大日本帝国空軍の空軍空母についての雑文
太平洋戦争中の大日本帝国空軍には、空軍空母と呼ばれる空軍が所有する空母があった。
以下の文章は、空軍空母について筆者が書いた雑文である。
筆者は歴史研究家ではなく、だだの乱読家の素人なので、空軍空母について事実誤認があれば、ご指摘いただきたい。
空軍に所属する空母などという奇妙な存在が何故生まれたのか?
その理由は、帝国空軍が健軍された一千九百三十年代にさかのぼる。
陸軍、海軍に次ぐ第三の軍である空軍が日本において健軍された理由はいくつかある。
表向きの一番の理由が第一次世界大戦以後、各国に空軍が健軍されたため、世界の最新の動きに乗り遅れないためである。
しかし、表向きにできない裏の理由もあった。
政府の指示を無視して陸海軍が暴走した場合に、空軍を歯止めにするためであった。
大日本帝国憲法の規定では、帝国陸海軍の統帥権は内閣には無い。
そのため内閣・政府の方針を無視して陸海軍が「統帥権の独立」を盾に軍事行動を起こす危険があった。
そのため法律上明確に空軍は内閣の指揮下として、空軍大臣も文民のみがなるものとした。(空軍軍人が退役した場合は文民あつかいになるので、元空軍軍人が空軍大臣になるのは可)
一部の政治家や軍人は「統帥権干犯だ!」「憲法違反だ!」と騒いだが、帝国憲法の条文で統帥権について明記されているのは陸海軍についてであって、空軍については何も規定が無いため、政府は反対を押し切った。
こうして日本政府は自己にとって一番信頼できる軍隊を手に入れたのであった。
空軍の主な役割は本土防空となった。
当初は陸海軍から全ての航空隊を取り上げ、空軍が航空兵力を独占しようとしたが、それは陸海軍の激しい抵抗により無理だった。
次に、長距離爆撃機を空軍の独占にしようとしたが、陸軍は大陸での航空撃滅戦のために重爆撃機を自らの手に置きたかったし、海軍も太平洋での艦隊決戦のための補助として陸上攻撃機を手元に置きたかったので、それも無理であった。
それどころか、陸海軍は日本本土の空を空軍が優先する交換条件として、「空軍が長距離爆撃機を保有しない」事を認めさせてしまったのだ。
その条件を呑まないと、空軍の健軍その物が潰れそうだったので、やむなく、空軍はその条件を呑んだ。
空軍は邀撃戦闘機を主力とした防空軍として発達する事になった。
空軍の保有する邀撃戦闘機は、開発の二度手間を避けるために海軍戦闘機と基本的に共通とした。
空軍は日本本土を主な活動領域とするが、日本近海ではあるが洋上飛行も多くなるため海軍機の方が色々と便利だと考えられたからである。
最初に空軍に採用された邀撃戦闘機は、海軍の九六式艦上戦闘機を空軍仕様に改造した「九六式邀撃戦闘機」であった。
基本的には海軍の機体と同じだが、邀撃戦闘機のため海軍機ほど航続距離にこだわる必要は無く、火力と装甲を強化している。
空軍の邀撃戦闘機は、ほとんどが海軍機に比べて航続距離を短くする替わりに、火力と装甲を重視していた。
そして、日本各地に電波探知機、英語で言うレーダーを設置した。
海軍は自ら電波を放つレーダーを敵に自分の位置を明らかにしてしまうため「闇夜の提灯」と言って軽視したが、空軍は少しでも遠くで敵機を探知するためにレーダーの開発・配備に熱心だった。
さらに、少しでも本土から遠くで敵を探知するために、船にレーダーを載せて洋上に展開する「空軍船舶警戒隊」が編成された。
空軍と海軍は、陸軍と海軍ほど仲は悪く無かったが、良くもないので、空軍の船を海軍が護衛はしてくれなかった。
そのため、空軍はレーダー搭載船を守るための、船を空軍独自で建造した。
「空軍高射砲船」と名付けられた船は、搭載しているのは対空用の高射砲と機銃、対潜用の爆雷のみで、海軍の駆逐艦のように艦隊戦は想定していないので魚雷は無い。
さらに、洋上に飛行場を展開できれば、敵機を迎撃するのに便利であるという発想に空軍が至るのは当然であった。
これが「空軍空母」の誕生の理由であった。
空軍空母は、空軍の正式名称は「空軍洋上航空作戦支援船」である。
しかし、現場では誰も、そんな長い名称では呼ばずに、単に「空母」と呼んでいた。
空軍空母は、海軍の空母のように艦隊戦はまったく想定しておらず。あくまで「洋上に展開する邀撃戦闘機用飛行場」である。
数千トンの商船を改造して、飛行甲板と邀撃戦闘機を整備する能力を持たせただけで、機関は商船のままで速力は十数ノット出るだけで、航空爆弾や航空魚雷も運用する能力は無い。
本土防空のため日本近海のみでの活動を想定しているため、船の燃料タンクの燃料搭載量を減らしてまで、邀撃戦闘機のための燃料・弾薬・交換用部品を搭載するためのスペースを増やしたほどであった。
つまりは、邀撃戦闘機のみを運用する本土防空専用空母であった。
空軍空母は当初は空を飛ぶ龍や鶴にちなんだ船名を付けようとしたが、海軍の空母と名前が被らないように調整するのが面倒なため、単に「一号船」「二号船」と番号で呼ぶ事になった。
空軍空母から少し話は逸れるが、空軍は空軍空挺部隊も持っていた。
表向きの理由は「本土周辺の敵飛行場を制圧するため」であったが、裏の理由は陸軍が反乱を起こした場合に対抗できる地上部隊を持つためであった。
陸海軍は空軍が地上部隊と海上部隊を持つのに反対したが、政府は「陸軍は船舶工兵を持っているし、海軍は陸戦隊を持っている」と押し切った。
太平洋戦争開戦時、空軍は空母を十隻保有していて、主に本州の太平洋側に展開していた。
空軍は日中戦争にも太平洋戦争の開戦時にも参戦していない。
日本空軍は本土防空のみを役割としていたため進攻作戦向きの機体を持っておらず。
陸海軍とも空軍の政治的発言力が増すのを嫌って、前線に空軍を出そうとしなかった。
太平洋戦争開戦時、空軍は帝国陸海空軍の中で唯一実戦経験の無い軍隊であり、そのため空軍も大本営の一員であったが、政治的発言力は低かった。
空軍は日中戦争、太平洋戦争開戦時においては、政府が期待したほどには他の軍に対して歯止めにならなかった。
空軍の初の実戦は、昭和十七年(一千九百四十一年)四月のドゥーリットル隊による帝都初空襲未遂事件であった。
アメリカは海軍の空母ホーネットから陸軍のB25爆撃機十六機を発艦させ、ドゥーリットル陸軍中佐が、それを率いていた。
日本海軍による真珠湾奇襲の報復として、帝都東京と他の主要都市を空襲しようとしていた。
日本本土周辺の空の警戒は空軍の管轄ではあるが、周辺の海上の警戒は海軍の管轄であるため、徴用漁船による海軍監視船が日本本土に近づいている米空母を発見したのは、空軍よりも早かった。
しかし、海軍は米海軍の空母艦載機による本土空襲と予測したため、B25の航続距離は空母艦載機より長いため、海軍の対応は遅れた。
しかし、空軍はレーダー搭載船によりドゥーリットル隊を探知すると、空軍空母から発艦した邀撃戦闘機で迎撃した。
それは空軍仕様の零戦であった。(空母で運用するため基本は海軍の零戦と同じであるが、邀撃戦闘機として、火力を強化して防弾装備をしている)
洋上でドゥーリットル隊を全機撃墜するのに成功し、本土には指一本触れさせなかった。
空軍は初の戦果を大々的に報道発表し、国民の間で空軍の評価は上がった。
そして、海軍の連合艦隊司令部主導で実行しようとしていたミッドウェー作戦は、海軍軍令部が元々反対だった事もあり、「必要性が薄れた」と中止された。
次に、空軍が本格的に活動したのは、戦争末期、米軍による本土空襲が本格化した頃である。
マリアナの決戦で海軍は、それまで一隻も失わなかった正規空母を多数喪失し、米軍にB29による本土空襲可能な拠点を奪われてしまったが、米海軍の空母機動部隊にも相応の損害を与えたため、米海軍の空母機動部隊の活動は不活発になった。
B29による本土空襲は、洋上の空軍レーダー搭載船と空軍空母により、B29が洋上にいる間も見失う事は無かった。
もし、地上に設置したレーダーだけであったら、B29を探知できない空白の時間があっただろう。
空軍空母からは、この時期には紫電改が運用されるようになり、地上基地からは雷電や震電が運用されていた。
B29の大編隊による本土空襲を完全に阻止するのはできなかったが、B29の米軍乗組員からは、「トーキョー行き航空便、臨時で地獄行き」とブラックジョークが言われるほどの損害は与え続けた。
そのため、米軍上層部は、完成した原子爆弾の実戦投入をためらった。
原爆を搭載した機体が日本軍により撃墜され、原爆が鹵獲されてしまう可能性が高いと判断したからだ。
結局、原爆の実戦投入は一度も無かった。
日本政府は最終的には、連合国による条件付き講和を受け入れたが、日本空軍が苦戦しながらも日本本土上空の制空権を維持しなかったら、無条件降伏をする事になっていたというのが多くの歴史家による定説である。
講和を受け入れず反乱を起こそうとした一部の陸海軍の部隊がいた。
彼らの主張は「統帥権を持たない政府の講和に従えない」であった。
統帥権の大元の人物も政府の講和には同意されていたのだが、彼らの主張は「政府に欺かれておられるのを正す」であった。
陸海軍の中には反乱に同調しようとしたり、心情的に同意したりする者も多かったため、政府が鎮圧命令を出すと、従わなかったり反乱部隊に合流してしまう可能性があった。
政府が鎮圧命令を出したのは、空軍に対してであった。
政府の指揮下にある空軍部隊は反乱の動きは無く、政府にとって最も信頼できる軍であった。
空軍空挺部隊により反乱は鎮圧された。
戦後、日本は講和条件と軍事費削減により、軍備は削減された。
陸軍は本土防衛軍となり、海軍は本土近海と海上交通路を守る軍となった。
空軍は相変わらず本土の空を守る防空軍であった。
そして、空軍空母は全て解体されてスクラップとなった。
空軍は地上基地から運用するジェット戦闘機を配備し始めたため、商船改造空母でレシプロ戦闘機しか運用できない空軍空母の価値が下がったからであった。
空軍空母については数枚の写真しか残されておらず。
見た目は海軍の正規空母にくらべれば格好悪いため、艦船マニアなどの間でも人気が無い。
注目されるのは搭載していた空軍仕様の零戦や紫電改ばかりである。
しかし、空軍空母は日本の空を守る一翼を担った存在として、もっと取り上げられるべきと、筆者は考える。
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