悪魔の花嫁(連載式コミカライズ配信中)
令和元年8月28日(水)
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誰が悪いのか、なにが悪かったのか。そんなことはどうでもいい。
確かなのは誰もが私より妹、リューナを優先していること。理由があることで仕方ないとはいえ、いつも私に我慢させてごめんなさい。さすが姉、聞きわけが良くて偉いと両親は言うが、それを当たり前にさせたのは自分たち。
謝ったり褒めたりすることで、私への関心が薄い言い訳にしているのは、気のせいだろうか。いや、これもどうでもいいこと。
「リューナ、おはよう」
「おはようございます、お爺様」
問題の根源である祖父は、朝から笑顔を妹に向ける。私が先に食堂へ姿を見せても、自分から挨拶をすることも笑顔を見せることもないのに。
妹が祖父の頬に軽いキスをしている間に、無言で席に着く。祖父は私に関心がないのだろう。こうやって挨拶をしなくても、注意すら行わない。
全員揃い朝食を食べ始めるが、誰も私がこれまで一言も発していないことに気がついていないらしく、妹を中心に会話を交わしている。そう、私などいないかのように。昔はそれが不満だったけれど、今は当たり前に思えどうでもいい。むしろ無視される方が気楽でありがたい。
「今日はテーゼ様のお茶会にお呼ばれされているのよね?」
「はい」
……ああ、今日だったか。母と妹の会話が聞こえ、うんざりとした気持ちになる。
本人は親しい者たちとの語らいの場と評しているが、私には無駄な時間。毎回用意されている菓子やフルーツにもほとんど手をつけず、飲み物も口にしない退屈な時間。もちろん家と同じで、誰かと会話を交わすこともほとんどない。
きっと今回もかわいそうな妹を中心の会話を聞かされると思うと、欠席したい。私も妹のように仮病を使おうかしら。
だけど最低限のマナーを身につけていなければ、将来の旦那様の顔に泥を塗ってしまう。
なんとか己を奮い立たせると手袋をはめ、帽子を被る。妹と一緒に馬車に乗りこみ、会場へ向かう。
「お姉様、今日は他にどなたが出席されるのかしら。クラン様はいらっしゃると思う?」
「さあ、私は招待する側ではないから知らないわ」
テーゼの弟であるクランは毎回茶会に顔をのぞかせるので、今日もそうだろう。分かり切ったことをなぜか尋ねてくる妹に、苛々する。
「いらっしゃいませ。本日はようこそお出で下さいました」
応接間に通されると、テーゼが笑顔を向けてきた。
「お招きありがとうございます」
本心ではないが礼儀として挨拶を返し、着席する。
いつものように双子の私たちは隣同士。左隣には着席したのは、妹と親しいマリー。昔は私とも親しかったが今は違う。何年も前に仲違いしたというのに、今も私たちは親しいと誤解しているテーゼが、こうやって私たちの席を隣同士にすることが多い。まったく迷惑な話だ。
茶会が始まり、主催者自らが茶を注いで回る中……。
「お久しぶりね」
やっとマリーが私たちに声をかけてきた。彼女の身分は我が家より上なので、こちらから声をかけることが許されない。
「お久しぶりです、マリー様」
「お久しぶりです」
会話は終わる。間に私がいなければ、二人も会話が弾むだろうに。こういう席決めにした主催者を恨む。
「あー……。ねえ、リューナ様。まだお祓いは効かないの?」
「はい、残念ながら……。仕方のない話かもしれません。歴史上、成功したことは一度もないのですから」
悲しそうに顔を伏せる妹。
「貴女のお爺様も酷なことをなさったわね」
それに対し、さも同情しているように言うマリー。
茶番に笑いそうになるが堪える。
そう、こうなったのは全て祖父のせい。
両親が結婚した直後、我が家が管理する領で天災が起きた。その復興のため多額の金が必要となったが、金が足りず方々に借金し工面する。しかしそれも限界を迎え、困り果てた当主である祖父は禁断の道を選んだ。
それが悪魔との契約。
そう、悪魔を呼び出し、なにかと引き換えに望みを叶えてもらうあれだ。
祖父は自分の命を引き換えにするつもりだったが、悪魔は年寄の魂などいらないと撥ね退け、こう言った。
「お前の孫娘を私の花嫁とする。娘が十六となるまでに、迎えに来る」
悪魔との契約は彼らを呼び出した時点で結ばれる。一方的に契約内容を告げ、悪魔は金銀財宝を残し去った。そのおかげで我が家は窮地を脱したが……。
直後母が懐妊し、誰もが男児であるようにと望んだ。だが産まれたのは私たちだった。しかも妹の右手の手の平には、祖父が呼び出した悪魔の紋様が浮かんでいた。そのため悪魔が花嫁と選んだのは妹だと言われるようになった。
以来両親たちはいつ悪魔が連れ去るか分からぬ恐怖の中、妹を育てている。祖父も自分のせいで十六までしか生きられない妹に罪悪感を抱いているのか、やけに甘やかす。結果、妹は仮病を使えば家族や周囲の者を独り占めできると、幼くして悟った。
私が家族と仲良くしていると邪魔するため、頭が痛い、気持ち悪いと言い出す。そう言えばすぐに家族は私から離れ、妹へ駆け寄るから。そして妹は家族に見えないよう、こっそり私に向かって舌を出す。
そんなことが続いた十歳の夏のあの日、ついに私の我慢は限界を迎えた。
その日は両親と私の三人で出かける予定だった。以前妹が連れて行ってもらったアイス屋に、今度は私を連れて行くと約束してくれた日だった。珍しく三人だけで出かけられるので、何日も前から楽しみにしていた。
「家庭教師の先生と勉強を頑張ってね。お土産を買ってくるわ」
そう妹に言う母の言葉を聞き、少し心にヒビが入った。
お土産? 私は買ってもらったことがないのに?
妹と出かけて帰って来ても、いつも手ぶら。ただ妹と両親の土産話を聞かされるだけで、なにか物をもらった覚えはない。それなのに、なんで妹にはお土産を買う約束をするの? それだけでも不満だったのに……。
「……お母様、頭が痛い……」
また始まった‼
身支度を整え、後は家を出るというタイミングで妹がそんなことを言い出した。妹が体の不調を訴えれば、今にも悪魔に連れ去られると信じている両親は、私を置いて慌てて妹に駆け寄った。
「大丈夫? 本当に頭痛だけ? ああ、駄目だわ。これではこの子を一人にさせられない」
「ルジー、今日の約束は無しにしよう。分かったな」
当たり前のように、私との約束を反故にする両親。心に大きくヒビが入り、叫んだ。
「なんで⁉ 約束したじゃない! 今日は私とお出かけするって‼ それなのに……っ。なんでいつも私ばかり我慢しないとならないの⁉」
「貴女も知っているでしょう? リューナは悪魔に狙われているのよ。頭痛だって悪魔の仕業に違いないわ」
仮病だと疑いもせず母は言う。
「違う、違う! 仮病よ! リューナはいつも私がお母様たちと親しくしていたら、それが気に食わなくて調子が悪いと言い出すのよ! なんで分からないの⁉」
「なんてことを言うんだ‼ お前には悪魔に狙われ怯えて暮らすリューナの気持ちが分からないのか⁉ 少しは人の気持ちを考えろ‼」
人の気持ちを考えろ……?
また心に大きく深くヒビが入る。
「……ではお父様は、私の気持ちを考えたことがあるの……?」
暗い声で上目づかいに睨みながら尋ねると、父は気圧されたように黙った。ずいっと一歩踏み出し、恨みをこめ告げる。
「人の気持ちを分かっていないのは、お父様たちじゃない」
気圧され負けた気持ちもあったのか、父は無言で手を振り上げ私を打った。痛む頬に手を当て、涙を流す。
「なんで……? なんでいつも私ばっかり我慢しないといけないの……? 私だって……。私だってたまに紋様が出るのに! それなのになんでリューナばっかり‼」
「嘘を言うな! お前に紋様が出ている所など見たことがないぞ‼」
「本当だもの! すぐに消えるけれど、浮かぶ時があるもの!」
「ルジー、貴女に寂しい思いをさせて悪いとは思っているわ。だけど分かってちょうだい? リューナはね、このままだと十六までしか生きられないの。それも一秒後には死ぬかも分からない状態なのよ? それなのにそんな嘘をついて……。その嘘だけはお父様もお母様も、許しませんからね」
端から嘘と決めつける両親の後ろで、またリューナが舌を出した。それを見て頭に血が上る。
「あんたが‼ あんたが嘘ばかりつくから‼ 今だって……!」
リューナに飛びかかろうとするが両親に阻まれ、また父に打たれた。
「嘘じゃないのに……。なんで私の言うことは信じてくれないの……? お父様もお母様も嫌いよ‼」
泣きながら叫んでも二人から返事はなかった。
ヒビの入った私の心は、両親から釈明も弁明もないことで砕けた。以来、二人からの愛情もなにもかも望まなくなった。
「司教である父も頑張ってはいますが……。紋様が消えず、本当に申し訳ございません」
「お気になさらないで下さい。だって歴史上、これまで一度も悪魔との契約を無効にできたことは無いのですから」
テーゼがしおらしく謝ると、妹は気にするなと言う。毎回このやり取りを聞かされ、辟易する。
悪魔との契約を断とうと足しげく教会に通う妹たち。昔は私も同行し、祓いの儀式を行っている間はテーゼとクランが遊び相手になってくれていた。あの頃家族からの愛情を諦め、家で一人ぼっちの私にとって、二人を独占できる時間は楽しかった。
そして二人なら私の話を信じてくれると期待し、時々紋様が浮かび上がることを打ち明けた。すると……。
「……ルジー。ご両親がいつもリューナ様ばかり大切にしているように見えるから、貴女が寂しく思う気持ちは分かるわ。けれど、ついていい嘘とそうではない嘘があるのよ? そういう嘘は二度と言わないでちょうだい」
テーゼも端から信じてくれなかった。すがるようにクランを見れば……。
「僕もそういう嘘はよくないと思う。君のご家族は紋様のせいで苦しんでいるのに、それを知っていながら……」
そこから二人がなにを言ったのか、記憶が抜け落ちている。ただただ信頼していた二人にも信じてもらえず、ショックだった。
「ルジー?」
名を呼ばれ我に返り、即座に謝った。
「……すみませんでした。二度と嘘を言いません」
それ以来私は教会に同行することを止めた。二人に会いたくないからだ。どうしても同行しなければならない時は、分厚い本を一冊抱える。そして本を読んで過ごし、二人との接触を避けた。
「ルジー、貴女最近はあの嘘を言わないそうね」
意地の悪そうな笑みを浮かべ、マリーが言う。
「あの嘘って?」
同じテーブルの令嬢が知っていながら尋ね返す。これもまたいつもと同じ会話。この人たち、毎度繰り返して飽きないのかしら。
「この子、少し前まで自分にも紋様が現れると嘘を言っていたそうなの。ご両親の気持ちを考えればそんな嘘、とても言えないのにねえ」
「あらあ、それは酷い嘘ね。リューナ様にも失礼だわ」
この話はおしゃべりな我が家の女中が他家の女中仲間に、両親が約束を破った日の会話を話して広まった。おかげで私は様々な場所でこうして人の気持ちを考えない酷い女として話題とされ、人の悪口が楽しい人たちの餌食となっている。
最初の頃は目の前で悪し様に言われることに傷ついていたが、今では慣れ知らぬ顔を貫き通す。
「皆、止めましょう。二人は双子だもの。二人は目に見えないもので繋がれていて、それで一瞬ルジーにも紋様が浮かぶことがあるかもしれないわ」
私の話を信じなかったテーゼが言う。
この女、今さらどの口でかばうようなことを言うのだろう。ぐんぐん気持ちは下降し冷める。今すぐ帰りたい。
「姉さん、皆さんに庭園に咲いた薔薇を見て頂いてはどうだろう」
そう言いながら登場したクランの姿を見て、妹は顔を赤らめた。
「そうね。ちょうど見ごろだし、皆さん良かったらご覧になって下さる? 満開でそれは美しいのよ」
次々と皆は席を立ち庭園へ向かうが、私は残る。赤やピンク、黄色い薔薇などに興味はない。私が好きなのは……。旦那様が贈って下さる薔薇。
「ルジー、君も行こう」
敬称を付けず名を呼ばれたので、クランを睨む。
「クラン様、敬称を付けて頂けますか。貴方に呼び捨てにされる謂われはございません」
「僕たち、友だちじゃないか」
「ご冗談を。友だちだったの間違いでしょう?」
「ルジー……。どうして君は……。いや、あの時は僕たちが悪かった。だからどうかもう一度僕たちに……」
「気分が悪いので帰らせて頂きます」
席を立ち呼び止める声を無視し屋敷を出ると、真っ黒い馬が繋がれた一台の黒い車体の馬車が待っていた。我が家の馬車ではないが迷わずそれに乗りこめば、行き先も告げず馬車は出発する。
揺られている最中に手袋を外し、左手の薬指にそっと唇を落とす。これは馬車を用意してくれた旦那様への感謝と愛を示す行為。
一人で帰宅し部屋に戻ると、机の上に一輪の黒い薔薇が置かれていた。旦那様の贈り物に喜び、手に取ると呟く。
「旦那様……。早く迎えに来て下さい……」
◇◇◇◇◇
左手の薬指に、人知れず妹の手の平と同じ紋様が浮かぶことがある。
先ほどクランと会話をしている最中も手袋の下では薬指が痛み、熱を持っていた。きりきりねじれ、焼けるように痛かった。
その症状はクランに限ったことではなく、他の男性と会話を交わしても起きる現象。手袋をはめていない時は、一人になった時に指が千切れるほどの痛みを感じ紋様が光る時もある。
きっと私の夫となる悪魔が怒っているのだろう。自分の花嫁となるのに他の男と親しくするなと。
でも旦那様、仕方ないじゃない。貴方はいつまで経っても迎えに来てくれないのだから。他の男と接触したくなくても、勝手に向こうが話しかけてくるのだから。これでも会話を短く切り上げるよう、私なりに努力しているのよ?
旦那様に不満はあるが、こうやって自分の所有物だと私に分からせる嫉妬を見せる彼が愛しい。
だってこの熱や痛みは、私を独り占めにしたい証しなのだから。
先ほどの馬車もそう。どこからともなく現れ、ああやって私の送り迎えをしてくれる。御者はいつも俯いて顔がよく見えないけれど、死人のように顔は白い。一人で帰る私が心配で旦那様が用意してくれている馬車だと分かっているので、毎回迷うことなく乗りこんでいる。そして家の前まで送ってくれると、馬車はどこかへ走り去る。
何度か馬車の中から御者に呼びかけてみたが、一度も返事をもらったことはない。旦那様から私との会話を禁じられているのだろう。
心配しなくても私の心は、貴方のものなのに。
ねえ旦那様、貴方はどんな姿をされているの? 人間と同じ姿? それとも山羊のお顔? まさか下半身は蛇とか? それとも腐った肉体なのかしら。
祖父は悪魔の外見について語ったことはなく、想像するしかできない。
今は薬指に浮かぶ紋様だけが貴方と私を繋ぐ糸。だからこそ余計に愛しくて、旦那様への気持ちを示すため、事あるたびにそこへ唇を落とす。
家族との別れに未練はない。だから早く迎えに来て下さい、旦那様。貴方が妹ではなく、本当は私を花嫁に選んでいると分かっていますから。
◇◇◇◇◇
「ルジー、お前とクラン殿の婚約を結ぶことが決まった」
突然父に呼び出されたと思ったら、そんなことを告げられ倒れそうになった。
婚約⁉ クランと⁉ 私には旦那様という決まった御方がいるのに‼
右手を上に乗せ隠れている左手の薬指が痛む。違う、違うのよ、旦那様。私はこんな婚約、望んでいないわ。私が愛しているのは貴方だけよ。
「まだ妹の件が済んでいないのに……」
「お前は悪魔に狙われている訳ではない。それなりの年齢にもなった、なにも問題ないではないか」
大有りだ。だって旦那様が花嫁として望まれているのは私なのに! 私だって旦那様との結婚を望んでいるのに!
「嬉しいわ、貴女が未来の妹になるなんて」
すでに応接間で私の登場を待っていたテーゼがそんなことを言う。
クランを慕っているリューナは俯いたまま、ちっとも笑顔を見せない。自分が悪魔の花嫁に選ばれていると思いこんでいるので、クランと結ばれないとも勘違いしており、失恋に心を痛めているのだろう。
「この婚約、お断りさせて頂きます」
突然の私の発言に全員が驚愕の顔を向けてきた。
「妹はクラン様を慕っております。ねえお父様、いつものように、いつなにが起きるか分からない娘の願いを叶えて差し上げたら? 妹も喜ぶわよ?」
「な、なにを言い出すんだ!」
真っ先に声をあげたのはクランだった。妹はまさかの展開に、顔に喜色を灯す。
「婚約は私が十六を過ぎてからにして頂けませんか? それまでクラン様の婚約者は妹ということで」
「お前、なにを言っている? 親の決め事に反対するのか⁉」
「そうよ、ルジー。なにが不満なの? あんなにクラン様と仲が良いのに」
ようやく両親も発言するが、呆れたあまり何も答えられない。
一体母はいつの話をしているのだろう。何年も前のことをいつまでも今のことだと思いこみ……。
この件だけではない。自分では私のことも気にかけているつもりだろうが、この人は全く私を理解していない。
「誕生日おめでとう」
ある年そう言って渡されたのは、真っ白いウサギのぬいぐるみ。暗い色を……。特に黒を好む私にとって、真っ白いウサギなど趣味が悪いとしか思えなかった。色違いのピンクのウサギをもらった妹は嬉しそうだったけれど。
結局白いウサギはすぐクローゼットへ投げ入れ、気に入らないことがあった時にペーパーナイフなどで突き刺し、ちょっとした気分解消のために利用させてもらう存在となった。もちろん今では原型を留めていない。
「私、愛する方がおります。今はその方以外との結婚など考えられません」
「なに⁉」
顔を赤くした父が立ち上がる。
それまで黙っていたクランたちの父親であり、司教であるアイン様が口を開く。
「それは、どこのどなたですか?」
「お答えしたくありません」
「お二人の気持ちは通じ合っているのですか?」
「私はそう思っております」
目まぐるしく顔色を変え、ぽすん。音をたて、力を無くしたように父はソファに腰を落とした。
「ルジーさん、正直に答えて下さい。貴女に紋様が現れたことはありますか?」
婚約に関する話の場だというのに、急にアイン様がそんなことを尋ねてきた。真っ直ぐ彼の目を見て答える。
「いいえ、ありません。あると嘘を言ったとは……。家族だけでなく、テーゼ様もクラン様もご存知のはずですよ?」
そう言うと私は微笑み、二人の姉弟は俯いた。
結局婚約を結ぶことはなく、その日はお開きとなる。帰り際、アイン様は何事かを両親に耳打ちしていた。そしてアイン様一家の姿が見えなくなると、両親にこっぴどく叱られた。
「親の顔に泥を塗るとは! お前は昔から……‼」
「今まで聞き分けが良かったのに、急にどうしたの? クラン様のなにが不満なの? 本当に思い合っている男性がいるの?」
「言え! 一体どこの男と逢瀬を重ねている‼」
一度も会ったことがないのに答えられる訳がない。
でも……。そっと左手の薬指を見る。
旦那様と繋がっている。それは確かだ。
「どこの男か知らんが、二度と会うな‼ しばらく家から一歩も出ることを許さん!」
願ってもない言葉に承知した。
それから外出や手紙のやり取りさえ制限され、人から見れば窮屈な日々を送る。だけど私には旦那様以外の男と接しなくて良いのだから、ありがたい状況。それなのに……。
うっとうしいことに、あの日以来毎日クランが我が家を訪れる。そして私との時間を設ける。適当に相手をするがその間、薬指はずっと痛む。そしてクランが帰れば、慰めや労わるように黒い薔薇が現れる。その花の匂いを嗅ぎ、癒される日々。
そして明日で十六歳となる。本当に旦那様は迎えに来てくれるのだろうか。今さら契約を反故にされないだろうか。
今日はアイン様や司祭様が多く来られ、妹を悪魔から守ろうとしている。
不安そうな顔をした妹は、クラン様にお願いして手を握ってもらっている。
さあ、旦那様に連れ去られるのは誰? 妹? それとも……。
◇◇◇◇◇
カチカチ、時計の秒針が進む音が響く。
もうすぐ日付が変わる。その瞬間、娘が姿を消した。
「なに⁉」
教会関係者の多くが驚愕の声をあげる。私も驚いて瞬きさえ忘れた。
どうして……? なぜリューナではなく、ルジーが消えたの……? 悪魔の花嫁に選ばれ、紋様が現れたのはリューナで……。
そんな中、アイン様一家だけは落ちついていた。いや、肩を落とされている。
「やはりそうでしたか……」
アイン様がぽつりつと呟かれる。
「どういう意味ですか?」
夫がかすれた声で尋ねる。
「以前もお伝えしましたが、娘たちからルジーさんに紋様が現れることがあると聞き、もしやとは思っていました。悪魔は狡猾ですから……。最初は娘たちもルジーさんの嘘だと思ったようです。しかし嘘はよくないと叱れば衝撃を受けた顔となり、自分たちはとんでもない間違いを犯したのではないかと気に病んでいました。それ以来改めて話を聞こうにも、ルジーさんは皆を避け……」
「僕たちが悪いんです……。端から嘘だと決めつけ叱り……。どんどん様子がおかしくなる彼女を見て、これは本当ではないかと思い尋ねると、嘘をついてごめんなさい。と謝られ、それ以来まともに会話が出来ず……」
「息子と婚約を結べば、少しは話が出来る機会が設けられると思ったのですが……。他人と係わることも避け続けていたことから察するに、彼女は何年も前から悪魔に心を捧げていたのでしょう」
「あ、あの子が⁉ それでは思い合っているという相手は……!」
「貴方が契約された悪魔でしょう」
それを聞いた義父が目眩を起こしたように、体を揺らした。
「なぜそれを教えてくれなかったのです!」
夫は抗議するが、アイン様は冷静に答えられる。
「私は伝えました、何年も前から何度も。それを自分たちの気を引くための嘘だと言い、あなた方はまともに取り合わなかったではありませんか。だから私たちは……」
それを聞き、その場にへたりこんだ。
……そうだ。誰からも愛されていないと思いこみ、心を壊して花嫁として迎えることが悪魔の目的かもしれない。だからルジーの挙動に注意しろと、何度もアイン様から言われていたのに……。リューナの手の平に堂々と紋様が浮かんでいたので信じず……。
カチ。小さく音が鳴る。
見ればルジーが座っていた場所に鍵付きの日記帳が一冊、まるで入れ替わったように出現していた。
自然と鍵が開いた日記帳。まるで目に見えない誰かがめくっているように、ページが動いていく。
やがて開かれたのは、自分にも紋様が現れることを言ったあの日だった。
リューナだけでなく私たち夫婦への不満も書き綴り、最後の方は筆圧が強くなり破れていた。
―――――私の話を誰も信じない。それどころか顔を打たれた。仮病を使うあいつは打たれないのに、不公平だ。いつも私ばかり我慢し、その上でのこの仕打ち。よく分かった。あいつらは私を愛していない。だから私もあいつらを愛さない。もう私たちは家族ではない。私だけ家族ではない。
愛していない訳ではなかった。ただリューナは十六までしか一緒にいられないと思っていたから……。無意識に優劣をつけていた。そういえばあの時、私たちはあの子のフォローをしただろうか……。
そんな私の疑問に答えるよう、また日記帳が勝手にページをめくり、ある日付で止まった。
―――――いきなりあの女が以前した約束を覚えているかと言ってきた。今から出かけようと言われたので断った。馬鹿なのだろうか。今は冬。雪も降っている。それなのにアイスを食べに行く? 一人で食べて凍え死ね。
呼吸が止まるかと思った。
最初の日付は夏の頃。それから冬まで私は、なんのフォローもしていなかった……? 体が後悔で震えてくる。どうして私は冬まで放っていたのだろう。本当にそんな時間はなかった? いいえ、あったはず。それなのに……。それなのにっ。
「あ、あ、ああ……っ」
震える両手で頭を抱える。言葉が出てこない。
皆の見ている前で、また勝手に日記帳が動く。
―――――やっと熱が引いた。熱があるのに誰もいなくて、水差しと薬とコップが置かれただけで放置。いつものことだが熱が出ている中、自分で水を注ぐのは大変だった。私が体調を崩すと嘘つき女が体調悪いと騒ぐので、誰もかれもが私を放ってあちらの世話に夢中となる。あのまま高熱を出して死んで、今すぐにでも旦那様のもとへ行きたかった。馬鹿親父と糞爺は仕事から帰ってくるなり、嘘つき女のもとへ急ぎ私のもとへは来ない。そんなに関心がないのなら、私を殺してくれと頼もうか。二人とも喜んで引き受けてくれそうだ。
……違う、違う。泣きながら首を横に振る。夫は無関心だった訳ではない。様子を見る時いつも貴女は眠っていて……。ああ、だけどいつも部屋に入らず廊下から眺めるだけだったわね……。
義父だって貴女がどこへ嫁いでもいいよう、厳しく接し……。逆に今ではどう接して良いのか分からず、声をかけられなくなり悩んでいた。
脱力感に襲われる。あの子に誤解されても仕方ない行動を取り続けていたと、今さらながら気がつく。寝ている間のことをどうしてあの子が知れる? 仮に起きていても部屋に入らず眺めるだけの父親から、どうして愛情を向けられていると思える? 義父のこともそうだ。一度も言葉で伝えていないのに、どうして義父の考えを知れる?
それから周りに立っている使用人へ、ぼんやりと視線を向ける。
確かにルジーが体調を崩すと申し合わせたようにリューナも体調不良を訴え、そちらにかかりきりになっていた。だから世話を使用人たちに任せていたのに……。誰もいない? 放置? 自分で水を注いでいた? 使用人たちは顔を強張らせている。
「……まさか……」
ぱらららら。日記帳が新たなページを開く。
―――――使用人たちの会話を聞いた。家族から無視されている私に仕える気は起きないと話していた。旦那様やご両親も相手にしていないのだから、適当にしておけばいいと。どうりでいつも私への扱いがぞんざいな訳だ。髪へのブラッシングも数回流して終わり。嘘つき女には優しく丁寧に、何度も何度もブラッシングしているのに。
「どういうことだ、これは‼」
夫が怒りを見せるが、使用人たちは俯き黙り、夫と目を合わせようとしない。
私には使用人たちを責めることはできない。確かに二人揃って体調が悪いと言えばリューナを優先して介抱し、ルジーは放っていたのだから。そんな扱いをしている所を毎日見ていれば、彼らに誤解を与えるのも仕方ない。
見れば義父は誰にも聞こえない声でなにかを呟きながら天井を見上げ、泣きながら顔をかきむしっている。
―――――二人を信用していた。だから正直に打ち明けた。それなのに嘘はよくないと説教をされた。端から信じてくれない。あいつらも皆、誰も私を信じない。私が信じられるのは旦那様だけ。……そうか、私が間違っていた。私は本来悪魔の世界に産まれるべきだったのに、間違えて人間の世界で生を受けたのだ。種族が違うのだ。だから誰とも理解し合えない。
……そんな風に……。ここまで思うほど、あの子を追いつめていたのか……。いつもあの子は静かに一人で過ごしていたから、ちっとも気がつかなかった……。
―――――偽善者が! 私に嘘をつくなと説教しておきながら、そのことで私が馬鹿にされると信じてあげましょう。と庇うふりをする。どの口が言っている。嘘だと決めつけ説教してきたくせに。そんなに周りからよく見られたいのか。良い人ぶって気持ち悪い。吐しゃ物をその顔に吐きかけ、窒息死させてやりたい。
同席していたテーゼ様がヒッ。と息を呑む。これほどまで娘に嫌われていたと思っていなかったらしい。
―――――散々人を嘘つき呼ばわりしておきながら、もう一度あの話を聞きたいと言ってきた馬鹿男。それを聞いてどうしたいの? 皆に言いふらし、さらに笑い者にするつもり? 僕を信じて話してほしいって、笑いが出そうだったわ。どうして私を信用しない奴を私が信用すると思えるの? その頭、とんだお花畑ね。笑いを堪えるのに必死で、あいつが帰ってから大笑いしたわ。そのお花畑の脳みそ、燃やせば正気に戻るかしら。そうよ、燃やせば馬鹿男は死ぬから色々面倒が解決できるわね。
クラン様も顔を青ざめる。
……こんなに簡単に……。こんなに簡単に人に対し、誰にも見られない日記帳とはいえ、『死ね』と言える娘が信じられなかった。そんな様子はなく……。いえ、私はあの子を見ていた? 見ていたのはリューナだけではない? 勝手に私の理想のルジー像を作り、それしか見ていなかったのでは?
だってあの子と過ごした思い出が先ほどから浮かばない……。リューナとは山ほどあるのに……。
―――――嘘つき女と性悪女の会話を盗み聞きした。嘘つき女が仮病を使えば両親も皆、私だけを見てくれると自慢そうに言うと、悪い女ねと性悪女は笑う。それを知っていながら私を嘘つきだと人前で言い触らす性悪女。そしてそれを止めない嘘つき女。とてもお似合いの二人。でも知っている? 裏では互いが互いの悪口を言っていることを。
「……リューナ。本当に仮病を使っていたのか?」
いくらルジーが高熱を出そうと、調子が悪いと言えば真っ先にリューナのもとへ向かっていた夫が声を震わせながら尋ねるが、リューナは俯き一切口を開こうとしない。それがなにより雄弁な答えだった。夫は両手で顔を覆い、膝を崩した。
後悔しても遅い。
なぜ信じてあげなかったのだろう。
どうしてあの子を見ようと……。向き合おうとしなかったのだろう。
私たちへは悪意ある言葉をつづり、悪魔への愛を語る日記帳を抱きしめる。
もっと愛情を伝えれば良かった……。愛していると言葉や態度で示せば良かった。どうして私は……。
涙が止まらなかった。
思い出そうとしてもあの子との幸せな時間は少なく……。いえ、いつもリューナばかり気にかけていたから、あの子とはなにも思い出がない……。どうして……。どうして私は……。
◇◇◇◇◇
薄暗い中、やっと私は旦那様と向き合えた。
「旦那様、お会いしとうございました」
感極まり、喜びからはしたなくも彼の胸の中へ飛びこむと、旦那様は私の腰辺りに手を回す。
「私を見て嫌がらないのかね?」
「なぜですか?」
彼の胸の中で幸せに満ち、目を閉じながら聞き返す。
「君たち人間で言う、年寄の外見だろう?」
「確かにそうですが、それがなんだというのです? 私には貴方しかおりませんでしたから。どんな姿でも構わないとずっと思っておりました」
「ふーむ。ここまで嫌がられないというのも、存外つまらぬものだ」
ご不満なのか、片手を顎に手を当てられる。それからパチンと指を鳴らすと、私の服が変化する。
「まあっ」
それは全て黒のレース糸で編まれたマーメイド型のドレス。体にフィットし、両足のスリットが腰の辺りまで伸びている。そして本来なら隠される場所も部分的に見え、恥ずかしくて手で隠す。
「そう、そういう反応が見たかったのだよ。それが君の花嫁衣裳だ」
満足そうに頷かれると、渡されたのは黒い薔薇のブーケ。
「……もう、意地悪な御方」
すねる口調で言えば、微笑まれる。
腕を出され片手でブーケを持てば、もう恥部を隠すことはできない。意を決し腕を組んで歩き出すと、ロウソクが宙を浮かんでいる空間へ移動する。
真っ赤な炎に照らされる中、異形の者たちが拍手し私たちを見つめる。
中には裸体に近い私の体を嫌らしい目つきで見る者もいるが、案外気にならなかった。むしろ誇らしかった。だってこの目つきは旦那様への羨望でもあるのだから。どんなに別の誰かが見ようと、それを独り占めできるのは旦那様だけ。だから存分に羨ましがりなさい。
頭に角を生やした者。羽がある者。山羊の顔をした人間の体の者。半分腐った体の者。異形の者たちに祝福される私はこれからどうなるのか分からない。このまま花嫁として旦那様と暮らせるのか、それとも食われて死ぬのか。
でもどんな未来だろうと構わない。
だって私は悪魔の花嫁。私の全ては旦那様のもの。私をどう扱おうと自由で、それが許されるのは旦那様だけなのだから。
これまで私を気にかけてくれたのは旦那様だけ。嫉妬も愛。焦らしも愛。送り迎えの馬車を用意してくれたり、優しさも見せてくれたりしたのも愛。……いえ、独占欲かもしれない。けれどそれも愛ね。
愛している人の花嫁になれる。これ以上の喜びはない。
人間だった時の家族などすっかり忘れ、笑顔で旦那様と参列者が見守る中を並び歩いた。
お読み下さりありがとうございます。
母親視点かルジー視点で書くか悩みましたが、母親視点で書くと途中で書けなくなり、ルジー視点だと書けたので、この形となりました。
タイトルも珍しくすんなり決まり、書いていて楽しかったです。
アイン家族の頑張りは無駄になったのですが、ルジーにとっては幸せ。
なので、ある意味ハッピーエンドであり、バッドエンドである作品です。
実は第一稿と比べ、かなり内容が違います。第一稿はルジーとクランが最初から婚約していましたが、その後、一度母親視点で書いて行き詰まり、改めてルジー視点で書いていると婚約していることがしっくりせず、設定を変えました。
楽しみつつも難産な作品でしたが、無事に完成できて良かったです。
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参考文献
「英国社交界ガイド」
著・村上リコ
発行・河出書房新社