08.白銀の少女
ふたりの人間を踏み潰そうとしたベアウルフも、潰されることを覚悟したホルンも、双方が予測した結果とは、全く違う事態が訪れていた。
起き上がったホルンが、ベアウルフの鼻先を片手で握り、突進を止めたのだ。
ベアウルフは必死に足を動かすが、進むことも戻ることもできない。
ホルンの足の傷から、さざ波が立つようにして皮膚が反転し、白銀の小さな鱗に覆われていく。
指先や顔まで、すっかり体中をその爬虫類のような鱗で包むと、腰の辺りから、棘のある尻尾が生えた。
ホルンだった者は、静かに口を開いた。
「五月蠅いのう」
少女は顔を上げ、宝石のような赤い瞳でベアウルフを睨んだ。
ベアウルフの四肢が強張り、逃げるために地を蹴ろうとするも、やはり、動くことができない。
「躾、じゃ」
殴るでもなく、投げるでもなく、彼女は鼻先を掴んだ手を、少し前に押した。
ただそれだけで、ベアウルフの体の様々な部分の骨、関節、皮膚、筋肉が耐えられず、ねじ切れ破壊された。
悲鳴をあげる暇さえなく、ベアウルフの巨体は、赤い肉塊へと姿を変えて、周辺に散った。
「なんと……。力の制御が効かぬか」
全く意識していなかったのだが、手の平からベアウルフには耐えられない量の魔力を流し込んでしまったらしい。
少女は戸惑いながら辺りを見回すと、傍らに倒れているライオネルに気がついた。
「これ、主、しっかりせぬか」
ずたずたになっている痛々しい体を見て、少女は記憶にある魔法を思い出そうとする。
しかし、どうしても複雑なものが思い出せず、仕方なく、覚えている中で最も微弱な治癒魔術をかけて、応急処置をするしかなかった。
「おかしいのう。記憶が、はっきりせぬ。まあ、これでも、何もせぬよりは、良いじゃろう」
手をかざして傷を治していくが、外傷を塞いだだけであり、失った血や、骨と内臓の負傷には効かない。
この者を生かすには、早急に手当てをする必要がある。
出血が止まったことを確認すると、少女はライオネルを背負い、森の中を歩き始めた。
初めて見る景色であったが、道は無意識に体に刻み込まれているようで、彼女は無心で歩いていても、正しい帰り道を歩くことができた。
そして、ふと、思った。
(何やら忙しなかったが、ここはどこで、妾は、誰じゃ? この場所に見覚えがあるような気もするが、全くないような気もする。それに、この体は……)
鱗で覆われた体を見るに、この男とは別種なのだろう、と察しがつく。
今は、それくらいしか分からない。
木々の向こうに開けた土地が見え始め、その奥に、一軒の小屋が見える。
誰かいれば助けてもらえるだろう、と思いながら近づいて行くと、中から包帯で体中を覆われた痛々しい女性が飛び出してきた。
「ライオネル! ホルン!」
目に涙を浮かべて駆け寄って来る彼女に、背の男を任せようとしたが、意外にも彼女は自分に抱きついた。
「無事でよかった……!!」
「うっ……すまぬ、少し苦しい」
身動きの出来ない状態で締め付けられる少女はみるみる青くなっていく。
マリアは慌てて腕を離した。
せき込む少女に、マリアはきょとんとした顔で言った。
「……あれ、あなたそんなに色白だったかしら。それに、尻尾もあるし……」
我が子とは違う様子に気がついたのか、マリアはしばらく考えてから、聞いた。
「どなた?」
「……そんなことより、この男をどこかに寝かせてはくれぬか」
「あっ、ライオネル! 大丈夫なの!?」
マリアはまた慌ててライオネルの様子を見る。
少女は落ち着いた口調で言った。
「死んではおらん。傷はある程度治したが、骨も折れておるようじゃ。家の中に案内してもらっても良いか?」
「ええ、こっちへ。あなた、治癒魔法が使えるの?」
歩きながら、マリアが聞く。
「そういうふうに言うものなのか。しかしまあ、それほど立派なものではないぞ」
「治癒魔法なんて、習わないとできるものじゃないのに、あなた凄いのね」
「主の傷も見てやろうか?」
「いえ、私はもう大丈夫だから。見ての通り、もう歩けるし」
依然目を覚まさないライオネルを寝室のベッドに寝かせ、ふたりは暖炉の傍にある椅子に座った。
火をくべられた暖炉は暖かな熱を辺りに発し、橙に照らす。
ふたりはしばらく無言だったが、そのうちにマリアが口を開いた。
「……ひとつ、聞きたいんだけど」
「なんじゃ?」
「ホルンはどうなったの?」
「ホルン……。聞いたことのない名じゃのう」
「私たちの娘よ。姿が変わっても、分かるわ。何が起きたのか分からないけど、たぶん、あなたはホルンよ」
特に根拠もなくそう言ってのけるマリアに、少女は肩をすくめた。
「……この体が、そのホルンという名の娘のものであるなら返してやりたいところじゃのう。確かに、妾の胸の内に何者かの存在は感じるのじゃが、声をかけてやる方法がわからぬ」
「うーん、寝て、目が覚めたら戻っているなんてことはない?」
「意識の深層に向かうという意味では、眠るのもひとつの手かもしれぬのう」
白い鱗に炎をてらてらと写しながら、彼女は言った。
もうひとりの自分がいることは感覚で分かるのだが、自由に入れ替われるようなものであるか、その確証はない。
もし目が覚めても何の変化もなかったなら、こっそりと早朝に抜け出すしかないか、と少女は考えた。
「それじゃあ、寝る時はホルンのベッドを使ってね。私も、そろそろ疲れてきちゃった」
「大怪我をしておるみたいじゃからのう。ゆっくり休むと良いぞ」
「ふふ、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ。あなたも、おやすみなさい」
眠れる気など全くなかったのだが、マリアと別れ、ホルンのベッドへ潜ると、少女にもすぐに睡魔が襲ってきた。
(さて、どうなることやら)
その思考を最後に、少女の意識は途切れた。




