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春と夏の狭間で

別れを告げるは夢見草

作者: 徒然 シキ

お越しいただきありがとうございます!もう一度読み返したいと思っていただけるような作品になっていることを、切に願います。



 遅咲きの桜がはらはらと舞い落ちる。この桜吹雪の向こうに輝くのは、煌めく夏の訪れだ。しかしそれは、手を伸ばしても届かない星のように。ここではない、遥か遠くにあるのかもしれなかった。




*****




「春が終わるね」


 夜の公園のベンチに腰かけて、私は静かにそう呟いた。風に散りゆく桜が、電灯に照らされて煌めいている。別にどこか感傷的になっているわけではない。散る桜がただ綺麗だなと感じるだけだ。でも、彼は感受性が高い男性だから。この桜を見てどう思うのか、何を感じるのかが、少し気になった。話のネタでも提供してみようかなと思っただけだ。


「……あぁ。そうだね」


 しかし、隣に座る彼の反応は案の定鈍い。……あぁ、いや、別にいつも彼が淡泊なわけではないんだよ?むしろいつもなら積極的に話して……はくれないけど、話が盛り上がったりするのはよくよくあることなのだ。まぁ、彼がこうやって素っ気ない態度をとる時というのは、いつも決まって何かを悩んでいる時なのだ。どんな時でも自分だけで問題を抱えてしまう人だから、ここは歳上である私が話を聞いてあげなくては。


「なんか、こうやって二人で会うのも久しぶりな気がするね?」

「……そうだね、最近はお互い忙しかったから……」


 そう。そうなのだ。電話はそれなりにしていたとはいえ、ここ数週間は逢っていない。で、久っしぶりに逢えたんだからさ、ほら、もっとウキウキでいてくれてもよくない?もっと喜んでくれてもよくない?もー、そういうところ、不器用だよねぇ。まぁそういうところも可愛いからいいけど!

 っと。脱線するところだった。そう、彼の悩みが何なのかを探らなくては。直接訊いてみても、絶対正直に言わないだろうし。


「そっちの会社は順調?」

「ん?あぁ、この前のトラブルは何とかなったし、全然順調だよ。……どうかした?」

「い、いや、単に気になっただけだよ!順調ならよかった!」


 あ、怪しまれてる……!仕事関係の悩みかなと思って訊いてみたけど、流石に露骨だったか……。ま、まぁ、仕事の悩みではなさそうだし、とりあえずはよかったかな。ふむ、仕事以外での悩みだとしたら、何だろうか?友人関係でのトラブル?あんまり彼が巻き込まれるイメージはないけれど、訊いてみて損はないか。


「もう夏が始まるねー。夏休みどうするかとか、なんか考えてる?」

「……まぁ、まだまだ先の話だからなぁ」

「あはは、それもそうだね。でもほら、予定決めてたらさ、それを楽しみに頑張れるじゃん!友達とかと遊びに行くとかさ」


 そう言った瞬間、一瞬だけ彼の眉が寄った。あ、これ当たりだ。


「……ん、いや、そんな仲良い友達もいないし……。もしいたとしても彩花を優先するよ」

「ふふ、それはありがと」


 友人よりも私を優先すると言ってくれたのは、まぁ素直に嬉しい。でも友人関係に問題があるのなら、そこを何とかしなくてはならないし、場合によっては夏休みで友人と親睦を深めるのも重要だろう。まぁまずは悩みを聞こう。流石にピンポイントで指摘されたら、彼も話さずにはいられないはずだ。


「ねぇ、海斗。友人関係で何か悩みがあるんでしょ?ほら、溜め込んでないで吐き出していいのよ?私はあなたの彼女なんだから」


 決まった。これは決まったわ。これこそが全世界待望の最強お姉さんムーブ!これ一回やってみたかったんだよね!ほら、漫画とかでよくいる何でも知ってるお姉さん!くぅ!密かに憧れてました!この大人びた彼氏にやってやりたいって思ってました!どれどれ、気になる彼の反応は!?



「……え?ごめん、何の話?」



 あっ、これ、普通に的外れだったやつだ。




***




「あはははは!なるほどね、それで俺が悩んでると思ったのか!昔から思い込みが激しいところあるよね!」

「……」

「はー、面白すぎでしょ!なに、あのスーパーお姉さんみたいなセリフ!彩姉ぇには似合わないって!」

「……」

「ごめんごめん!笑いすぎた!謝るから、機嫌直して、ね?」

「……もう。せっかく心配してあげたのに」


 どうも話を聞く限り、悩んでいるというのは私の杞憂だったみたいだ。ただ単純に少し考え事をしていただけらしい。……まぁ、これも本当かはわからないけれど。この人は一番辛いことを隠してしまう人だから。絶対に何がなんでも隠し通してしまうから、私がどれだけ追求してもダメなのだ。……はぁ、こんな彼女で不甲斐ない。まぁ、一時的にでも元気になってくれたとプラスに捉えることにしよう。


「でも、そうだなぁ、夏かぁ。どこか行きたいところ、ある?」


 行きたいところ、かぁ。山ほどあるにはあるけれど、どうだろう。適当に言ってしまって彼を困らせることになっては困る。


「ん?また何か難しいこと考えてるでしょ。変なところ真面目だよなぁ、彩姉ぇって。ただの雑談だから、気楽に行こうよ、気楽に」


 うぅむ。私は彼のことを読み切れないのに、彼は私を読み切っているようだ。なんだか釈然としないなぁ。これでも歳上なんですけどもね。まぁ彼の言う通り、思いついたのをポンポン挙げていくことにしましょうか。


「うーんとねぇ、やっぱり花火は見たいなぁ」

「あぁ、花火ね、そういえば最近は行ってなかったなぁ。最後に行ったのは確か……」

「三年前だよ。川に花火が映るあの光景、綺麗だったなぁ。ね、いつかまた見に行こうね!」


 本当は花火に照らされる彼の横顔の方が素敵だったのだけど……それを言うのは流石に恥ずかしすぎるからやめておこう。


「あぁ、確かにあれは綺麗だったな。でも、彩姉ぇの横顔の方が綺麗だったよ」


 ……へ!?何言っちゃってくれてんの、この人は!ていうか、貴方そんなキャラじゃなかったでしょう!しれっと言ったけど、自分が何言ったか本当にわかってんの!?な、何が起こってるんだ……!う、ぐぐぐ……何とかしてこのニヤケを止めないと。流石に恥ずかしいし、何か悔しい。


「そ、そう。ありがと」

「……また、花火見に行こうな。いつか、絶対」

「……うん」


 な、なんとかバレなかったかな?いや、口数が急に少なくなったのは許して!ニヤケを抑えるので精一杯だったの!……な、なによ、その愛おしむような微笑みは……!


「他には?」

「あっ、えーっとね、あ!そう、温泉宿に行きたいって思ってたの!」

「あー、温泉ね」

「そうそう!もう最近忙しくてさ、たまにはゆったりまったり温泉につかるのもいいなーって」


 本当は、最近思うように逢えていない彼と、ゆっくり過ごしたいというのもあるのだけれど。……あ、これ、もしかして言った方がいいやつ?彼氏的に、胸がトキメクやつ?……でも、流石にこんなこと言うのは……は、恥ずかしいかな!


「確かにねぇ。久しぶりに彩姉ぇともゆっくり過ごしたいし、温泉、いつか行こっか」


 く、くぅ!?どうしたの今日の海斗!いつになくめちゃくちゃ積極的なんだけど!もしかして、アレなの!?久しぶりに逢えたから実はテンション上がってたとか?ふ、ふふ!べ、別に!喜んでなんか、いないんだからねっ!


「他にはどこかある?」

「んー、これはまぁ、最近の私のブームなんだけど」

「ブーム?へぇ、そんなのあったんだ。どんなブームなの?」

「あのね、私最近キノコに凝ってて」

「……キノコ?」

「そう!キノコ!その中でも毒キノコ!」

「へ、へぇ」


 あ、ヤバい、引かれてる?う、うぅ、やっぱりこれはダメだったか……。テンションに任せて言うべきじゃなかったなぁ……。でも、なんかキノコって可愛くない?あ、私だけですか、そうですよね……。


「……ごめん、今のは忘れて」

「いや!聞かせてよ!彩姉ぇの全部を知りたいからさ」


 ふ、ふーん?そんな嬉しいこと言ってくれるなら、話さないこともないですけど!


「――でね?キノコミュージアムっていうところに行きたいの!」

「……な、なるほど……。わ、わかったよ。いつか、行こうな」

「うん!」


 ついつい余計なことまで話してしまった……!これは絶対彼引いちゃってるよ……。ま、まぁ、もうやってしまったことはしょうがない。次だ、次!


「他にはどこか、ないの?」

「うーん、そう言われるとね、もうあんまりない気も……」

「海とかは?」

「い、いやぁ。もう私もいい歳だし……」


 海ねぇ。もう少し若かったら、私も行ったんだろうけど……。体力ももうついてこれないだろうし。……彼の水着姿を見れないのは少し残念だけど。


「歳とか関係なく、俺は綺麗だと思うけどね」

「……い、いや……。あ、ありがとう」

「でも、本音を言えば、彩姉ぇの肌を他の奴らに見せたくはないから、俺もあんまり行きたくなかったんだ」

「……」


 も、もうその辺にしてください……!恥ずかしすぎて、もう、なんていうか、死んじゃうから!嬉しすぎて恥ずかしすぎて辛いから!


「……他には、ある?」

「い、いや……思いつかない、かな」

「……そっか」


 急に、彼の声のトーンが下がった。彼の微笑みは消え、何か、覚悟を決めるかのように唇を噛んでいる。先ほどまでの楽しげな雰囲気は消え、どこか薄ら寒いような感覚を覚える。火照った頬が急速に冷えていくのを感じた。どうしたんだろう。何か機嫌が悪くなった?いや、どうもそういう感じではない。情緒が不安定なのだろうか?じゃあやっぱり何かしらのストレス?仕事でも友人関係でもなく?なんだ?全く見当もつかない。ダメだ、思考が纏まらない。彼のために何かをしてあげたいのに――



「……桜が、散るね」



 徐に彼はベンチから立ち上がった。ギシ、と古いベンチが音を立てる。一歩、二歩。静かに、厳かに、彼は歩みを進めた。公園の電灯が、チカ、チカ、と点滅を繰り返している。こちらを振り向かずに桜を見上げる彼の背中からは、何の感情も読み取ることが出来なかった。



 ―――怖い。



 彼のことをそう思ったのは、いつぶりのことだろうか。……もしかすると、彼と出会ったあの日――私が七歳の時から、初めてのことなのかもしれなかった。


 怖い。彼が今、何を考えているのか。彼が今、何を思っているのか。……何が今、彼を苦しめているのか。その全てがわからないのが、怖い。



 怖い。何故彼が今、背中を向けているのか。何故彼が今、拳を握り締めているのか。……何故彼が今、震えているのか。その理由がわからないのが、怖い。



 ……怖い。どうして彼が今、言葉に詰まっているのかも。どうして彼が今、静かに深呼吸をしたのかも。……彼がこの後、言おうとしている言葉も。その全てを、わかってしまったのが―――怖い。



 彼だけは。この人だけは、私を見捨てないと、心のどこかで思っていた。思い込んでいた。……でも、そうか。



『ぼく、あやねぇとけっこんするんだ!』



 あぁ。そうだ。そうなのだ。結局。

 あの頃の彼も。



『……彩姉ぇ。俺、あの時の言葉、今でも本気だから』



 あの時の彼も。



『彩姉ぇ!ほら、見てくれよ!彩姉ぇと同じ大学、受かってやったぜ!』



 あの日の彼も。



『……彩花さん。昔からずっと、大好きです。結婚を前提にお付き合いしてくれませんか?』



 あの瞬間の彼も。

 みんな。みーんな。



「……彩花」



 ここにはもう、いないのだから。







「……楽しかったよ。彩花と過ごせた全ての日々が」



 彼はこちらへ振り返り、ぽつりと言葉を溢した。月は雲に隠れてしまった。電灯は既に消えかかっていて、彼がどんな表情をしているのかはわからない。わからないが、想像することは容易だった。当たり前だ。ずっと昔から一緒にいるのだから。……いや、いた、になってしまうのだろう、きっと。



「……愛おしかったよ。俺が気づけた全ての彩花が」



 頭がフル回転している。私のどこが嫌になったのだろう。何がダメだったのだろう。彼の心を奪った女は誰だろう。きっと私なんかよりもずっと凄い人なんだろうな。結局私は釣り合わなかったのだ。これからどうしようか。何を楽しみに生きていけばいいのだろうか。もう死んでしまった方が楽なのかもしれない。思考は停止していた。



「……本当は、ずっとこのままでもいいかなって。彩花と一緒にいれるのなら、それでもいいかなって、思ってた」



 彼は何を言っているのだろう?彼の言葉が、上手く理解できない。彼が言っていることが難しいのか、それとも私の頭が考えることを拒否しているのか。もしくはその両方か。



「でもやっぱり、そんなのは、ダメだよな。それはきっと、裏切りなんだよ。俺の愛を、貴女の愛を、裏切る行為だ」



 雲から月が顔を出す。彼の周りに煌めく桜吹雪は、この世のものとは思えないほどに綺麗で。しかし何故だろうか。それが彼の涙のように見えてしまうのは。



「だからさ、俺、決めたよ。……あぁ。決め、たんだよ」



 彼は唇を強く噛んで、顔を伏せてしまった。何か、言った方がいいのだろうか。そう考えてはみるけれど、今口を開けば、全てが現実味を帯びるような気がして。もう少しだけでも、私は夢を見ていたかった。きっと、これはドッキリで。すぐに彼は笑って抱きしめてくれるのだ、きっと。……でも。私は痛いほどに知っている。いつだってそうだった。私の人生において、夢とは、実現しない故に夢であり――




「こんなのはもう、やめにしよう」




 ―――現実とは、非情故に、現実なのだ。




 ぎゅっと、目を瞑る。彼のその眼を見ていたくなかった。

 ぎゅっと、拳を握る。私のこの感情の行き場がわからなかった。

 ぎゅっと、口を結ぶ。今にも吐き出そうなコレを漏らしたくなかった。


 そんな私とは裏腹に、彼は口を静かに開いた。






「結婚しよう。彩花」






 彼はポケットから小さな箱を取り出し、私の前で開いてみせた。その中に座っていたのは、より小さな指輪だ。突然のことに上手くついて来れない頭で、それでも必死に首を縦に振る。彼は安心したような、それでいて何処かに影があるような、不思議な表情を浮かべて。そっ、と。その震える指で銀色に輝く指輪を手に取って。私の左の薬指に、はめた。



「……よかった……!嬉しい……嬉しいよ……!ありがとう……!」

「……」

「……ぐすっ、でもね?そんな、勘違いするような演出、もうやっちゃダメだよ?私、別れを告げられるかと思って、すっごい怖かったんだから!」

「……そう、か。それは……ごめん」



 そうか、また、私の杞憂だったんだな。そうだ。彼が私を裏切るなど、そんなことがあるはずなかったのだ。正に人生の中でも絶頂と言えるほどの幸福感に包まれる私とは逆に、何故か彼のテンションは低い。一体どうしたというのだろうか。いや、きっと彼のことだ。プロポーズが上手くいったことへの安堵が強く出てしまったのだろう。ふふん、私はお見通しなんだから!


 それにしても、視界が涙で歪んでしまって、自分の指さえもよく見えない。私の薬指に光る、彼の愛の証が見たい。愛する彼の、幸せそうな顔が見たい。その感情に突き動かされるままに涙を拭えば、神様の悪戯か、もしくは私たちへの祝福か。びゅうっと一際強い風が吹いた。桜風というものだろうか。枝に残っていた殆どの桜が風に舞う。月明かりと散りゆく桜の花明かりは、私と彼を鮮やかに照らし出す。それはまるで、劇場のスポットライトのようで。もしくは、私たちを導く光の道のようであった。



 そして。私は見たのだ。……見て、しまったのだ。



 月に輝く指輪と。


 


 ()()()に輝く、私の左手を。




 どういうことなのかを理解する前に。何が起きているのかを理解する前に。私の中に、すとん、と、落ちてくる言葉があった。そうか。私は――






 ―――私はもう、死んでいたのだ。






 急速に頭が回り出す。私は忘れていたのか。忘れてしまったのか。どうしてだろう。いや、そういうものなのかもしれない。それならばどうして彼は。ここに留まっていた未練は、もしかして――いや。そんなことを考えている場合ではない。死んでいるのならば、彼に伝えなくてはならないことがあるはずだ。



「……ごめんね。これ、私は受け取れないや」



 彼は、悲しみに堪えるような、それでいてわかっていたというような笑顔を浮かべる。あぁ、本当に、ごめん。辛かったよね。ありがとう。愛しているよ。伝えたい言葉は沢山あるけれど、私に残された時間はもうあまり無いようだ。でも、私の有り余る感情を全て、それも短時間で伝える方法を、生憎私は知っているのだ。



 立ち上がって。彼を抱きしめてするのは、単なる形だけのキス。しかしこの世のどんなキスよりも濃厚で、どんな行為よりも愛情を交わせるキスだ。

 


「ねぇ。三つだけ、約束してくれる?」

「……うん」

「一つ目。悩みとか辛いことを吐き出せるような人をつくって?」

「……頑張るよ」

「二つ目。残りの人生を幸せに暮らして?」

「……無理かも、しれないよ」

「三つ目。来世では、結婚しようね?」

「……もちろんだよ」

「うむ。よろしい」



 あぁ。なんとか、言いたいことは言えたみたいだ。こんな結末を用意した神様は呪うけれど、少しだけ時間をくれたことには感謝しよう。これから直々にお礼に逝ってやるとしましょうかね。

 足の指先が、光の粒子になっていくのが見えた。へぇ、こうやって消えていくものなんだね。なんか神秘的。てっきり何処かのアニメみたいに、スッといなくなるのかと思ってたよ。これならまだ少しは、話すことが出来そうだ。



「私、ちゃんと待ってるからね」

「……俺が死ぬのをかい?」

「うん。海斗が死ぬまで、来世にはいかないようにするから」

「……」

「だから、ダメだよ?早く来すぎちゃ。ちゃんと天命を全うしてから、私と同じ場所に来てね?それで、タイミングを合わせて二人で来世にいくの!来世では、同い年の幼馴染みとして生まれてやるんだから!」

「……あはは、わかったよ。やっぱり、彩姉ぇ、には……敵わ、ない……なぁ!」



 彼の涙を拭ってあげたいとは思う。でも、ダメだ。彼は、やっと泣けたんだから。我慢して我慢して、それでも泣くことのなかった彼が、泣いているんだから。その涙を掬って、彼を泣き止ませることは、したくない。全部ここで、出し尽くしてほしい。



「……少しの間だよ」

「……うん」

「少しの間だけの、お別れだから」

「……うん」



 ……はは、私、何言ってるんだろう。泣き止ませたくないと思っているのに、口から出てくるのは慰めの言葉だなんて。……いや、あるいは、私自身への言葉なのかもしれなかった。


 もう身体のほとんどが消えてしまった。でも、なかなかこの世界は粋に出来ているらしいなぁ。最後まで、左手と頭を残してくれるなんて。これは、天国とやらも期待してよさそうだ。



「じゃあ、そろそろ、逝くね」

「……そっか。……うん。それじゃあ」




「「またね」」





#####



 チャリン、と。指輪が落ちる音が聞こえた。彼女がこの世から、本当の意味でいなくなった音だ。夢のような時間の、終わりを告げる音だ。夢かと思った。幻かと思った。しかし、彼女はここに、紛れもなく存在していたのだ。そう、世界に知らしめる、音だ。


 指輪を拾う。彼女がこの世を去ってからの一週間、お守りのように、あるいは彼女の代わりのように持っていた指輪だ。でも、もうこれは彼女のものだから。俺が持っているのも違うだろう。今度、彼女の仏壇に供えておこう。彼女は受け取れないと言っていたけれど、これくらいは許してくれるはずだ。


 涙を拭う。あれほどまでに泣いて、もう枯れ尽くしたと思っていたのに、次から次へと溢れ出してくる。公園のベンチに独り、誰かを待つように寂しげに座る彼女を見た時から、ずっと我慢し続けた涙だ。彼女の未練を悟り、決意したときにも堪えた涙だ。そう簡単に収まるわけがない。


 ふと見上げれば、桜は既に花を散らし切っていた。春が終わったようだ。でも、きっと夏は始まらない。俺にとっての夏は、彼女が俺の隣にいる夏だけだ。夏だけではない。秋も、冬も、春も全て。この人生にはもう、存在などしないのだ。……でも、大丈夫。別に悲しくなんてこれっぽっちもないよ、彩姉ぇ。花火も、温泉も、キノコミュージアムも。全部、来世まで取っておくだけだから。来世を楽しみに、この人生を幸せに生き抜いてみせるから。だから、何も悲しくなんて、ないんだよ。……でも、そうだなぁ。今度さ、久しぶりに友人と会ってみるよ。アイツに、いろいろと話してみるからさ。安心してよ、彩姉ぇ。それじゃあ、また、ね。


 ひらり、と。散り切ったはずの桜の花びらが、空に舞う。月に照らされたそれは、まるで光の粒のようで。掴もうとした俺の指をすり抜けて。風に吹かれて、見えないほどに遠くまで飛んでいってしまった。







お読みいただきありがとうございました。こちらも併せてお読みいただければ、より楽しめるかと思います。もしよろしければどうぞ。では、また。


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