根の拘束が緩み凰華は地面に投げ出されたが、今の蹴りで氣を使い果たしたため、起き上がろうにも身体が言う事を聞かない。
(効いたの⁉︎ あたしの攻撃はあいつに通じた⁉︎)
なんとか顔を上げると、妖怪の左頭部が消し飛んでいたが、残った右眼で己を見下ろしている。その姿に凰華はゾッとした。
「……やってくれたな、小娘……! だが、ここまでだ。これしきの傷など、小僧を喰らえば————」
「誰を喰らうって?」
突如、爆竹が破裂したような音と共に妖怪の花びらが枯れ落ち、胴体部分が根っこごと消し飛んだ。今度は声にならない叫び声を上げて、妖怪の頭部が凰華の眼の前に落ちた。顔を上げると、眼に飛び込んできたのは右拳を突き出した拓飛の姿だった。
「——拓飛‼︎」
「おめえが時間を稼いでくれたおかげで、なんとか間に合ったぜ」
凰華が安堵の表情を浮かべると、拓飛は不敵な笑みで応える。
「それにしてもやるじゃねえか。一撃目を躱された時はどうなるかと思ったぜ」
「うん。妖怪を油断させるために一撃目は外そうと思ってたの。細かい氣の制御は出来ないけど、一撃目には力を込めなかったのよ」
「上出来だぜ。さてと……」
拓飛は妖怪の頭部を踏みつけると、見下ろしながら声を掛けた。
「おい、花野郎。てめえさっき、この左腕の事を知った風だったな? 知ってる事を洗いざらい吐け。そうしたら苦しまずに消してやる」
妖怪は恨めしげな眼で拓飛を睨みつけていたが、ゆっくりと口を開いた。
「……その左腕は……」
永遠とも思える時間が流れ、凰華は次の言葉を固唾を飲んで待った。
「————教えてやらん……‼︎」
拓飛はギリッと歯噛みすると、踏みつける足に氣を込めた。妖怪が声も無く消え去ると、その場には数枚の白虎牌だけが残った。
「……残念だったわね、拓飛……」
「しゃあねえな。ま、こいつが知ってたって事は、他にも知ってるヤツがいんだろ。西に来たのは間違いじゃなかったな」
「そうだね。この牌は白虎派の人たちに届けてあげましょ」
「ああ」
そう言うと拓飛はその場に倒れ込んだ。
「さすがに今回は疲れたぜ……」
「そうね。あたしもなんだか眠くなって……」
二人はそのまま深い眠りに落ちて行った————。
二人が眼を覚ましたのは翌日の夕方だった。
しかし、身体の疲労感はまだ残っており、氣の消耗も相まって完全回復にはまだ数日の休養が必要なようである。
「ここに残っても仕方ねえ。泉安鎮に戻るぞ。あの旅籠で休んだ方が回復も早えだろ」
「それはいいけど、もし別の白虎派の人たちが派遣されて来て、あたしたちと鉢合わせたら、あの鎮の惨状をあたしたちの仕業と疑われないかしら?」
「それも狙いだ。白虎派のヤツらに総本山を案内させりゃ、わざわざ探し回らなくて済む。大人しく言う事を聞かねえ時は、ブチのめして従わせりゃいい」
凰華は揉め事は控えるべきだと思ったが、確かにこの廃廟より、今は旅籠で休んだ方が身体にも良いと考え直した。
二人は焔星を引き連れて泉安鎮に戻ると、曹慈功の遺体を埋葬して旅籠に入った。
旅籠の中には日保ちする食料がまだ少しは残っており、凰華が調理する。拓飛は内功の呼吸法や鍛錬法などを凰華に伝え、二人は消耗した氣の回復に努めた。
————しかし、一週間経っても白虎派の新手は現れなかった。
———— 第十章に続く ————




