休日の朝
私は歌うのが好きだ。大きな声で、空高くまで響くように歌うのはひどく胸がすくようだ。日頃溜め込んでいる感情を吐き出すのは何故こんなに気持ちがいいのか。
朝早くに誰もいない山の中腹にある小さな公園に来てまで歌っている、というのはなかなかに怪しいかもしれないがそんなことも気にせずにいる。
嫌いな上司のことも、口うるさい顧客のことも、煩わしいだけの同僚のことも、今だけは周りを気にせずに大声で悪口を歌っていく。歌と言っても適当な悪口を適当なリズムに乗せているだけのものだ。芸術性もへったくれもないそれを一通り歌って、一息つく。体が軽くなったようで気分がいい、もしかしたら体重が少し減ってくれやしないだろうか。さすがにそれはないか。
いつものことだが、歌い終わった後はちょっと放心しているような感じになる。普段のストレスを全部吐き出してしまうと、なんだ心が空っぽになったような気持ちになる。すっきりして、気分がいい、歌っている間は間違いなくそう感じているのに、まるで詰まった血栓を取り除くために全身の血液を抜いてしまったような。
『ドロドロになった血液だけ捨てたいんです』
『そんなことをしたら体中の血が無くなってしまいますよ』
下手くそな冗談みたいだ、でもそれもいい。
せっかく体の中が空っぽになったのだ。だから最初に今の風景をしまい込もう。目の前には昇り始めたばかりの太陽が浮かんでいて、少し下を向けば街灯の消えた街並みが見える。真上には太陽に照らされた月が半分だけ浮かんでいて、小さく散らされた雲がほんのりと橙色に染まっている。朝焼けと宵のグラデーションも視界の端を駆けていく始発電車もなんとなく綺麗だと思える。
綺麗なものが血管を巡り始める、少しだけ生まれ変わったような気分になる。今日は何をしよう、久しぶりに料理でもしてみようか、繁華街へ出て買い物をするのも楽しいかもしれない、何か映画を観るのも悪くない。せっかくの休日だ、体の中に綺麗なものを詰め込もう。一週間もすればまたドロドロになっているだろうけど今日一日ぐらいは綺麗な私でありたいものだ。
まずは家に帰って着替える所から始めよう。私はジャージのファスナーを上げて坂道を下り始めた。