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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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枯れた恋に咲く花の色は

掲載日:2026/10/16

 皆本 ( みなもと)光 ( ひかり)はまるで天から愛されたかのような少女だった。

 スポーツを始めれば大会で必ず上位に入り、勉強でも同様に模試では全国で一位になる。『天は二物を与えず』という慣用句があるが、彼女は二物どころでは済まない才と輝かんばかりに美しい容姿をしていた。

 彼女を知る人々は口を揃えて「彼女に叶えることのできない願いなんてあるのだろうか?」と言ったが、そんな彼女にもたったひとつだけ、叶えられなかった願いごとがあった。


 長年片思いをしていた幼馴染のお姉さんが、結婚してしまったのだ。


 光の五つ年上の宮中 ( みやなか)藤 ( ふじ)は女同士ということもあって幼い頃からよく一緒に遊んでいた。今思えば面倒を見てもらっていただけなのだが、それでも光が藤に恋心を抱くには十分な時間だった。

 宮中藤はその名の通り藤の花のようにたおやかで美しい。だからこそ、彼女に近付く男 ( 虫)は光が払ってきたし、自分が成人して告白するまではそうしようと思っていた。

 ところが、結婚。成人まであと少しというところでのその話は光にとって衝撃が強すぎた。今まで一切男の影の見えなかった藤が結婚することは、光にとって正に青天の霹靂だったのだ。


■■■


「うぅ〜……まさか大学のときには付き合ってたなんて……」


 式場の庭園の白いベンチの上でぐすぐすと光は泣いていた。整った顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、普段の凛とした美しさは見る影もない。

 「今度結婚するんだ〜」と藤が嬉しそうに笑いながら報告してきた時から覚悟をしていたが、聞くだけの情報と実際に見るのではダメージが全然違う。

 あまりのショックの大きさに式の途中にも関わらず退席してしまった光は、恋心に邪魔をされ素直に祝福できなかったことへの申し訳なさと失恋の痛みで会場へ戻れなくなってしまった。


「……藤お姉ちゃん、綺麗だったな……」


 ヴェールから透ける墨のように艶 ( つや)やかで黒い髪も、雪のように白い肌も、整った顔を彩る普段よりも華やかなお化粧も、全てが藤の魅力を最大限に引き立てていた。その隣に立つ平凡な新郎の姿が「自分が藤の隣に立つことはない」と現実を突きつけてくるようで、大好きな藤の美しいはずの姿がずきりと胸に突き刺さった。

 だからだろうか、新郎と誓いのキスを交わす場面を見ていられずに「具合が悪い」と逃げ出してしまったのは。

 それを思い出してしまったのか、ぽかぽかと暖かいはずの日差しの中で光が濃紺のドレスの裾を掴んで肩を震わせていると、不意にぱたぱたと石畳を踏む軽い足音が聞こえてきた。


「あ、いた!光さん、大丈夫ですか?」

「……紫 ( ゆかり)ちゃん。」


 光は涙に濡れた顔を見られたくなくて、視線だけを上げてその少女を見た。

 藤の姪っ子である紫は血縁もあってか、幼い頃の藤によく似た顔をしている。そのせいで光は藤のことを思い出して、少し治まった涙がまた目を潤ませて俯いた。


「……光さん?」

「……だい、じょぶ、だからっ……ほっといて……」


 光の上擦った声に紫はさらに心配になって、肩に掛けた小さなショルダーバッグから柔らかなハンカチを取り出して光の頬に当てた。それを煩わしいと思いながらも今の光には振り払う気力もない。俯いたまま涙を染み込ませていく綿布の感触に絆され、光はハンカチを握る紫の手にそっと頬を擦り寄せて下唇を噛んだ。


「……あの。もしかして好きだったんですか?藤姉さんのこと。」


 思い出の中の藤によく似た顔と声で尋ねられ、光はどきりと心臓を掴まれた気分になった。本当は藤以外にその想いを明かすつもりはなかったけれど、光の泣き疲れて酸欠になった頭は誰かに苦しみを吐露したくてたまらなかった。


「……そうだよ。ずっと、ずーっと好きだったの……」


 息苦しさに耐えかねて光が力なくそう零すと、紫の鋭く息を吸う音が聞こえた。幼い頃から接していたお姉さんが「同性が好き」なんて引かれて当然だ、と離れようとする光の袖口を紫が控えめに掴んだ。


「あの、光さん。」

「……なぁに?」

「私じゃ、藤姉さんの代わりになれませんか。」


 『代わり』。その言葉に上手く言い表せないほどの甘美さを光は抱いた。たしかに、藤とそっくりな顔の紫を代替品とすることで光の気持ちは幾分か慰められるだろう。

 けれど、よく似ているとはいえ紫は藤ではない。


 光の恋した人は、決して光の隣にはいてくれないのだ。


「……ダメだよ、紫ちゃん。そんなこと言っちゃ……」

「なんでですか?私は光さんのこと好きだから、だから光さんの役に立ちたくて」

「好き?そっか。……気持ちは嬉しいけど、それでも『代わり』なんて虚しいだけだよ。紫ちゃんも……私も。」


 紫の言葉に詰まったような表情にずきずきと罪悪感を感じながらも、光は「これで良いんだ」と自分に言い聞かせた。光は成人も目前の十七だけれど、紫はまだ十二なのだ。まだまだ幼い紫が自分みたいな人間に引っかかる必要なんてない、と光は考えて歪に笑った。

 そして今度こそ紫から離れようと思って、光は袖口を掴む小さな手を解こうと手を伸ばした。しかし紫は手を離すどころか光の手にするりと指を絡ませて、ぐっと何かを堪えるかのように光の目を見た。


「紫ちゃん?」

「それってつまり……藤姉さんよりも私のことを好きになって貰えれば良いってことですよね?」

「えっ?」

「『藤姉さんの代わり』なんて光さんが思わないくらい私に惚れてくれたら、そしたらもう虚しくなんてないですよね?」


 予想外の発言に戸惑う光の腕を引っ張って、紫はその頬に控えめに口付けた。整髪料の少しつんとくる香りと子どもらしい柔らかな感触に光の頭は真っ白になり、ぽかんと目も口も開いて紫の顔を見ることしかできなかった。


「私、頑張りますから!」

「え……あ、うん……」


 五つ年下の少女の勢いに呑まれ、光はぎこちなく頷くことしかできなかった。

 嬉しそうに笑う紫とは裏腹に、光の脳内は不安に押し潰されてしまいそうだった。


■■■


 宮中紫は藤の兄の娘で、藤と同じく光とは幼少の頃から共に過ごした仲だ。それこそ生まれた頃から知っている紫の存在は光にとってはほとんど妹のようなものであり、全くもってそういう目では見たことがなかった。


(……だけど、それはきっと藤お姉ちゃんから見た私も同じだったんだよね……)


 どうやって帰ってきたのかも分からない自分の部屋の隅で、ドレスのまま膝を抱える。光にとっての初恋は藤で、それを今の今まで拗らせてきたため交際経験などもまったくない。だからこそ、この歳になるまでその事実に気付くことができなかったのだ。

 ようやく初めて気付いた『年の差』という壁の厚さと自分の不甲斐なさにしばらく膝を抱えていたが、ふと何かを思い出したようにふらりと立ち上がって学習机の引き出しを開けた。

 六つの頃から使っている学習机は年季が入っているものの、十年以上毎日使っていても壊れないほどに丈夫だった。おまけに鍵の付いた引き出しがあったので、幼い光はそれを宝箱代わりに使っていたのだ。


「……」


 別の引き出しから取り出した小さな鍵を、引き出しの鍵穴に差し込んでゆっくりと回す。かちゃん、とロックの外れる音がして引き出しが軽く浮いた。


「……もう、いっか。」


 自分に言い聞かせるように発した言葉は、破れたはずの恋心にまだ痛みを走らせた。けれど光はもう泣くことすらもできずに、赤く腫れる目元だけを歪めたまま引き出しの中から安っぽい指輪を取り出した。眩い月明かりに古びた金属が朧げに浮かび上がり、守られなかった幼い約束が浮かんで崩れてゆく。

 本当は光だって、その約束がただのその場しのぎの戯れだと分かっていた。それなのに、こんな歳までずっと大事にしてしまった。


(……あの薬指に指輪を嵌める役目は、私じゃなかったんだ……)


 惜しむかのようにそっと薬指の先に一度引っ掛けたが、光は未練を断ち切るかのようにそのままゴミ箱の底に埋めた。


[newpage]


 いつの間に眠っていたのだろうか。

 髪を枕に床でうずくまっていた身体を、光は不自由そうに起こした。フローリングの痕の残る関節は固く、肩を上げる動作すらままならない。

 カーテンを閉め忘れた窓からは朝日が忍び込み、寝衣にされたドレスの皺をくっきりと浮かび上がらせる。光は「やってしまった」と考えながらも、どこか画面越しの景色のように思えた。

 ドアの前に放られたままの鞄からスマートフォンを取り出して電源ボタンを軽く押し込む。表示される時刻に日の長さを感じて腫れぼったい瞼を擦った。

 時刻の下に表示されているメッセージ通知をついいつもの癖で開いてしまった光は、起動されるメッセージアプリの画面を恐る恐る覗き込んだ。

 通知はどうやら藤からのメッセージだったようで、チャット画面のアイコンには毎日飽きもせず眺めていた藤の顔が映っていた。枯れたはずの涙腺がまた緩むのを感じて返信もせずにアプリを閉じると、光は逃げるように部屋を出た。

 さすがにまだ誰も起きていないのか、廊下はしんと静まっていて自分の立てる音しか聞こえない。少し心細くなった光は4LDKの短い廊下を足早に抜けて、リビングに通じるドアを開けてすぐに電気を点けた。

 パチリ、とプラスチック製のスイッチを押すとすぐに室内は明るくなりようやく光は落ち着くことができた。既読のみを付けた藤からのメッセージのことが少し気にはかかったが、考えても辛くなるだけなので、光は一度意識の外に追い出した。

 どうやら家族は落ち込む光のことを気遣ってくれていたらしく、ダイニングテーブルの上にメモが残されていた。その気遣いをありがたく思いながらもやはり罪悪感を覚えてしまうのは、光が不釣り合いな恋愛感情に振り回されているせいだろうか。


 温めようと冷蔵庫から冷たいおにぎりを取り出して、ラップを剥がさずにそのまま電子レンジへ入れる。いつも通りにツマミを回して、皿が回るその間にグラスに水を注いで一気に飲み干した。

 飲み慣れているはずの水道水のカルキがひどく苦く感じて、光は自分がそれほどまでに弱っていることをようやく自覚した。失恋とはこれほどまでに苦しいものなのか、と驚きながらも、十年以上もの片思いを伝えることすらせずに破れたのだから当然だ、とも思った。

 タイマーの回り終えた電子レンジが軽やかに鳴ったが、光はシンクの底を覗き込んだままだ。動く気も起きず、ただ「大人になるまで」と向き合うことから逃げていたくせに「好きだった」と宣う己の傲慢さに気付いて腹が立った。


(だけど……「好き」って伝えてもきっと何も変わらなかった……)


 光が紫をそう見ないように、藤もまた光を恋愛対象として見ない。

 それでも、今のように不完全なまま終わらせずにきちんと振られたなら、きっともっと辛くなかったはずだ。


 ステンレスに映る自分の顔が歪んで見えなくなる。何もしたくなくて、それでも何かしなければ、とゆっくりと電子レンジからおにぎりを取り出してかじりついた。

具の味なんて分からなくても、少しずつでも食べなければいけないのだ、と分かっていたから。

 恋した人 ( 藤)の幸福の足を引っ張ることだけは絶対にあってはならない。藤が結婚し旅立っていくという時に、失恋したというのにこの期に及んでまだ心配をかける訳にはいかないのだ、とちっぽけな矜恃を焚きつけて、光は味のしないおにぎりを口に運び続けた。

 米の甘さも、鮭フレークのしょっぱさも分からない。

 ただ、ぬるい涙と詰まる息ばかりが、光に感じられる全てだった。


■■■


 小さなおにぎりを何とか胃袋に収め終えた後、光はまた動けなくなってしまった。やらなければならないことは沢山あるというのに、どれから手をつければいいのか分からずに思考が止まる。全ての作業を整理するには今の光の頭では余裕がなさすぎたのだ。

 そうしてまたぼんやりと蛇口からぽつり、ぽつりと落ちていく雫を眺めていると、ふと、呼び鈴の音が響いた。

 それでも動かずにいると再び鳴ったため、光はモニターの確認もせずにのろのろと玄関の扉を開けた。


「誰……」

「あ、おはようございま______って、光さん!?大丈夫ですか!?」

「……紫ちゃんか。こんな朝早くにどうしたの。」


 紫の言葉に「大丈夫」と返すだけの気力すらもなく、光は少し咎めるような声色でそう尋ねた。紫は一瞬だけ怖気付いたように眉を下げたが、すぐに強気に吊り上げて光の腕を掴んだ。

 光には驚くだけの余裕もなかった。ただ掴まれた腕をじっと見つめて、またぼんやりと無気力に佇んでいるばかりの状態だ。その様子に紫はまた悲しげに眉を下げて口を開いた。


「……お風呂!とりあえずお風呂入りましょう?」

「あー……うん。そうだね。」

「お邪魔しますね?」

「あー……うん。」


 光の言葉を選ぶことすら億劫な様子に紫は一瞬良くない考えが浮かんだが、「しっかり休めば元の光さんに戻ってくれるはず」とすぐに思い直して、掴んだままの腕を引いた。


 紫が靴を脱ぐ間に光も靴を脱いで靴箱の端に寄せる。きちんと履くことが面倒で踵を潰してしまったスニーカーは、確か藤のお下がりでもらった学校指定のものだったか。

 脳裏に浮かぶ藤の顔に、幸福を願いながらもちっとも諦めきれていないことが重くのしかかり、光の顔はさらに曇った。その隣に小さな靴を置いた小さな手は再び光の手を引いて、迷うことなく脱衣所へと導く。紫はもう何度も光の家へ遊びに来ているのだから当たり前だ。


 風呂場に繋がる部屋は洗濯機や洗面台も設置されていて、洗面所兼脱衣所といったところだ。紫は背伸びをして、洗面台から光のいつも使っているシートタイプの化粧落としを取るとペリペリと粘着式の蓋を開いた。


「光さん、ちょっとひやっとしますよ」


 一枚抜き取ったシートで光の顔を拭う手は優しく、ファンデーションがよれて斑になるほど泣き腫らした肌にも痛くない。

 その心地良さに光がうとうとと瞼を落とすのを必死に起こしながらも何とか作業を終え、今度は光のボサボサになったまとめ髪を丁寧に解いていった。

 整髪料の付けられた髪は固まって扱いが難しいだろうに、紫は少しづつ、少しづつ解いてピンや髪ゴムを光の髪の中から収穫していく。全て解き終えた後に光の長い髪を梳いて何も残っていないことを確認すると、紫は額の汗を拭って大きく息を吐いた。


「お化粧落として、髪は解いたので、あとは服を脱いでお風呂入るだけですよね?そうしたら私は外に出てるので_____」

「あ、待って。」


 ひと仕事終えて出ていこうとする紫を、光は呼び止めた。不思議そうな顔をする紫の前でゆっくりと背中に流れた髪を持ち上げ、光はそっと首の後ろを視線で示した。


「このドレス、一人じゃ脱げなくて……

だから、脱がせてくれない?」

「………………へっ!?」

「……嫌?後ろのジッパーを開けてくれるだけで良いんだけど……」

「あっ、いえっ!いや、って、わけじゃ、なくって……ですね……?」


 昨日の告白も響かない光の態度に紫は「子どもとしてしか見られていない」と突きつけられながらも、未熟な恋心と欲はどくりと浅ましく喉を鳴らす。そのことに気付かれたくなくて挙動不審になる紫の様子に光は何もかもを察したが、きっと何もできないだろうと気付かないふりを続けることにした。


「……だめ?」

「んぐぅ……!」


 追い討ちとばかりに首を傾げる光を前に紫は情けない声を上げた。ただでさえ美しい容姿の、しかも恋心のために何割増にも輝いて見える相手がするねだるような仕草というものは、幼い紫のなけなしの冷静さすらも奪い去ってしまった。

 紫はなにかいけないことをしているような気持ちで光の背中の金具にゆっくりと指を添えた。

 そっとつまみ上げて少し引くと、噛み合っていた部分が外れて光の素肌が露わになっていく。それに触れたい衝動を紫が抑えながらも『手伝い』に徹していることなど露知らず、光は「やっぱり恥ずかしがっているのだろうか」と呑気な推測をしながら紫が作業を終えるのを待っている。


 久しく日に晒されていない背中は白く、穢れを知らない新雪のようだ。布で守られていた皮膚は薄く、その下の赤をぼんやりと透かしている。

 まだ知らないはずの欲は紫の頭の中でどくどくと存在感を増してゆく。積もったばかりの雪に足跡を付けるように跡を残せたら、どれほどに幸福なことだろうか。


 本能に引き摺られながらもどうにか下ろしたジッパーから手を離すと、紫は熱に震える声で「終わりましたよ」と光に伝えた。


「ありがと。……よいしょ、っと。」

「ひひひ、光さん!?私まだいるんですけど!!?」


 背中側が開いたことにより緩くなったドレスを光がすとんと足元に落とすと、紫は壁に突進でもするかのように勢いよく引っ付いた。

 露わになった光の肢体は華奢ともふくよかとも言えない絶妙なバランスを保ち、薄らと腹部や二の腕に落ちる影が、彼女の努力を物語っている。細く、けれど均整のとれた筋肉質な身体は纏っていた服を脱いでもなお、中性的で美しい。

 まるで天才的な彫刻家が作り上げた芸術品かのような光の姿にさえ、紫は邪な感情を抱いてしまう。そんな自分が浅ましくて穢 ( きたな)いもののように思えて、けれど目を離すこともできずに、紫は壁に引っ付いたまま小刻みに震えていた。

 そんな紫の様子に光はくすりと笑って、揶揄うように目を細めた。


「……すけべ。」

「はっ……ば、ば、バカ!光さんのバカ!えっと、えぇーっと、バカー!!!」


 悪口など言ったこともないのであろう、幼い語彙の罵倒に光が笑っているうちに、紫は脱衣所から逃げ出した。

 一度ドアを閉めることを忘れ、けれどすぐに戻ってきてドアを閉めていく紫は素直な良い子で、やっぱりまだまだ子どもだ。

 光は微笑ましげにくすくすとしばらく笑みを零していたが、ひとしきり笑い終えるとまた、元の暗い表情に戻って、のろのろと下着を外して浴室のドアを開けた。


 樹脂製の床はひんやりと冷たく、換気扇の静かな音だけがカラカラと響く。どうしたらいいかまた分からなくなりながらも、どうにか普段の手順を思い出し光がガスのスイッチを入れると、軽やかな電子音とともに「浴室を暖めてください」と合成音声のアナウンスが忠告をしてきた。

 いつもなら暖房を付けるのだが、どうにも面倒で光はシャワーから流れ出る水がお湯になるのも待たずに頭から被った。

 幸い、外の気温が高かったのかすぐにお湯になり、水を被っていた時間は長くなかった。それでも光の肌は水の冷たさにに血の気が引いて、幽霊のように青白くなってしまった。

 四十度に満たないお湯をしばらく流して身体を温め続けると、ようやくはっきりとしてきた意識で次にすることを思い出した。

 きゅっとハンドルを回してお湯を止める。そして白いポンプを押してシャンプーを出すと、手のひらで軽く泡立てて髪に載せた。

 いくら紫が梳かしてくれたとしても、整髪料で固められていたのだ。指の通らない髪は洗いづらく、光は何度かシャンプーを足しては流し、また泡立てて、を繰り返さなければならなかった。

 ようやくいつも通りの、さらりと真っ直ぐな髪に戻り光が安堵していると、ふと脱衣所の方でドアの開く音がした。

 「家族の誰かが起きてきたのだろうか」と気にせず泡を洗い流していると、浴室の前で足音が止まった。


「……あの、光さん。」


 遠慮がちに発せられた幼い声に、光はシャワーを止めて耳を澄ました。光が「まだ心配してくれているのだろうか」と申し訳なく思っていたが、耳に届いた言葉は予想外のものだった。


「さ、さっきはひどいこと言ってごめんなさい……」

「……え?」


 思わず光が浴室のドアの方へと顔を向けると、どうやら見えもしないのに頭を下げているらしく、磨りガラス越しに見える影はいつもより小さい。紫のあまりの律儀さが笑いを通り越して眩しいもののように思えて、今までの自分の藤に対するズルさが、ずきりと光の心に突き刺さった。


(……私は、藤お姉ちゃんに対して果たして誠実だったのかな……。

ひょっとしたら、藤お姉ちゃんの傍から男を追い払うために我儘を言った私は紫ちゃんみたいに良い子じゃなかったから、悪い子だったから藤お姉ちゃんに告白することすら許されなかったんじゃないの……?)


 ようやくできた考える余裕も後悔に塗りつぶされ、光はまただらりと俯いた。紫はなんの反応もない光に不安になって、磨りガラス越しにおろおろと中の様子を窺った。


「ひ、光さん……?大丈夫ですか?」

「……」

「あ、あのっ……開けますよ?……っ失礼します!」


 紫は声の勢いとは裏腹にゆっくりとドアノブを回して、そぅっと中を覗き込んだ。浴室に満ちていた熱気と脱衣所の空気が混ざり合い、室温はぬるいとも涼しいとも言えないどっちつかずの状態だ。

 それでも寒がるように身を縮こませた光に慌てて白いバスタオルを被せた。大きなタオルは光の頭から上半身まですっぽりと覆ったが、その身が緩むことはなく、いっそう小さくなったように思えた。


「光さん、とりあえず服を_____あっ!ごめんなさい!取ってきます!」

「あ……」


 心配するあまりに先走ってしまったことに今さら気づいて、駆け出そうとする紫の細い腕を光は咄嗟に掴んだ。紫は驚いた表情で振り向いたが、光自身もどうしてそんなことをしたのか分からず、気まずそうに俯くばかりだ。

 紫は少し戸惑ったが、先に光を安心させようと思ったのか腕を掴む手にそっと自分の手を重ねた。


「……ごめん……」

「謝らなくて良いんですよ。……ほら、私だって、失恋したところにつけこもうとしてる訳ですし。」

「言っちゃうんだ?」

「そっちの方が気楽じゃないですか?」

「……そうかもね。」


 力なく笑う光の顔を覗き込む紫の目は全て見透かされそうなほどに近い。光は思いのほか縮まっていた身長差にこの時初めて気がついたが、やっぱり五つも年下の紫のことをいまさら恋愛対象として見ることはできない。


(……もし、私が……紫ちゃんのことを好きになれたら……そうしたらこの苦しさもなくなって、藤お姉ちゃんに心配かけなくても済むのかな……

だけど、それはきっと…………)


 藤への恋慕から始まる紫への恋情は、結局紫のことを藤の『代わり』にしようとしているように光には思えて仕方がなかった。

 確かめるように目を合わせると紫がふわりと微笑んで、その姿が藤と重なる。鋭い痛みが胸に走って、光の腫れた目元がくしゃりと歪んだ。

 失恋の痛みは時間が癒すどころか経つほどに苦痛を増し、光から余裕を奪ってしまう。繕うこともできずに座り込んだ光に驚いて紫がその肩を掴むと、もう考えることすらできなかったのか光は甘えるように紫の腕に頬を寄せた。


(……どうして、光さんは……光さんがひとりで傷つくよりも、私のことを傷付けてでも笑って欲しいのに……)


 辛いことを辛いと言えない光の苦しげな表情に紫はそう思ったが、口にすれば光がさらに追い詰められてしまうことは分かっていた。

 だからこそ「代わりになれない」と分かっている紫はそれ以上言葉を重ねようとはせず、光の濡れた頬をそっと指の腹で拭った。けれどぬるい水滴はとめどなく溢れ続け、拭っても拭っても滴り落ちていく。


 白いバスタオルを頭から被った光の姿はまるでヴェールを被っているようだ。紫はぼんやりと昨日の藤のウエディングドレス姿を思い出したが、布の下から覗く光の表情は藤と違い苦しげだ。

 「光さんの好きな人が藤姉さんじゃなくて自分だったら良かったのに」と口には出さずに胸の内で呟くと、紫は祈るように光の頬に口付けた。

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