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お嬢様第一侍女マリベル短編集

【書籍化進行中】お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!

作者: 月宮 かすみ
掲載日:2026/06/29

「お嬢様が、聖女様に濡れ衣を着せられたですって……?」


 公爵家の廊下で、侍女マリベルの足がぴたりと止まった。

 その手には、磨き終えたばかりの銀盆がある。

 鏡のように磨き上げられた銀盆には、マリベルの顔が映っていた。


 笑っている。


 とても、きれいに。


 それを見た若い従僕は、そっと後ずさった。


 まずい。

 この顔はまずい。


「い、いえ、まだ噂でして……大神殿で聖女リリアーナ様の浄化儀式が失敗し、その原因がエレノアお嬢様にあるのではないかと……」


「なぜ、お嬢様が?」


「聖女様がそうおっしゃったとか。エレノアお嬢様が儀式前に聖具へ触れ、聖なる力を穢したと」


 ぴしり。


 銀盆に、亀裂が入った。


 若い従僕は震えた。


 銀盆は悪くない。

 悪いのは噂である。


「お嬢様が」


 マリベルは静かに言った。


「聖具を」


「はい」


「穢した?」


「噂では……」


「なるほど」


 マリベルは亀裂の入った銀盆を、そっと近くの棚に置いた。

 とても丁寧な所作だった。

 だからこそ怖かった。


「お嬢様はどちらに?」


「温室でお茶を……」


「そうですか」


 マリベルは深く頷いた。


「では、お嬢様のお耳に入る前に、大神殿へ事実確認に参ります」


 若い従僕が息を呑む。


「大神殿へ、ですか?」


「はい」


「お一人で?」


「私は侍女ですので」


「理由になっておりませんが……」


 マリベルは背筋を伸ばし、廊下の先を見た。


 黒い侍女服。

 白いエプロン。

 きっちり結われた髪。

 どこからどう見ても、公爵家に仕える礼儀正しい侍女である。

 ただし、その右手にはいつの間にか黒塗りの鉄扇を握っていた。


 若い従僕は見なかったことにした。

 見たら止めなければならない気がしたからである。


 マリベルはそのまま走り出した。

 その背中からは怒りが立ちのぼっている。


「お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられたですって!?」


 若い従僕が、びくりと肩を跳ねさせた。


 次の瞬間。


「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!」


 公爵家の廊下に、マリベルの絶叫が響き渡った。


 銀盆を抱えた侍女が壁際に退避し、花瓶の水を替えていた下働きが固まり、廊下の角にいた老執事が静かに目を伏せる。


 マリベルは鉄扇を握りしめ、迷いなく玄関ホールへ向かった。


 侍女たるもの、廊下を走ってはならない。

 ただし、お嬢様の名誉に関わる一大事は、その限りではない。

 少なくともマリベルの中では、そう定められている。


 玄関ホールの入口まで来たところで、背後から静かな声がした。


「マリベル」


 マリベルは、ぴたりと止まった。

 走り出した勢いのまま、片足だけがわずかに前へ出ている。

 その姿勢のまま、彼女はゆっくりと振り返った。


「はい、お嬢様」


 そこに立っていたのは、公爵令嬢エレノアだった。

 淡い青のドレスをまとい、温室へ向かう途中だったのだろう。

 その表情は穏やかだった。


 そう、穏やかだったのだ。


 だからこそ、逃げ道がなかった。


「今、何と言ったの?」


「お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられた、と」


「その次」


 マリベルは一瞬だけ沈黙した。


「……少々、感情が先走りました」


「かなり先まで走っていたわ」


 マリベルは胸に手を当て、深く一礼した。


「反省いたします」


「本当に?」


「お嬢様に濡れ衣を着せた者を許さない件については、反省いたしかねます」


「マリベル」


「ですが、表現は改めます」


 マリベルは真顔で言った。


「社会的に、神殿の床へ丁重に沈めてまいります」


「改まっていないわ」


 エレノアは小さく息を吐いた。

 その表情に、わずかな影が差している。

 噂の内容は、もう聞こえてしまったのだろう。

 マリベルの胸がきゅっと痛んだ。


 お嬢様は、悪くない。

 絶対に悪くない。


 なのにこの方は、きっとまた自分の振る舞いを振り返ってしまう。

 相手を責める前に、自分の言葉や表情に落ち度がなかったか考えてしまう。

 そこが美徳であり、マリベルが守りたいところであり、同時に腹立たしくなるほど危ういところだった。


「マリベル」


「はい」


「私も行きます」


「なりません」


 即答だった。


「お嬢様に濡れ衣を着せた者たちが集まる場所へ、お嬢様をお連れするなど」


「私のことです」


「はい」


「ならば、私が自分の口で確認する必要があるわ」


「ですが」


「守ってくれるのは嬉しいけれど」


 エレノアの声は静かだった。

 けれど、譲らない芯があった。


「でも、私の代わりに怒るだけではなく、私がどう受け止めるかも見ていてほしいの」


 マリベルは言葉を失った。


 お嬢様……

 なんと気高い。

 なんと尊い。

 今すぐ大神殿を磨き上げて、お嬢様専用神殿にしたい。


 だが、侍女なので耐えた。


「……承知いたしました」


 マリベルは深々と頭を下げた。


「では、私が必ずお守りいたします」


「ええ。お願い」


「お嬢様に一歩でも害意が向いた場合」


「場合?」


「大神殿を正座させます」


「神殿は座れないわよ」


「では、神官を」


「それもだめです」


「善処いたします」


「絶対しない顔ね」


 エレノアは呆れたように言った。

 けれど、その口元が少しだけ緩んでいた。


 マリベルは胸の奥が温かくなる。


 お嬢様が笑った。

 ならば、今日の戦はすでに半分勝利である。


 廊下の向こうでは、老執事が静かに目を伏せていた。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」


 そばにいた従僕が、青ざめた顔で尋ねる。


「今回は、お嬢様もご一緒ですが……少しは安全でしょうか」


 老執事は遠い目をした。


「逆だ」


「逆?」


「お嬢様の前で格好をつけようとしたマリベルは、普段の三倍厄介になる」


 従僕は無言で走った。

 公爵家の使用人たちは、即座に動き出した。



 ***



 大神殿は、王都の中心にそびえる白亜の建物である。


 高い尖塔。

 澄んだ鐘の音。

 清らかな祈りの場。


 そこには病や穢れを癒やす聖女が仕え、人々の信仰を集めていた。

 その大神殿の正門前に、二人の女性が立った。


 一人は、公爵令嬢エレノア。

 一人は、侍女マリベル。

 マリベルの右手には黒塗りの鉄扇があった。


 門番の神官兵は、それを見て一歩下がる。


「公爵家侍女、マリベルと申します」


 マリベルは完璧に一礼した。


「聖女リリアーナ様にお取次ぎ願います」


「せ、聖女様は現在、神殿奥で祈りを……」


「では、祈り終わるまでお待ちいたします」


 神官兵はほっとした。

 案外、話が通じる。

 そう思った次の瞬間、マリベルは続けた。


「大神殿の中心で」


「中に入る気ですね!?」


「はい」


「通せません!」


「なぜでございますか?」


「エレノア様には、聖具を穢した疑いがございます。正式な調査が終わるまでは、神殿へお入りいただくわけには」


 ぱちり。


 マリベルの鉄扇が開いた。

 黒い扇面に、金文字が輝く。


『お嬢様第一』


 神官兵の顔色が変わった。


「マリベル」


 エレノアが静かに呼ぶ。

 マリベルはすっと鉄扇を下ろした。


「はい、お嬢様」


「事実確認に来たのです。まずはお話をしましょう」


「承知いたしました」


 マリベルは神官兵へ向き直る。

 とても穏やかな笑顔だった。


「では、お話をいたしましょう。お嬢様が聖具を穢したという証拠をお出しくださいませ」


「そ、それは……聖女様がそうおっしゃって……」


「証拠を」


「聖女様が」


「証拠を」


「聖女様が泣いておられて」


「涙は証拠ではございません」


 神官兵は言葉に詰まった。

 マリベルは鉄扇を閉じた。


「通していただけますね?」


「い、いえ、それは」


「通していただけますね?」


「……」


 神官兵は意を決して槍を構えた。


「ここは通せません!」


「そうですか」


 マリベルは静かに頷いた。


「では、少々失礼いたします」


「マリベル?」


 エレノアが呼んだときには、すでに遅かった。


 ぱん。


 乾いた音がした。


 神官兵の槍が宙を舞い、神殿の槍掛けへ綺麗に戻った。


「え」


 神官兵が自分の両手を見る。


 何もない。


 次の瞬間、彼は膝裏を軽く払われ、その場に正座していた。


「なぜ正座!?」


 正座させられた神官兵が、床の上で情けない声を上げる。

 マリベルは鉄扇を閉じ、涼しい顔で答えた。


「神殿ですので、祈りの姿勢に近づけました」


「違うと思います!」


 神官兵が即座に叫んだ。

 その横で、エレノアが静かに額へ手を当てる。


「マリベル」


「はい、お嬢様」


「何をしているの?」


「お話の障害を丁寧に整えております」


「人を整えないで」


「善処いたします」


 騒ぎを聞きつけた神官兵たちが次々に現れた。


「何事だ!」


「侵入者か!」


「公爵令嬢を中へ入れるな!」


 槍と杖を構えた神官兵たちが、二人を取り囲む。


 エレノアは一歩も退かなかった。


 その横で、マリベルが鉄扇を開く。


「お嬢様の前で刃物を向けるとは」


 声は静かだった。

 神殿の空気が冷える。


「大変、信仰心に欠ける行いでございますね」


「ええい、取り押さえろ!」


 神官兵たちが一斉に動いた。


 マリベルの姿が揺れる。


 鉄扇が舞う。


 ぱん、ぱん、ぱん、ぱん。


 槍が飛ぶ。

 杖が転がる。


 裾を踏んだ神官兵が転びかけたところを、マリベルが襟首を掴んで助け、そのまま正座させる。

 背後に回った神官兵は、いつの間にかエプロンの紐で柱に括られていた。

 神殿の白い床には、正座した神官兵が整然と並んでいく。


 その光景を見て、エレノアは思わず呟いた。


「なぜ全員、正座に……」


「祈りの場ですので」


 マリベルは涼しい顔で言った。

 エレノアは額に手を当てる。


「帰ったらお説教です」


「はい」


「長いお説教です」


「はい」


「神殿なので、前より長いです」


「はい」


 それでもマリベルは止まらなかった。

 なぜなら、お嬢様が濡れ衣を着せられているからである。


 これは戦である。


 そしてマリベルは、ただの侍女である。



 ***



 神殿の奥。

 大広間には、白い祭壇があった。

 その前に、聖女リリアーナが立っている。


 月光を溶かしたような白銀の髪。

 白い聖衣。

 涙をたたえた青い瞳。

 人々が思わず守りたくなるような、可憐な少女だった。


 彼女の周囲には、神官や信徒たちが集まっている。

 彼らの視線が、エレノアへ向いた。


 冷たい視線。

 疑う視線。

 責める視線。


 マリベルの鉄扇が、静かに鳴った。

 だが、エレノアは一歩も退かず、視線だけでマリベルを制した。


 逃げない。

 俯かない。

 ただまっすぐ、聖女を見る。


「リリアーナ様。私が聖具を穢したというお話について、確認に参りました」


 聖女リリアーナは、びくりと肩を震わせた。

 そして、その隣に立つマリベルを見て、明らかに顔色を変えた。


「そ、その侍女は……」


 神官の一人が小声で囁く。


「聖女様、お気をつけください。あれが、騎士団と王城を正座させたという公爵家の侍女です」


「騎士団と王城を……?」


「ただの侍女だそうです」


「ただの侍女とは……?」


 リリアーナは青ざめた。

 だが、すぐに聖女としての矜持を取り戻したように、胸元で手を組む。


「公爵令嬢エレノア様。よくも聖なる儀式を穢し、わたくしの祈りを妨げましたね」


「私は、儀式に参加しておりません」


「ですが、あなた様が聖具に触れたあと、聖杯は曇り、浄化の光は消えました」


「私は聖杯に触れておりません」


「では、なぜ儀式は失敗したのです!」


「それを確認に参りました」


 エレノアの声は静かだった。

 だが、リリアーナは唇を噛む。


「認めないのですね……それならば、聖なる力に問うまでです」


 リリアーナは両手を掲げた。

 祭壇の上に、白い光が集まり始める。


「魔の者は、わたくしが封じます!」


 その叫びに応えるように、光が一気に膨れ上がった。

 白い奔流が祭壇から溢れ、まっすぐマリベルへ向かう。


「マリベル!」


 エレノアが声を上げる。

 だが、マリベルは逃げなかった。

 鉄扇を閉じたまま、ただ静かに微笑む。


「ご安心ください、お嬢様。私はただの侍女でございます」


 次の瞬間、聖なる光がマリベルを包み込んだ。


 神官たちは息を呑む。


「聖女様の浄化が……!」


「邪悪なる者は、あの光の中で動けぬはず……!」


 光が収まる。


 そこには、マリベルが立っていた。


 無傷だった。

 髪の乱れひとつない。

 むしろ、白いエプロンが先ほどより眩しいほど白くなっている。

 黒塗りの鉄扇の金文字『お嬢様第一』は、神々しい光を帯びていた。

 背後には、なぜか後光まで差している。


 マリベルは自分のエプロンを見下ろした。


「まあ」


 そして、穏やかに微笑む。


「漂白効果がございますのね」


 神官たちが絶句した。

 聖女リリアーナの口元が引きつる。


「そ、そんな……聖なる浄化が効かないなんて……!」


「効いております」


 マリベルはエプロンを軽く摘まんだ。


「この通り、大変白く」


「そういう意味ではありません!」


 リリアーナは震える手で祭壇を掴んだ。


「やはり、ただの侍女ではありませんね……! 魔の者に違いありません!」


「私はただの侍女でございます」


「ただの侍女は浄化の光を洗濯代わりにしません!」


「便利でございました」


「認めません!」


 リリアーナは声を張り上げた。


「ならば、聖獣に問います!」


 神殿の奥から、低い唸り声が響いた。


 白銀の獣が姿を現す。


 狼にも、獅子にも似た、美しい聖獣だった。

 額には淡い光を帯びた角。

 銀の毛並みは宝石のように輝き、瞳は澄んだ泉のように青い。


 神官たちが一斉に頭を垂れる。


「聖獣アルシオン……」


「罪ある者には牙を剥き、清き者には頭を垂れる大神殿の守護聖獣……」


 リリアーナは勝ち誇ったようにエレノアを指差した。


「聖獣よ! 罪ある者を見抜きなさい! あの方です! わたくしの儀式を穢した公爵令嬢を!」


 聖獣は静かに歩き出した。

 まっすぐに、エレノアへ向かって。


 神官たちがざわめく。

 だが、エレノアは逃げなかった。

 ただほんの少しだけ、指先を握りしめる。

 マリベルの鉄扇が、ぱちりと開いた。


「お嬢様に一歩でも牙を向けたら、毛並みを整えます」


「マリベル、それは脅しではなくて?」


「慈愛でございます」


「違うと思うわ」


 聖獣はエレノアの前で足を止めた。

 大広間が静まり返る。

 聖獣の青い瞳が、エレノアを見上げた。


 そして。


 ゆっくりと、頭を垂れた。


「……え?」


 リリアーナの声が震える。


 聖獣はさらに、エレノアの手にそっと額を寄せた。

 まるで、許しを乞うように。

 エレノアは戸惑いながらも、白銀の毛並みに手を伸ばした。


「怖がらなくていいのよ」


 その声は、神殿の張り詰めた空気をほどくほど柔らかかった。


 聖獣は目を細める。

 そして、エレノアの足元に伏せた。

 完全に懐いていた。


 神官たちは言葉を失った。

 マリベルだけが、当然のように頷く。


「さすがお嬢様。聖獣も礼儀を心得ております」


「違うわ、マリベル」


「いいえ。非常に見る目のある聖獣でございます。毛並みも上等です」


 聖獣は、マリベルをちらりと見た。

 なぜか少し怯えた。


 リリアーナの顔から血の気が引いていく。


「そ、そんなはずは……聖獣が、罪ある者に頭を垂れるはずが……」


 マリベルはにっこり微笑んだ。


「では、罪がないのでは?」


「違います!」


 リリアーナは叫んだ。

 その声には、焦りが滲んでいた。


「聖獣は惑わされているのです! そうです、きっと公爵令嬢が何かを……!」


「リリアーナ様」


 エレノアは静かに言った。


「私は、聖獣を惑わせるような力は持っておりません」


「いいえ、いいえ! ならば、聖鎖に問います!」


 神官たちの顔色が変わった。


「聖女様、聖鎖は裁きのための御力です。疑いだけで用いるものでは……」


 神官の制止に、リリアーナは一瞬だけ唇を噛んだが、すぐに声を張り上げた。


「罪ある者を縛る、大神殿の裁きの鎖です! これならば、真実は明らかになります!」


 リリアーナは両手を掲げた。


「聖鎖よ! 罪ある者を縛りなさい!」


 神殿の天井から、金色の光が降り注いだ。

 それは無数の鎖となり、エレノアへ向かって伸びる。

 マリベルの鉄扇が、音を立てて開いた。


「お嬢様に触れる前に、粉にいたします」


「マリベル、待って」


「ですが、お嬢様」


「見届けます」


 エレノアは逃げなかった。

 金色の鎖が、彼女の目前まで迫る。


 聖獣が低く唸った。

 神官たちは息を呑む。

 リリアーナは、祈るように両手を握った。


 そして。


 聖鎖は、エレノアの前でぴたりと止まった。


「……?」


 鎖は、迷うように震えた。

 まるで、目の前の相手を縛るべきではないと判断しているかのように。


 次の瞬間。


 鎖はぐるりと向きを変えた。


「え――」


 リリアーナが声を漏らす。

 金色の鎖は、聖女自身の腕に、足に、身体に巻きついた。


「きゃっ!」


 リリアーナはその場に崩れ落ちる。

 聖鎖は彼女を傷つけてはいない。

 だが、逃げることも、立ち上がることも許さないように、しっかりと縛っていた。


「な、なぜ……」


 リリアーナの唇が震える。


「聖鎖は、罪ある者を縛るはず……!」


 マリベルは鉄扇を閉じた。


「ええ」


 そして、静かに微笑む。


「ですから、正しく働いているのでは?」


 大広間に沈黙が落ちた。

 神官たちは一斉に目を逸らす。

 その顔は青ざめていた。

 リリアーナは聖鎖に縛られたまま、震えている。


 マリベルは一歩前に出た。


「それでは、事実確認を始めましょうか」


「ま、待って……」


「お嬢様に罪があるとおっしゃるなら、どうぞ証拠を。聖なる光ではなく、事実をお持ちくださいませ」


「わ、わたくしは……」


「聖具を穢したとおっしゃいました。お嬢様がいつ、どこで、どのように触れたのか。証人は? 記録は? 神殿の管理者は?」


 リリアーナは答えない。

 いや、答えられなかった。


 マリベルの声は丁寧だった。

 しかし、その一語一語が、逃げ道を塞いでいく。


「お嬢様はその時間、公爵家におられました。温室で読書をされ、私がお茶をお淹れしております。公爵家の使用人全員が証言できます」


「……」


「では、聖具はなぜ曇ったのでしょう」


「……それは」


「聖女様」


 マリベルは、笑顔のまま問いかける。


「本当は、何があったのでございますか?」


 リリアーナの目に涙が浮かんだ。

 神官の一人が、たまらず声を上げる。


「聖女様は悪くない! ただ、儀式の前に少し体調が悪く、聖力が安定していなかっただけで……!」


「お黙りなさい!」


 リリアーナが叫んだ。

 その声は悲鳴に近かった。


「お願い……言わないで……!」


 神官は口を閉じる。

 だが、それで十分だった。

 マリベルの目が細くなる。


「なるほど。儀式に失敗した理由は、お嬢様ではなく、聖女様ご自身の聖力の乱れだったのですね」


「違う……違うの……」


「では?」


「怖かったの!」


 リリアーナは、聖鎖に縛られたまま泣き出した。


「聖女なのに、儀式に失敗したなんて知られたら、皆が失望すると思ったの……神官たちも、信徒たちも、わたくしに奇跡を期待していて……」


 その声は、弱々しく震えていた。


「エレノア様は、いつも落ち着いていて、凛としていて……誰からも一目置かれていて……わたくしがどれだけ祈っても届かないものを、最初から持っているように見えたの……」


 エレノアは静かにリリアーナを見ていた。

 マリベルの鉄扇が、再び開く。


「そのために」


 声が冷える。


「お嬢様に罪を着せたと?」


 神官兵たちは自主的に正座した。


 誰も命じていない。


 だが、今は正座していた方が安全だと本能で理解したのだ。


「マリベル」


 エレノアが静かに制した。

 マリベルは唇を結ぶ。


「お嬢様」


「そこまでです」


「ですが」


「私が話します」


 エレノアは一歩前に出た。


 聖獣がそっと道を開ける。


 エレノアは聖鎖に縛られたリリアーナの前に膝をついた。


 マリベルは目を見開く。


「お嬢様、床が」


「大丈夫よ」


 エレノアはリリアーナと目線を合わせた。

 責めるためではなく、見下ろさないために。


 リリアーナは泣き濡れた目で、エレノアを見つめる。


「あなたが怖かったのなら、そう言ってよかったのよ」


 エレノアの声は穏やかだった。


「でも、していない罪を着せられるのは、私も苦しいわ」


「……エレノア様」


「聖女でいることが苦しかったのね。期待に応えられないことが、怖かったのよね」


 リリアーナの唇が震える。


「でも、その怖さを誰かに押しつけてはいけません。あなたの祈りを信じている人たちのためにも。あなた自身のためにも」


「わたくし……」


「間違えたのなら、謝ればいいし、償えばいいのよ。完璧でなくても、祈り続けることはできるから」


 リリアーナは声を上げて泣いた。


 その瞬間。


 聖鎖が淡く光った。


 きつく巻きついていた金色の鎖が、少しずつ緩んでいく。

 まるで、エレノアの言葉に応えるように。


 聖獣が静かに頭を垂れた。

 神官たちは息を呑む。


 リリアーナは呆然とエレノアを見上げた。


 自分を責めるのではなく、諭す人。

 断罪するのではなく、立ち上がる道を示す人。

 罪を見逃すのではなく、逃げ道ではない許しを差し出す人。


「……あなた様は」


 リリアーナの声が震えた。


「女神様……?」


「違います」


 エレノアは即答した。

 しかし、マリベルは深く頷いた。


「ようやくお気づきに?」


「マリベル」


「失礼いたしました」


 リリアーナは、聖鎖が解けたあとも、その場に座り込んだままだった。

 そして、深く頭を下げる。


「エレノア様……申し訳、ございませんでした。わたくしは、自分の弱さを認められず、あなた様に罪を着せました」


 エレノアは静かに頷いた。


「謝罪は受け取ります。ですが、この件は私だけの問題ではありません。大神殿として、事実を明らかにしてください」


「はい……」


「そして、あなたを追い詰めたものについても、きちんと見直すべきです。聖女だからといって、失敗を許されない場所なら、また同じことが起きますから」


 神官長が、深く頭を下げた。


「公爵令嬢エレノア様。此度の件、大神殿として正式に謝罪いたします。調査のうえ、必ず公爵家へご報告を」


 マリベルが一歩前に出る。


「報告書は三部ご用意くださいませ。公爵家用、お嬢様用、私用です」


「マリベル、あなた用は要らないわ」


「必要でございます。再発防止のために」


「それは神殿がすることよ」


「監査いたします」


「しなくていいの」


 そのやり取りを、リリアーナは呆然と見つめていた。


 そして、胸の前で両手を組む。


「エレノア様」


「はい?」


「どうか、わたくしにも、あなた様にお仕えする機会を……!」


 ぱちん。


 マリベルの鉄扇が開いた。


 神官兵たちが一斉に背筋を伸ばす。


「お嬢様のお世話係は定員一名でございます」


「マリベル」


「いえ、これは大変重要な問題でございます」


 マリベルはリリアーナを見た。


「お嬢様を崇めるお気持ちは理解いたします。非常によく理解いたします。むしろ遅いくらいです」


「マリベル」


「ですが、距離が近い」


 リリアーナは慌てて首を振った。


「まだ何もしておりませんわ!」


「志願した時点で近いのでございます」


 リリアーナは真剣な顔で言った。


「では、見習いからでも」


「見習い期間三百年からであれば検討いたします」


「人間の寿命を超えてますよ!」


「覚悟を見ております」


「マリベル」


「譲歩でございます」


 エレノアは深くため息をついた。


 聖獣は、なぜかエレノアの足元で満足げに伏せている。

 神官たちは、なぜか正座したまま動かない。

 聖女はエレノアを潤んだ瞳で見つめている。

 マリベルは鉄扇を構えている。


 エレノアは思った。


 なぜ、こうなるのかしら。


 だが、少なくとも濡れ衣は晴れた。

 リリアーナも、自分の罪と向き合おうとしている。

 ならば、今日はこれでいいのだろう。


「帰りましょう、マリベル」


「はい、お嬢様」


「帰ったらお説教です」


「はい」


「神殿で暴れてはいけません」


「はい」


「神官兵を正座させてもいけません」


「はい」


「聖女様に鉄扇を向けてもいけません」


「はい」


「反省している?」


「お嬢様に濡れ衣を着せた者を許さない件については、反省いたしかねます」


「マリベル」


「ですが、聖鎖が聖女様を縛った件については、私の手柄ではございません」


「そこは手柄ではないわ」


「事実でございます」


 エレノアは呆れたように笑った。

 その笑顔を見た瞬間、マリベルの胸に熱いものが込み上げる。


 お嬢様が笑った。


 ならば、今日の戦も勝利である。



 ***



 翌日。


 大神殿には、新しい戒律が掲げられた。


 一つ。

 涙は証拠ではない。


 一つ。

 聖なる力を私情で用いてはならない。


 一つ。

 聖女も失敗を認め、正しく償うこと。


 一つ。

 公爵令嬢エレノア様に関する訴えは、必ず事実確認を行うこと。


 そして、誰が書き足したのか分からない小さな一文が、最後に添えられていた。


『なお、公爵家侍女マリベルを怒らせてはならない』


 神官長はその一文を消そうとした。

 だが、正座していた神官兵たちが一斉に首を横に振った。


 消してはならない。

 これは戒律ではなく、安全対策である。



 ***



 公爵家では、エレノア宛てに一通の手紙が届いていた。

 差出人は、聖女リリアーナ。

 美しい文字で、こう綴られている。


『エレノア様。あなた様の慈悲深き御心に少しでも近づけるよう、日々祈りを捧げております。いつか、あなた様の足元に侍ることをお許しいただけましたら――』


 そこまで読んだところで、マリベルの鉄扇が開いた。


「お嬢様への信仰心は評価いたしますが、距離感に問題がございます」


 エレノアは手紙から顔を上げた。


「あなたがそれを言うの?」


「私は侍女でございますので」


「答えになっていないわ」


 マリベルは完璧な笑顔で返した。


 侍女なので。



 そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。


「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」


 屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。

 老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」


 公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。


 お嬢様が呼ばれた。


 ならば、戦である。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


お嬢様第一侍女マリベルのお話は、他にもあります。

気に入っていただけましたら、第一作目の「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」もぜひ読んでみてくださいね。


また、第四作目となる番外編、

「お嬢様が勇者パーティーを追放されたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」

を、7月1日の18時ごろに投稿予定です。


今度は勇者パーティー相手に、マリベルがいつも通り大暴れします。

よろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。


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― 新着の感想 ―
タイトルが「あああああああああ!!」の叫び声だったら「ああ侍女がまたやってんな」と思うようになってしまった。 調教されてる。 この侍女に忠誠を誓われるだけの事があるお嬢様ですね。慈悲と寛容と思慮の化身…
「次の方」がなくて寂しかった… お嬢様が一緒だったからしょうがないかな~。 今回は「漂白効果がございますのね」がツボでした。 あと、毛並みを整えるって丸刈りかしらん。 そりゃ、聖獣も怖がるわなあ。
3作目ありがとうございます! 今更ですが、気付いてしまいました。鉄扇で膝の裏を打って正座にする技は…… 『膝カックン』だと!!(笑) 【世界最強の侍女マリベル列伝】(←タイトル違うよ!でも何故か納得…
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