第七章『帰郷(五)』
翌朝、拓飛は年配の使用人に起こされ目を覚ました。
『おはようございます。ぼっちゃま。こちらでお顔をお洗いください』
使用人は湯の張った盆を差し出した。いつも自分を起こしに来るのは小蛍の役目だったのだが、この使用人は見た事の無い顔だ。
『小蛍は?』
『存じ上げません。今日から私がぼっちゃまのお世話をするよう、旦那様から申し付けられました』
使用人は眼を合わさず無機質に返事をする。この屋敷に自分の眼を見て話してくれる者は誰もいない。
————小蛍ただ一人を除いて。
拓飛は寝台から飛び起きると祖父、堅宗の部屋に向かった。
『ジジイ! 小蛍はどこに行った⁉︎』
堅宗の部屋に駆け込むと、堅宗は小蛍の父である孝舟と何やら話しているようだった。
『何じゃ、お前は。着替えもせずに騒々しい』
『小蛍はどこだ!』
拓飛は再び問いただした。堅宗は孝舟と顔を見合わせ、口を開いた。
『小蛍はこの屋敷を出て行く。嫁ぎ先が決まったんじゃ』
その一言は拓飛の胸に雷のように突き刺さった。
『旦那様が小蛍には勿体ないほどの縁談を取り付けて下さったのですよ、ぼっちゃま。無論、小蛍も喜んで承諾しました』
孝舟が笑顔で言葉を繋いだ。
『嘘だ! そんな事あるもんか!』
拓飛は叫び声を上げると、二人を指差し、
『小蛍がそんな事を受け入れる訳ない! 小蛍は俺の髪をずっと梳いてくれるって言ったんだ! お前らが無理矢理小蛍に返事させたんだ!』
『ぼっちゃま、そのような事は————』
『うるさい! 直接小蛍に訊く!』
拓飛は部屋を飛び出すと、屋敷の部屋という部屋から敷地内を探し回ったが、小蛍の姿はどこにもない。
屋敷はとても広く、全てを探し終えた時にはもう夕刻になっていた。残る心当たりは、あそこしかない。
去年、鎮の近くにある山に小蛍と二人で花を摘みに行ったのだ。拓飛は狂ったように駆け出した。
山に向かって走っている間、昨日の小蛍とのやりとりが脳裏に蘇ってくる。
【これからもずっと俺の髪を梳いてくれるか……?】
【勿論です。これからも小蛍にぼっちゃまのお世話をさせてください】
(————どうしてだ小蛍! これからもずっと俺の髪を梳いてくれるって言ったじゃないか!)
陽が落ちる頃、拓飛は山に辿り着いた。
去年、小蛍と一緒に摘んだ花は、あの時と同じように咲き乱れていたが、そこに小蛍の姿は無かった。呆然とした拓飛は力が抜けて、崩れるように倒れ込んだ。自然と涙が溢れてくる。
『どうしてだよ、小蛍……!』
その時、近くの茂みがガサガサと音を立てた。拓飛は期待に胸を膨らませて起き上がり、茂みに眼を凝らした。
果たして茂みから現れたのは小蛍————ではなく、一頭の虎であった。
拓飛は逃げようとして身構えると、次の瞬間絶句した。
茂みから全身を現したその虎の背には、なんと『翼』が生えていたのである。
虎に翼————この世にこれ以上の危険な組み合わせがあるだろうか?
(妖怪……!)
拓飛は背を向けると無我夢中で駆け出した。枝や刺が身体を引っ掛けるのも構わず一心不乱に茂みの中を掻き分けて進んで行く。なんとか茂みから這い出ると目の前が急にパアッと光に包まれた。
『————拓飛ぼっちゃま!』
それは拓飛が今もっとも聞きたい声だった。提灯の明かりに照らされた、その美しい顔は紛れもなく小蛍だ。
拓飛の帰りが遅い事を心配した堅宗は、孝舟と数人の使用人を引き連れて、その行方を探していた。鎮に所用で出ていた小蛍に心当たりを訊いて、この山に駆け付けたのである。
拓飛は小蛍に抱きつくと、力の限り叫んだ。
『小蛍! どこにも行くな! 行かないでくれ!』
『ぼっちゃま……私は————っ危ない!』
拓飛は強い力で身体を引き寄せられると、小蛍と共に地面に倒れ込んだ。
『小蛍……?』
『……ごめんなさい、ぼっちゃま……もう、髪を梳いてあげられ、なくて…………』
それきり小蛍は拓飛に覆いかぶさるようにして動かなくなった。
『……小蛍?』
小蛍の背中を揺すると、その手は多量の鮮血で深紅に染まった。
目の前には虎の妖怪が、小蛍の血で濡れた己の爪をピチャピチャと舐めている。この光景を眼にした拓飛の中で何かがプツンと切れた。
拓飛はゆっくりと立ち上がると、
『————うああァァァァァッ‼︎』
絶叫と共に左腕を振るった。




