薬と歯車の詰まらぬ話
女が一人、薬屋に駆け込む。
重い扉を開くと、古めかしい生薬の臭いと消毒用アルコホールの臭いが、どっと押し寄せてきた。
最初に目に入った白衣の男は、カウンターの向こう側でニコニコと微笑んでいる。
「いらっしゃい、はい、風邪薬をご所望で。はいはい、毎度あり。ほう、出来れば眠くならない薬の方が良いと。なるほど、分かりました。それではエニマルヂン錠を出しておきましょうか。毎食後に三錠ずつ。そう、よろしくお願いしますよ。おや、どうされました。もしや、お客様、本当に眠くならないのか疑っていらっしゃるのではないでしょうね。ハハハ、そう心配なさらずとも、大丈夫でございますよ。寧ろ、そんなことで気を病んでしまっては、治る病も治らないではないですか。ええ、ご心配なく。この風邪薬は、これまでのものと違って全く以て眠くならない代物ですから。厚生科学省の医薬品局のお偉い様方も太鼓判を押していらっしゃるほどですよ。なんでも、眠り病の患者様ですらも、十数時間はお目めパッチリという代物でして……おっと、お客様、どうしましたか。もしや、この話をも疑っていらっしゃるのですか? いやはや、実に疑い深いお客様だ。右に倣えの昨今では実に珍しい……あ、違いましたか。はあ、これはどうも、失礼いたしました。……ん、なるほど、眠り病も目を覚ましてしまうような強い風邪薬を飲んで、逆に不眠症になってしまっては元も子も無い、というわけですな。ハハハ、それについてはご安心下さい。先ほどお話ししたのは少々極端な例でしてね、適切な量を適切な時間に飲めば何の不都合も起こりませんよ。『毎食後に三錠ずつ』、それさえ守っていただければ、何も怖いことなどないのです。風邪もきっとすぐに良くなりますよ。どうにも医薬品局の試験はスバラシイお薬の効能を過剰に書き立てたいがゆえに、被験者に病的な量を飲ませてしまうことが良くありましてね。ええ、もちろん、正しく飲めばこのお薬はとっても良い薬なのですが……。さあ、調剤が終わるまで、あちらの方でお待ち下さいまし。薬の用意が出来ましたら、すぐにお呼びいたします」
女は近くの長椅子に腰掛け、手持無沙汰に、ぼおっと、自分の名を呼ばれるのを待っていた。
そしてカウンターの向こう側の白服は誰に言うでも無く、淡々と語り始める。
「まあ、私に言わせてみれば医薬品局の試験法よりも、その『眠くならない薬』というモノの方がずっと大問題だと思うのですがね。ええ、そもそも病気を治すには安静が一番なのでございます。十分に安静にして、しっかりと栄養を摂り、そして緩やかな眠りに就く。ヒトが元来備えている治癒力を鑑みても、これ以上の治療法はありますまい。なのに、世間様は、全くその逆を行ってしまう。つまり、しきりに『眠くならない薬』を求めたがるのですよ。生きるということは安静とは無縁だと言いたいのか、薬を飲んでまた日が変わるまで働く。そもそも、病に陥ったのも、大事な身体を顧みずに働いたのが原因だというのに……それとこれとの因果関係なぞ全く無視して、荒々しく薬屋の扉を叩き、引っ手繰るようにして薬を手に入れ、舞い上がった埃も落ちないうちに、薬屋から仕事場へ向かうのです。どうですか、実に狂っているでしょう? 『眠くならない薬』……そのような薬を求める世間様。私に言わせてみれば、そんな世の中こそが、真に病的なのです。ええ、個々人では無く、社会そのものが病に臥しているのでございますよ。ですから、お客様も、このようなモノに頼られずに、十分な休養を摂るのが最善だと、老婆心ながらに忠告しておきます」
この言葉が、自分に向けられたものであることに気付いた女は、怪訝そうな顔をカウンターに向け、二、三の文句をこぼしした。
カウンターの向こう側の白服は寂しそうな顔をして、また口を開く。
「ええ、お客様の言うこともご尤もでございます。限られた枠組みの中、歯車が一つでも欠けてしまえば、機械は動きません。病気であろうが何であろうが、歯車を回さなければ、世の中は回らぬものなのです。……歯車を回さないということは、命綱を切るということ。ええ、その通りでございます。ですが、それなら猶のこと、お客様はモットご自分の身体を労わったほうが宜しいかと。……え、そんな御高説を垂れる暇があるなら、こんな病み切った世の中を治す薬でも創ってしまえ、ですか? ハハハ、面白いことを仰る。そんな夢のような薬があれば、お客様も私の詰まらない話を聞かなくて済んだでしょうに。いやはや、残念でございますね。いや、しかし、もし、そんな薬が出来てしまえば、私どもは飯の食い上げでございますね。誰一人として病まない世界の中で、今度は薬屋が病んでしまうとは。ハハ、これは滑稽。ええ、有り得ませんよ、そんな薬は。ンフフフ……ああ、失礼しました、老婆心ながらのご忠告だったのですが……。おや、お待たせしました、お薬の用意が出来たようです。へえ、こちらでございます。ええ、何卒、ご無理は為さらぬように……」
女は無言で店を出る。勢いよく閉められる扉。
ただし、蝶番の硬さがあだとなり乱暴な音は成さず、ただ風圧のみが顔に当たった。
「……全く馬鹿につける薬は無い、とはこのことか……おっと、失礼、いらしてたんですね。気づかなくて申し訳ない。さあ、×××薬局へようこそ。薬と名の付くものなら何でも取り揃えておりますよ。さて、どのようなお薬をお望みでございますか、お客様?」
重い扉を開くと、埃っぽい生薬の臭いと無機質な消毒液の臭いが、どっと押し寄せてきた。