16.暴走馬車
その日の夜、ホルンはずっとあの子のことを考えていた。
顔を隠して町に溶け込み、パンを買って帰る。
まるで、自分が普通の市民となんら変わらないと、誰かに訴えかけているようだ。
その相手が誰であるかは、現状からでは推し量りようもない。
(まだ会うこともあるだろうし、今はそれよりも勉強しないといけないね)
『あれだけ競争相手と言われて、こちらだけ落ちたら格好悪いからのう』
(たしかに、それもそうだね)
明日は教室に行く日だ。
ホルンは少しでも勉強時間を長く確保するために、聞きたいことを簡潔にまとめておき、夜中まで勉強に励んだ。
そして、翌朝になって、いつものように教室まで行くと、モル老人の読み書き教室は、全く綺麗さっぱりなくなっていた。
「どういうこと……?」
だだっぴろい敷地だけがそこにはあり、屋敷すら残っていない。
ホルンは慌ててそこを通りかかった人に事情を聞いた。
すると、無許可で教室を開いていたらしかったことと、老人が教室を開いている裏で違法な薬を売買していたことが見つかり、屋敷ごと取り壊しになったそうだ。
モル老人は当然ながら監獄行きになり、ホルンはその話を聞いてしばらく放心していた。
「あははははは……」
もう笑うしかない。
月謝はすでに払っていたが、返って来るとは思えない。
ホルンはすっかり意気消沈して、橋の手すりに腰かけ、そこから歩く人を眺めていた。
さすがに今日はもう何も考える気力がわかない。
そうして過ごしていると、一台の馬車がこちらへ向かってくるのを感じた。
この橋はそれほど大きくないが、人と馬車がすれ違うには充分な大きさがある。
しかし、なんだか馬車が端に寄っているような気がする。
よほど運転の下手な御者がいるのだろうか。
彼が失敗して川に落ちてもこちらには関係ないことだが、このままだと自分が轢かれそうだ。
ホルンは立ち上がって橋から退いた。
他の人たちも同じように立ち止まって馬車が通り過ぎるのを待っている。
しかし、橋の向かい側、馬車の向かう先から、人が歩いてきているところが見えた。
「あれ、危なくない?」
誰に言うでもなく呟いた。
馬車の動線上をその人物は向かってきていた。
(なんで避けないんだろう?)
すぐにその答えは分かった。
フードを深く被っていたからだ。
見覚えのある茶色のフードだ。
顔を見られないように深々と被っているせいで、足元は見えていても前が見えていないのだろう。
助けなければ、と声を張り上げても、彼女がいるのは橋の反対側でさらには馬車の走る音も加わり、まったく届いていない。
このままでは跳ね飛ばされてしまう。
馬車の御者に直前で避けられるだけの腕があればいいが、そこに期待して轢かれては元も子もない。
馬車がホルンのとなりを通過していく。
「そこをどけ!」
「え?」
御者が声を荒げ、その声でようやく眼前に馬車が迫っていることに気がついたようだ。
最早その距離は数メートル、一刻の猶予もない。
「ああもう!」
ホルンは走り出していた。
橋の手すりの上に飛び乗り、全力で走る。
その姿が他人の目にどう映るかなんて、気にしていられない。
馬車を追い抜いて、彼女に向かって叫んだ。
「飛んで!」
他に選択肢のなかった彼女は、ホルンに言われるがまま、川へ飛んだ。
ホルンは彼女の手を空中で掴み、勢いをそのまま一回転して、馬車の後方へと彼女を放り投げた。
橋の上を転がる彼女を後目に、ホルンは大きな水しぶきをあげる。
フードが脱げてしまい、赤い髪を揺らしながら、少女は慌てて川べりへ降りてくる。
暴走馬車は、すでにどこかへ走り去っていた。
「大丈夫ですか!?」
声をかけてもらったものの、水の中では上手く返事が出来ない。
泳ぎながら岸に生えている草を掴み、なんとか上がろうとしても手が滑ってしまう。
いつも通っている道で、川の深さは知っていた。
流れの速さも知っていた。
しかし、ただ見ているだけと、実際に泳ぐのとでは大きく違う。
ホルンは、自分が知っていたつもりであったことを思い知った。
もう何度目か分からない、陸へ伸ばした手を、誰かが掴む。
顔をあげると、あの赤い髪の少女がいた。
「掴まって!!」
少女は両手でホルンを引っ張りあげてくれた。
川岸に転がりこんだホルンは、体に入り込んだ水をせき込んで吐いた。
本気で死にかけた。
思えば、泳ぐ練習などほとんどしたことはない。
家の周りにあった川は、足のつく深さだった。
「あ、ありがとう……」
息も絶え絶えになりながら、声を振り絞ってお礼を言った。
視界も意識もはっきりしていない。
しかし、今気を失うわけにはいかない。
「なんで、こんな無茶したの!?」
「危なかった、から……」
「だからって! あなたが死んだらダメでしょ!?」
「はは、ごめん……」
助けて怒られるなんて思ってもいなかったが、たしかに彼女の言う通り、泳げないのに無茶をするものじゃない。
「立てる?」
肩を貸してもらって、ホルンはかろうじて立ち上がれた。
「家はどこ? 近く?」
「すぐそこの貸し部屋です」
「お風呂は?」
「……ありません」
「わかった。うちに来なさい。さすがにそのままにしておけないし」
ぐいぐいと引っ張り歩く少女に、ホルンは戸惑うだけで拒否することもできず、連れて行かれた。
どういう心境の変化だろう。
あれほど正体を隠していたのに、家にまで連れていってもらえるなんて。
「名前、教えてもらってもいいですか?」
彼女に興味の沸いたホルンは、つい聞いた。
正体を隠したがっているのに、なんで聞いてしまったんだろう。
「……今更、教えないなんて言えないわね。アレクシアよ。アレクシア・ハブリカ」
「アレクシアさんって言うんですね。私は……どうかしたんですか?」
「いや、だって、え? 知らないの? ハブリカって名前、聞いたことない?」
アレクシアは、信じられない、と言いたげな顔をしていた。
ホルンには全く思い当たる節がない。
ここ、シルトクレーテには貴族が多い。
ホルンはそういうことに疎く、興味もなかったため、どこの誰がどれくらい名家なのか知らない。
だから、アレクシアの家がどういう家なのか、分からない。
「すみません。まだここに来て日が浅いので……」
「……そう、そうなのね。なんだか、納得がいったわ」
アレクシアは落ち着いた口調で言った。