【書籍化進行中】お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!
「お嬢様が、聖女様に濡れ衣を着せられたですって……?」
公爵家の廊下で、侍女マリベルの足がぴたりと止まった。
その手には、磨き終えたばかりの銀盆がある。
鏡のように磨き上げられた銀盆には、マリベルの顔が映っていた。
笑っている。
とても、きれいに。
それを見た若い従僕は、そっと後ずさった。
まずい。
この顔はまずい。
「い、いえ、まだ噂でして……大神殿で聖女リリアーナ様の浄化儀式が失敗し、その原因がエレノアお嬢様にあるのではないかと……」
「なぜ、お嬢様が?」
「聖女様がそうおっしゃったとか。エレノアお嬢様が儀式前に聖具へ触れ、聖なる力を穢したと」
ぴしり。
銀盆に、亀裂が入った。
若い従僕は震えた。
銀盆は悪くない。
悪いのは噂である。
「お嬢様が」
マリベルは静かに言った。
「聖具を」
「はい」
「穢した?」
「噂では……」
「なるほど」
マリベルは亀裂の入った銀盆を、そっと近くの棚に置いた。
とても丁寧な所作だった。
だからこそ怖かった。
「お嬢様はどちらに?」
「温室でお茶を……」
「そうですか」
マリベルは深く頷いた。
「では、お嬢様のお耳に入る前に、大神殿へ事実確認に参ります」
若い従僕が息を呑む。
「大神殿へ、ですか?」
「はい」
「お一人で?」
「私は侍女ですので」
「理由になっておりませんが……」
マリベルは背筋を伸ばし、廊下の先を見た。
黒い侍女服。
白いエプロン。
きっちり結われた髪。
どこからどう見ても、公爵家に仕える礼儀正しい侍女である。
ただし、その右手にはいつの間にか黒塗りの鉄扇を握っていた。
若い従僕は見なかったことにした。
見たら止めなければならない気がしたからである。
マリベルはそのまま走り出した。
その背中からは怒りが立ちのぼっている。
「お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられたですって!?」
若い従僕が、びくりと肩を跳ねさせた。
次の瞬間。
「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!」
公爵家の廊下に、マリベルの絶叫が響き渡った。
銀盆を抱えた侍女が壁際に退避し、花瓶の水を替えていた下働きが固まり、廊下の角にいた老執事が静かに目を伏せる。
マリベルは鉄扇を握りしめ、迷いなく玄関ホールへ向かった。
侍女たるもの、廊下を走ってはならない。
ただし、お嬢様の名誉に関わる一大事は、その限りではない。
少なくともマリベルの中では、そう定められている。
玄関ホールの入口まで来たところで、背後から静かな声がした。
「マリベル」
マリベルは、ぴたりと止まった。
走り出した勢いのまま、片足だけがわずかに前へ出ている。
その姿勢のまま、彼女はゆっくりと振り返った。
「はい、お嬢様」
そこに立っていたのは、公爵令嬢エレノアだった。
淡い青のドレスをまとい、温室へ向かう途中だったのだろう。
その表情は穏やかだった。
そう、穏やかだったのだ。
だからこそ、逃げ道がなかった。
「今、何と言ったの?」
「お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられた、と」
「その次」
マリベルは一瞬だけ沈黙した。
「……少々、感情が先走りました」
「かなり先まで走っていたわ」
マリベルは胸に手を当て、深く一礼した。
「反省いたします」
「本当に?」
「お嬢様に濡れ衣を着せた者を許さない件については、反省いたしかねます」
「マリベル」
「ですが、表現は改めます」
マリベルは真顔で言った。
「社会的に、神殿の床へ丁重に沈めてまいります」
「改まっていないわ」
エレノアは小さく息を吐いた。
その表情に、わずかな影が差している。
噂の内容は、もう聞こえてしまったのだろう。
マリベルの胸がきゅっと痛んだ。
お嬢様は、悪くない。
絶対に悪くない。
なのにこの方は、きっとまた自分の振る舞いを振り返ってしまう。
相手を責める前に、自分の言葉や表情に落ち度がなかったか考えてしまう。
そこが美徳であり、マリベルが守りたいところであり、同時に腹立たしくなるほど危ういところだった。
「マリベル」
「はい」
「私も行きます」
「なりません」
即答だった。
「お嬢様に濡れ衣を着せた者たちが集まる場所へ、お嬢様をお連れするなど」
「私のことです」
「はい」
「ならば、私が自分の口で確認する必要があるわ」
「ですが」
「守ってくれるのは嬉しいけれど」
エレノアの声は静かだった。
けれど、譲らない芯があった。
「でも、私の代わりに怒るだけではなく、私がどう受け止めるかも見ていてほしいの」
マリベルは言葉を失った。
お嬢様……
なんと気高い。
なんと尊い。
今すぐ大神殿を磨き上げて、お嬢様専用神殿にしたい。
だが、侍女なので耐えた。
「……承知いたしました」
マリベルは深々と頭を下げた。
「では、私が必ずお守りいたします」
「ええ。お願い」
「お嬢様に一歩でも害意が向いた場合」
「場合?」
「大神殿を正座させます」
「神殿は座れないわよ」
「では、神官を」
「それもだめです」
「善処いたします」
「絶対しない顔ね」
エレノアは呆れたように言った。
けれど、その口元が少しだけ緩んでいた。
マリベルは胸の奥が温かくなる。
お嬢様が笑った。
ならば、今日の戦はすでに半分勝利である。
廊下の向こうでは、老執事が静かに目を伏せていた。
「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」
そばにいた従僕が、青ざめた顔で尋ねる。
「今回は、お嬢様もご一緒ですが……少しは安全でしょうか」
老執事は遠い目をした。
「逆だ」
「逆?」
「お嬢様の前で格好をつけようとしたマリベルは、普段の三倍厄介になる」
従僕は無言で走った。
公爵家の使用人たちは、即座に動き出した。
***
大神殿は、王都の中心にそびえる白亜の建物である。
高い尖塔。
澄んだ鐘の音。
清らかな祈りの場。
そこには病や穢れを癒やす聖女が仕え、人々の信仰を集めていた。
その大神殿の正門前に、二人の女性が立った。
一人は、公爵令嬢エレノア。
一人は、侍女マリベル。
マリベルの右手には黒塗りの鉄扇があった。
門番の神官兵は、それを見て一歩下がる。
「公爵家侍女、マリベルと申します」
マリベルは完璧に一礼した。
「聖女リリアーナ様にお取次ぎ願います」
「せ、聖女様は現在、神殿奥で祈りを……」
「では、祈り終わるまでお待ちいたします」
神官兵はほっとした。
案外、話が通じる。
そう思った次の瞬間、マリベルは続けた。
「大神殿の中心で」
「中に入る気ですね!?」
「はい」
「通せません!」
「なぜでございますか?」
「エレノア様には、聖具を穢した疑いがございます。正式な調査が終わるまでは、神殿へお入りいただくわけには」
ぱちり。
マリベルの鉄扇が開いた。
黒い扇面に、金文字が輝く。
『お嬢様第一』
神官兵の顔色が変わった。
「マリベル」
エレノアが静かに呼ぶ。
マリベルはすっと鉄扇を下ろした。
「はい、お嬢様」
「事実確認に来たのです。まずはお話をしましょう」
「承知いたしました」
マリベルは神官兵へ向き直る。
とても穏やかな笑顔だった。
「では、お話をいたしましょう。お嬢様が聖具を穢したという証拠をお出しくださいませ」
「そ、それは……聖女様がそうおっしゃって……」
「証拠を」
「聖女様が」
「証拠を」
「聖女様が泣いておられて」
「涙は証拠ではございません」
神官兵は言葉に詰まった。
マリベルは鉄扇を閉じた。
「通していただけますね?」
「い、いえ、それは」
「通していただけますね?」
「……」
神官兵は意を決して槍を構えた。
「ここは通せません!」
「そうですか」
マリベルは静かに頷いた。
「では、少々失礼いたします」
「マリベル?」
エレノアが呼んだときには、すでに遅かった。
ぱん。
乾いた音がした。
神官兵の槍が宙を舞い、神殿の槍掛けへ綺麗に戻った。
「え」
神官兵が自分の両手を見る。
何もない。
次の瞬間、彼は膝裏を軽く払われ、その場に正座していた。
「なぜ正座!?」
正座させられた神官兵が、床の上で情けない声を上げる。
マリベルは鉄扇を閉じ、涼しい顔で答えた。
「神殿ですので、祈りの姿勢に近づけました」
「違うと思います!」
神官兵が即座に叫んだ。
その横で、エレノアが静かに額へ手を当てる。
「マリベル」
「はい、お嬢様」
「何をしているの?」
「お話の障害を丁寧に整えております」
「人を整えないで」
「善処いたします」
騒ぎを聞きつけた神官兵たちが次々に現れた。
「何事だ!」
「侵入者か!」
「公爵令嬢を中へ入れるな!」
槍と杖を構えた神官兵たちが、二人を取り囲む。
エレノアは一歩も退かなかった。
その横で、マリベルが鉄扇を開く。
「お嬢様の前で刃物を向けるとは」
声は静かだった。
神殿の空気が冷える。
「大変、信仰心に欠ける行いでございますね」
「ええい、取り押さえろ!」
神官兵たちが一斉に動いた。
マリベルの姿が揺れる。
鉄扇が舞う。
ぱん、ぱん、ぱん、ぱん。
槍が飛ぶ。
杖が転がる。
裾を踏んだ神官兵が転びかけたところを、マリベルが襟首を掴んで助け、そのまま正座させる。
背後に回った神官兵は、いつの間にかエプロンの紐で柱に括られていた。
神殿の白い床には、正座した神官兵が整然と並んでいく。
その光景を見て、エレノアは思わず呟いた。
「なぜ全員、正座に……」
「祈りの場ですので」
マリベルは涼しい顔で言った。
エレノアは額に手を当てる。
「帰ったらお説教です」
「はい」
「長いお説教です」
「はい」
「神殿なので、前より長いです」
「はい」
それでもマリベルは止まらなかった。
なぜなら、お嬢様が濡れ衣を着せられているからである。
これは戦である。
そしてマリベルは、ただの侍女である。
***
神殿の奥。
大広間には、白い祭壇があった。
その前に、聖女リリアーナが立っている。
月光を溶かしたような白銀の髪。
白い聖衣。
涙をたたえた青い瞳。
人々が思わず守りたくなるような、可憐な少女だった。
彼女の周囲には、神官や信徒たちが集まっている。
彼らの視線が、エレノアへ向いた。
冷たい視線。
疑う視線。
責める視線。
マリベルの鉄扇が、静かに鳴った。
だが、エレノアは一歩も退かず、視線だけでマリベルを制した。
逃げない。
俯かない。
ただまっすぐ、聖女を見る。
「リリアーナ様。私が聖具を穢したというお話について、確認に参りました」
聖女リリアーナは、びくりと肩を震わせた。
そして、その隣に立つマリベルを見て、明らかに顔色を変えた。
「そ、その侍女は……」
神官の一人が小声で囁く。
「聖女様、お気をつけください。あれが、騎士団と王城を正座させたという公爵家の侍女です」
「騎士団と王城を……?」
「ただの侍女だそうです」
「ただの侍女とは……?」
リリアーナは青ざめた。
だが、すぐに聖女としての矜持を取り戻したように、胸元で手を組む。
「公爵令嬢エレノア様。よくも聖なる儀式を穢し、わたくしの祈りを妨げましたね」
「私は、儀式に参加しておりません」
「ですが、あなた様が聖具に触れたあと、聖杯は曇り、浄化の光は消えました」
「私は聖杯に触れておりません」
「では、なぜ儀式は失敗したのです!」
「それを確認に参りました」
エレノアの声は静かだった。
だが、リリアーナは唇を噛む。
「認めないのですね……それならば、聖なる力に問うまでです」
リリアーナは両手を掲げた。
祭壇の上に、白い光が集まり始める。
「魔の者は、わたくしが封じます!」
その叫びに応えるように、光が一気に膨れ上がった。
白い奔流が祭壇から溢れ、まっすぐマリベルへ向かう。
「マリベル!」
エレノアが声を上げる。
だが、マリベルは逃げなかった。
鉄扇を閉じたまま、ただ静かに微笑む。
「ご安心ください、お嬢様。私はただの侍女でございます」
次の瞬間、聖なる光がマリベルを包み込んだ。
神官たちは息を呑む。
「聖女様の浄化が……!」
「邪悪なる者は、あの光の中で動けぬはず……!」
光が収まる。
そこには、マリベルが立っていた。
無傷だった。
髪の乱れひとつない。
むしろ、白いエプロンが先ほどより眩しいほど白くなっている。
黒塗りの鉄扇の金文字『お嬢様第一』は、神々しい光を帯びていた。
背後には、なぜか後光まで差している。
マリベルは自分のエプロンを見下ろした。
「まあ」
そして、穏やかに微笑む。
「漂白効果がございますのね」
神官たちが絶句した。
聖女リリアーナの口元が引きつる。
「そ、そんな……聖なる浄化が効かないなんて……!」
「効いております」
マリベルはエプロンを軽く摘まんだ。
「この通り、大変白く」
「そういう意味ではありません!」
リリアーナは震える手で祭壇を掴んだ。
「やはり、ただの侍女ではありませんね……! 魔の者に違いありません!」
「私はただの侍女でございます」
「ただの侍女は浄化の光を洗濯代わりにしません!」
「便利でございました」
「認めません!」
リリアーナは声を張り上げた。
「ならば、聖獣に問います!」
神殿の奥から、低い唸り声が響いた。
白銀の獣が姿を現す。
狼にも、獅子にも似た、美しい聖獣だった。
額には淡い光を帯びた角。
銀の毛並みは宝石のように輝き、瞳は澄んだ泉のように青い。
神官たちが一斉に頭を垂れる。
「聖獣アルシオン……」
「罪ある者には牙を剥き、清き者には頭を垂れる大神殿の守護聖獣……」
リリアーナは勝ち誇ったようにエレノアを指差した。
「聖獣よ! 罪ある者を見抜きなさい! あの方です! わたくしの儀式を穢した公爵令嬢を!」
聖獣は静かに歩き出した。
まっすぐに、エレノアへ向かって。
神官たちがざわめく。
だが、エレノアは逃げなかった。
ただほんの少しだけ、指先を握りしめる。
マリベルの鉄扇が、ぱちりと開いた。
「お嬢様に一歩でも牙を向けたら、毛並みを整えます」
「マリベル、それは脅しではなくて?」
「慈愛でございます」
「違うと思うわ」
聖獣はエレノアの前で足を止めた。
大広間が静まり返る。
聖獣の青い瞳が、エレノアを見上げた。
そして。
ゆっくりと、頭を垂れた。
「……え?」
リリアーナの声が震える。
聖獣はさらに、エレノアの手にそっと額を寄せた。
まるで、許しを乞うように。
エレノアは戸惑いながらも、白銀の毛並みに手を伸ばした。
「怖がらなくていいのよ」
その声は、神殿の張り詰めた空気をほどくほど柔らかかった。
聖獣は目を細める。
そして、エレノアの足元に伏せた。
完全に懐いていた。
神官たちは言葉を失った。
マリベルだけが、当然のように頷く。
「さすがお嬢様。聖獣も礼儀を心得ております」
「違うわ、マリベル」
「いいえ。非常に見る目のある聖獣でございます。毛並みも上等です」
聖獣は、マリベルをちらりと見た。
なぜか少し怯えた。
リリアーナの顔から血の気が引いていく。
「そ、そんなはずは……聖獣が、罪ある者に頭を垂れるはずが……」
マリベルはにっこり微笑んだ。
「では、罪がないのでは?」
「違います!」
リリアーナは叫んだ。
その声には、焦りが滲んでいた。
「聖獣は惑わされているのです! そうです、きっと公爵令嬢が何かを……!」
「リリアーナ様」
エレノアは静かに言った。
「私は、聖獣を惑わせるような力は持っておりません」
「いいえ、いいえ! ならば、聖鎖に問います!」
神官たちの顔色が変わった。
「聖女様、聖鎖は裁きのための御力です。疑いだけで用いるものでは……」
神官の制止に、リリアーナは一瞬だけ唇を噛んだが、すぐに声を張り上げた。
「罪ある者を縛る、大神殿の裁きの鎖です! これならば、真実は明らかになります!」
リリアーナは両手を掲げた。
「聖鎖よ! 罪ある者を縛りなさい!」
神殿の天井から、金色の光が降り注いだ。
それは無数の鎖となり、エレノアへ向かって伸びる。
マリベルの鉄扇が、音を立てて開いた。
「お嬢様に触れる前に、粉にいたします」
「マリベル、待って」
「ですが、お嬢様」
「見届けます」
エレノアは逃げなかった。
金色の鎖が、彼女の目前まで迫る。
聖獣が低く唸った。
神官たちは息を呑む。
リリアーナは、祈るように両手を握った。
そして。
聖鎖は、エレノアの前でぴたりと止まった。
「……?」
鎖は、迷うように震えた。
まるで、目の前の相手を縛るべきではないと判断しているかのように。
次の瞬間。
鎖はぐるりと向きを変えた。
「え――」
リリアーナが声を漏らす。
金色の鎖は、聖女自身の腕に、足に、身体に巻きついた。
「きゃっ!」
リリアーナはその場に崩れ落ちる。
聖鎖は彼女を傷つけてはいない。
だが、逃げることも、立ち上がることも許さないように、しっかりと縛っていた。
「な、なぜ……」
リリアーナの唇が震える。
「聖鎖は、罪ある者を縛るはず……!」
マリベルは鉄扇を閉じた。
「ええ」
そして、静かに微笑む。
「ですから、正しく働いているのでは?」
大広間に沈黙が落ちた。
神官たちは一斉に目を逸らす。
その顔は青ざめていた。
リリアーナは聖鎖に縛られたまま、震えている。
マリベルは一歩前に出た。
「それでは、事実確認を始めましょうか」
「ま、待って……」
「お嬢様に罪があるとおっしゃるなら、どうぞ証拠を。聖なる光ではなく、事実をお持ちくださいませ」
「わ、わたくしは……」
「聖具を穢したとおっしゃいました。お嬢様がいつ、どこで、どのように触れたのか。証人は? 記録は? 神殿の管理者は?」
リリアーナは答えない。
いや、答えられなかった。
マリベルの声は丁寧だった。
しかし、その一語一語が、逃げ道を塞いでいく。
「お嬢様はその時間、公爵家におられました。温室で読書をされ、私がお茶をお淹れしております。公爵家の使用人全員が証言できます」
「……」
「では、聖具はなぜ曇ったのでしょう」
「……それは」
「聖女様」
マリベルは、笑顔のまま問いかける。
「本当は、何があったのでございますか?」
リリアーナの目に涙が浮かんだ。
神官の一人が、たまらず声を上げる。
「聖女様は悪くない! ただ、儀式の前に少し体調が悪く、聖力が安定していなかっただけで……!」
「お黙りなさい!」
リリアーナが叫んだ。
その声は悲鳴に近かった。
「お願い……言わないで……!」
神官は口を閉じる。
だが、それで十分だった。
マリベルの目が細くなる。
「なるほど。儀式に失敗した理由は、お嬢様ではなく、聖女様ご自身の聖力の乱れだったのですね」
「違う……違うの……」
「では?」
「怖かったの!」
リリアーナは、聖鎖に縛られたまま泣き出した。
「聖女なのに、儀式に失敗したなんて知られたら、皆が失望すると思ったの……神官たちも、信徒たちも、わたくしに奇跡を期待していて……」
その声は、弱々しく震えていた。
「エレノア様は、いつも落ち着いていて、凛としていて……誰からも一目置かれていて……わたくしがどれだけ祈っても届かないものを、最初から持っているように見えたの……」
エレノアは静かにリリアーナを見ていた。
マリベルの鉄扇が、再び開く。
「そのために」
声が冷える。
「お嬢様に罪を着せたと?」
神官兵たちは自主的に正座した。
誰も命じていない。
だが、今は正座していた方が安全だと本能で理解したのだ。
「マリベル」
エレノアが静かに制した。
マリベルは唇を結ぶ。
「お嬢様」
「そこまでです」
「ですが」
「私が話します」
エレノアは一歩前に出た。
聖獣がそっと道を開ける。
エレノアは聖鎖に縛られたリリアーナの前に膝をついた。
マリベルは目を見開く。
「お嬢様、床が」
「大丈夫よ」
エレノアはリリアーナと目線を合わせた。
責めるためではなく、見下ろさないために。
リリアーナは泣き濡れた目で、エレノアを見つめる。
「あなたが怖かったのなら、そう言ってよかったのよ」
エレノアの声は穏やかだった。
「でも、していない罪を着せられるのは、私も苦しいわ」
「……エレノア様」
「聖女でいることが苦しかったのね。期待に応えられないことが、怖かったのよね」
リリアーナの唇が震える。
「でも、その怖さを誰かに押しつけてはいけません。あなたの祈りを信じている人たちのためにも。あなた自身のためにも」
「わたくし……」
「間違えたのなら、謝ればいいし、償えばいいのよ。完璧でなくても、祈り続けることはできるから」
リリアーナは声を上げて泣いた。
その瞬間。
聖鎖が淡く光った。
きつく巻きついていた金色の鎖が、少しずつ緩んでいく。
まるで、エレノアの言葉に応えるように。
聖獣が静かに頭を垂れた。
神官たちは息を呑む。
リリアーナは呆然とエレノアを見上げた。
自分を責めるのではなく、諭す人。
断罪するのではなく、立ち上がる道を示す人。
罪を見逃すのではなく、逃げ道ではない許しを差し出す人。
「……あなた様は」
リリアーナの声が震えた。
「女神様……?」
「違います」
エレノアは即答した。
しかし、マリベルは深く頷いた。
「ようやくお気づきに?」
「マリベル」
「失礼いたしました」
リリアーナは、聖鎖が解けたあとも、その場に座り込んだままだった。
そして、深く頭を下げる。
「エレノア様……申し訳、ございませんでした。わたくしは、自分の弱さを認められず、あなた様に罪を着せました」
エレノアは静かに頷いた。
「謝罪は受け取ります。ですが、この件は私だけの問題ではありません。大神殿として、事実を明らかにしてください」
「はい……」
「そして、あなたを追い詰めたものについても、きちんと見直すべきです。聖女だからといって、失敗を許されない場所なら、また同じことが起きますから」
神官長が、深く頭を下げた。
「公爵令嬢エレノア様。此度の件、大神殿として正式に謝罪いたします。調査のうえ、必ず公爵家へご報告を」
マリベルが一歩前に出る。
「報告書は三部ご用意くださいませ。公爵家用、お嬢様用、私用です」
「マリベル、あなた用は要らないわ」
「必要でございます。再発防止のために」
「それは神殿がすることよ」
「監査いたします」
「しなくていいの」
そのやり取りを、リリアーナは呆然と見つめていた。
そして、胸の前で両手を組む。
「エレノア様」
「はい?」
「どうか、わたくしにも、あなた様にお仕えする機会を……!」
ぱちん。
マリベルの鉄扇が開いた。
神官兵たちが一斉に背筋を伸ばす。
「お嬢様のお世話係は定員一名でございます」
「マリベル」
「いえ、これは大変重要な問題でございます」
マリベルはリリアーナを見た。
「お嬢様を崇めるお気持ちは理解いたします。非常によく理解いたします。むしろ遅いくらいです」
「マリベル」
「ですが、距離が近い」
リリアーナは慌てて首を振った。
「まだ何もしておりませんわ!」
「志願した時点で近いのでございます」
リリアーナは真剣な顔で言った。
「では、見習いからでも」
「見習い期間三百年からであれば検討いたします」
「人間の寿命を超えてますよ!」
「覚悟を見ております」
「マリベル」
「譲歩でございます」
エレノアは深くため息をついた。
聖獣は、なぜかエレノアの足元で満足げに伏せている。
神官たちは、なぜか正座したまま動かない。
聖女はエレノアを潤んだ瞳で見つめている。
マリベルは鉄扇を構えている。
エレノアは思った。
なぜ、こうなるのかしら。
だが、少なくとも濡れ衣は晴れた。
リリアーナも、自分の罪と向き合おうとしている。
ならば、今日はこれでいいのだろう。
「帰りましょう、マリベル」
「はい、お嬢様」
「帰ったらお説教です」
「はい」
「神殿で暴れてはいけません」
「はい」
「神官兵を正座させてもいけません」
「はい」
「聖女様に鉄扇を向けてもいけません」
「はい」
「反省している?」
「お嬢様に濡れ衣を着せた者を許さない件については、反省いたしかねます」
「マリベル」
「ですが、聖鎖が聖女様を縛った件については、私の手柄ではございません」
「そこは手柄ではないわ」
「事実でございます」
エレノアは呆れたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、マリベルの胸に熱いものが込み上げる。
お嬢様が笑った。
ならば、今日の戦も勝利である。
***
翌日。
大神殿には、新しい戒律が掲げられた。
一つ。
涙は証拠ではない。
一つ。
聖なる力を私情で用いてはならない。
一つ。
聖女も失敗を認め、正しく償うこと。
一つ。
公爵令嬢エレノア様に関する訴えは、必ず事実確認を行うこと。
そして、誰が書き足したのか分からない小さな一文が、最後に添えられていた。
『なお、公爵家侍女マリベルを怒らせてはならない』
神官長はその一文を消そうとした。
だが、正座していた神官兵たちが一斉に首を横に振った。
消してはならない。
これは戒律ではなく、安全対策である。
***
公爵家では、エレノア宛てに一通の手紙が届いていた。
差出人は、聖女リリアーナ。
美しい文字で、こう綴られている。
『エレノア様。あなた様の慈悲深き御心に少しでも近づけるよう、日々祈りを捧げております。いつか、あなた様の足元に侍ることをお許しいただけましたら――』
そこまで読んだところで、マリベルの鉄扇が開いた。
「お嬢様への信仰心は評価いたしますが、距離感に問題がございます」
エレノアは手紙から顔を上げた。
「あなたがそれを言うの?」
「私は侍女でございますので」
「答えになっていないわ」
マリベルは完璧な笑顔で返した。
侍女なので。
そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。
「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」
屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。
老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。
「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」
公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。
お嬢様が呼ばれた。
ならば、戦である。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
お嬢様第一侍女マリベルのお話は、他にもあります。
気に入っていただけましたら、第一作目の「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」もぜひ読んでみてくださいね。
また、第四作目となる番外編、
「お嬢様が勇者パーティーを追放されたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」
を、7月1日の18時ごろに投稿予定です。
今度は勇者パーティー相手に、マリベルがいつも通り大暴れします。
よろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。
面白かった、続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマーク・評価・いいね・感想などで応援していただけると励みになります。
星をいただけると、作者が飛んで喜びます!
また、皆様の応援のおかげで、なんと小説書籍化企画とアンソロジーコミック企画が進行中となりました!
いつも評価・ブックマーク・感想などで応援してくださっている読者の皆様、本当にありがとうございます。
詳しい情報は、公開できる時期になりましたら改めてお知らせいたします。
これからも、お嬢様とマリベルを楽しんでいただけるよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします!




