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お嬢様第一侍女マリベル短編集

【連載版あり】お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!

掲載日:2026/06/29

※本作は、連載版『お嬢様ああああああああああああああああ!!!!』と同じ登場人物・題材を用い、短編として構成と展開を再執筆した作品です。

「お嬢様が、聖女様に濡れ衣を着せられたですって……?」


 公爵家の花室で、侍女マリベルの手が止まった。

 目の前には、朝のうちに庭から摘まれた花々が並んでいる。


 白薔薇。

 青いデルフィニウム。

 淡い紫の小花。


 どれをエレノアの部屋に飾るべきか、マリベルは一本ずつ確かめていたところだった。

 報告に来た若い従僕は、花を選んでいたマリベルの横顔を見て、そっと息を呑んだ。


 笑っている。

 とても、きれいに。


 まずい。

 この顔はまずい。


「い、いえ、まだ噂でして……大神殿で聖女リリアーナ様の浄化儀式が失敗し、その原因がエレノアお嬢様にあるのではないかと……」

「なぜ、お嬢様が?」

「聖女様がそうおっしゃったとか。エレノアお嬢様が儀式の前に聖具へ触れ、聖なる力を穢したと」


 ちょきん。

 小さな音がした。

 マリベルの手にしていた花鋏が、白薔薇の茎を切り落としている。

 切られた花が、作業台の上へころりと落ちた。

 若い従僕は青ざめた。

 白薔薇は悪くない。

 悪いのは聖女の発言である。


「お嬢様が」


 マリベルは静かに言った。


「聖具へ触れ」

「はい」

「聖なる力を穢したと?」

「あくまで、噂でございます」

「なるほど」


 マリベルは切り落としてしまった白薔薇を拾い上げた。

 茎が短くなっただけで、花そのものは傷んでいない。

 小さな花器へ移せば、まだ十分に美しく飾ることができる。

 怒りに任せて、花を捨てたりはしない。

 これは、お嬢様のために摘まれた花なのだから。


「お嬢様は、どちらに?」

「温室へ向かわれるところかと」

「そうですか」


 マリベルは白薔薇を小さな花器へ挿し、花鋏を作業台へ置いた。


「では、お嬢様がこのような不愉快な噂をお聞きになる前に、大神殿へ事実確認に参ります」

「大神殿へ、ですか?」

「はい」

「お一人で?」

「私は侍女ですので」

「理由になっておりませんが……」


 マリベルはエプロンについた花びらを払い、廊下へ出た。

 背筋は伸び、髪は一筋も乱れていない。

 どこからどう見ても、礼儀正しい公爵家の侍女である。

 ただし、その右手には、いつの間にか黒塗りの鉄扇が握られていた。

 従僕は見なかったことにした。

 見たと認めれば、止めなければならない気がしたからである。

 マリベルは歩調を速めた。

 その背中から、静かな怒りが立ちのぼっている。


「お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられたですって!?」


 廊下を歩いていた侍女たちが、一斉に壁際へ寄った。

 次の瞬間。


「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」


 公爵家の廊下に、マリベルの絶叫が響き渡る。

 マリベルは鉄扇を握り、玄関ホールへ向かって走り出した。

 侍女たるもの、屋敷の廊下を走ってはならない。

 ただし、お嬢様の名誉が傷つけられた場合は除く。

 少なくとも、マリベルの中ではそう決まっていた。

 玄関ホールへ続く階段へ足をかけたところで、背後から声がした。


「マリベル」


 マリベルの動きが止まる。

 片足を一段下へ置き、もう片方を上段へ残したまま、ゆっくり振り返る。


「はい、お嬢様」


 淡い青のドレスをまとった公爵令嬢エレノアが、廊下の中央に立っていた。

 温室へ向かう途中だったのだろう。

 表情は穏やかだった。

 非常に穏やかだった。

 マリベルにとっては、怒鳴られるより逃げ場がない顔だった。


「今、何と言ったの?」

「お嬢様が聖女様に濡れ衣を着せられた、と申し上げました」

「そのあと」


 マリベルは一度、目を伏せた。


「大神殿へ速やかに抗議へ参ります、と」

「違います」

「では、事実を捏造した者の尊厳を、神殿の床へ丁重に埋葬してまいります、と」

「さらに悪くなっています」


 エレノアはため息をついた。

 その顔に、ごくわずかな陰りが浮かんでいる。

 噂の内容は、もう聞こえてしまったのだ。

 マリベルは唇を結んだ。

 お嬢様は何も悪くない。

 儀式に参加していない。

 聖杯にも触れていない。

 それでもこの方は、きっと最初に自分を疑う。

 知らないうちに何か失礼をしたのではないか。

 聖女を不快にさせる態度を取ったのではないか。

 自分がもっと柔らかく接していれば、こんなことにはならなかったのではないか。

 そうやって、誰かを責める前に、自分の中へ刃を向けてしまう。

 その優しさが、マリベルは好きだった。

 同時に、許せないほど心配だった。


「マリベル」

「はい」

「私も大神殿へ行きます」

「なりません」


 考えるより先に、言葉が出た。


「濡れ衣を着せた者のいる場所へ、お嬢様をお連れすることはできません」

「私に関する話です」

「はい」

「ならば、私が行かなければなりません」

「私がすべて確認してまいります」

「それではいけないの」


 エレノアはマリベルをまっすぐ見た。


「あなたが私のために怒ってくれることは、嬉しいわ」


 マリベルの鉄扇を握る指が、わずかに緩む。


「でも、私の代わりに怒るだけではなくて、私が何を考え、どう答えるのかも見ていてほしいの」

「お嬢様……」

「私も、いつまでも守られているだけではいたくありません」


 静かな声だった。

 けれど、その声には、マリベルにも曲げられない芯があった。

 マリベルの胸に熱いものが込み上げる。

 お嬢様。

 なんとお強くなられたことか。

 なんと気高く、尊く、麗しいことか。

 大神殿を改装し、お嬢様を祀るための祭壇を今すぐ造りたい。

 だが耐えた。

 侍女なので。


「……承知いたしました」


 マリベルは深く頭を下げた。


「それでは、私がおそばで必ずお守りいたします」

「ええ。頼りにしています」

「万が一、お嬢様へ害意を向ける者がおりましたら」

「おりましたら?」

「大神殿ごと正座させます」

「建物は正座できません」

「では、中にいる者だけでも」

「それもだめです」

「善処いたします」

「その顔は、まったく善処する気がない顔ね」


 エレノアは呆れたように言った。

 けれど、ほんの少しだけ笑っていた。

 マリベルの胸が温かくなる。

 お嬢様が笑った。

 ならば、今日の戦はすでに半分勝利である。


 少し離れた廊下では、老執事が一連のやり取りを見守っていた。

 老執事は静かに目を閉じる。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」


 隣に控えていた従僕が、声を潜めた。


「今回はエレノアお嬢様もご一緒です。マリベルさんも、多少は抑えるのでは?」


 老執事は遠い目をした。


「逆だ」

「逆でございますか?」

「お嬢様の前で無様なところは見せられないと考えたマリベルは、いつも以上に完璧な手際で相手を正座させる」

「……馬車を急がせます」

「そうしなさい」


 公爵家の者たちは、即座に動き始めた。



 ***



 王都の中心に建つ大神殿は、白い石で造られていた。

 空へ向かって伸びる尖塔。

 陽光を受けて輝く窓。

 祈りの時を告げる、澄んだ鐘。

 王国でもっとも神聖な場所とされ、病人や傷ついた者たちが日々救いを求めて訪れる場所である。

 その正門前で、公爵家の馬車が止まった。

 先に降りたのはマリベルだった。


 黒い侍女服。

 白いエプロン。

 きっちり結われた髪。

 背筋を伸ばし、足音ひとつ乱さず歩く侍女。

 マリベルである。

 右手には、黒塗りの鉄扇が握られていた。


 続いて馬車を降りたエレノアを、マリベルが丁寧に支える。

 正門を守っていた神官兵たちは、二人の姿を見て明らかに身構えた。

 特に、鉄扇を見た瞬間。


「公爵家侍女、マリベルと申します」


 マリベルは完璧な礼をした。


「聖女リリアーナ様へお取次ぎくださいませ」

「聖女様は、現在祈りの最中である」

「では、終わるまでお待ちいたします」


 神官兵は、わずかに安堵した。

 話が通じる相手らしい。


「大広間で」

「中へ入るつもりか!?」

「はい」

「認められない!」


 神官兵は槍を横にし、入口を塞いだ。


「エレノア様には、浄化儀式を妨害した疑いがかけられている。調査が済むまで、大神殿への立ち入りは禁止されている」

「調査とは、誰がどのように行っているのでございますか?」

「それは……神殿が」

「お嬢様が聖杯へ触れたという記録は?」

「聖女様が証言しておられる」

「目撃者は?」

「聖女様が」

「聖杯を管理していた方の証言は?」

「それは……」

「お嬢様がその時間、どこにおられたか確認されましたか?」

「聖女様がおっしゃっているのだ!」


 ぱちり。


 マリベルの鉄扇が開いた。

 黒い扇面に、金色の文字が浮かぶ。


『お嬢様第一』


「涙と肩書きだけで罪が決まるのであれば、調査など必要ございませんね」


 神官兵の額に汗が浮かぶ。


「マリベル」


 エレノアに呼ばれ、マリベルは鉄扇を下ろした。


「はい、お嬢様」

「話し合いに来たのです」

「承知しております」

「今、鉄扇を開きましたね」

「風通しが悪うございましたので」

「屋外です」

「失礼いたしました」


 マリベルは鉄扇を閉じ、改めて神官兵へ微笑んだ。


「それでは、お話を続けましょう。私どもは疑いを晴らすために参りました。聖女様へお会いできなければ、事実確認もできません」

「しかし、命令が」

「では、その命令を出した方へお取次ぎを」

「できない」

「聖女様へも?」

「できない」

「神官長様へも?」

「できない」

「誰にも会わせないまま、お嬢様だけを罪人として扱うと?」


 神官兵は槍を握り直した。


「とにかく、ここは通せない!」

「そうでございますか」


 マリベルは穏やかに頷いた。


「では、道を整えさせていただきます」

「マリベル?」


 エレノアが呼んだ直後。


 ぱん。


 乾いた音が正門前に響いた。

 神官兵の槍が、彼の手から消えた。

 宙を回った槍は、離れた場所にある武器立てへ、音もなく収まる。

 神官兵は空になった両手を見つめた。


「え?」


 次の瞬間、膝の裏を軽く鉄扇で押される。

 神官兵は、その場へすとんと座り込んだ。

 正座だった。


「なぜ正座!?」

「神殿にふさわしい姿勢を選びました」

「祈るときでも正座はしない!」

「今から広めてはいかがでしょう」

「広めません!」


 エレノアは額を押さえた。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「話し合いは?」

「槍が邪魔をしておりましたので、片づけました」

「人まで片づけてはいけません」

「傷つけてはおりません」

「正座させています」

「姿勢を整えただけでございます」


 騒ぎを聞いた神官兵たちが、神殿内から次々と駆けつけてきた。


「侵入者だ!」

「公爵令嬢を入れるな!」

「侍女を取り押さえろ!」


 槍。

 杖。

 短剣。


 武器を構えた神官兵たちが、二人を取り囲む。

 エレノアは逃げなかった。

 その横で、マリベルがゆっくりと鉄扇を開く。


「お嬢様へ武器を向けるとは」


 静かな声だった。

 正門前の空気が一気に冷える。


「祈りを守る方々にしては、随分と荒々しいお迎えでございますね」

「捕らえろ!」


 神官兵たちが一斉に踏み込んだ。

 鉄扇が舞う。


 ぱん。


 槍が飛ぶ。


 ぱん。


 杖が転がる。


 剣を振り上げた神官兵は、手首を軽く叩かれ、武器だけを落とした。

 マリベルへ掴みかかった者は、勢いを利用され、そのまま床へ座らされる。

 転びそうになった者は襟を掴んで助けられ、その直後に正座へ移行させられた。

 背後へ回った者は、いつの間にか白い紐で柱に括られている。


「なぜ侍女のエプロンの紐が、これほど長い!?」

「予備でございます」

「何の予備だ!」

「さまざまな事態の」

「想定していたのか!?」


 マリベルが進むたび、神殿の白い床に正座する神官兵が増えていく。

 やがて、左右に美しい列ができた。

 エレノアは、その光景を見つめた。


「どうして、全員正座するの?」

「祈りの場でございますので」

「説明になっていません」

「では、反省にもっとも適した姿勢だからでございます」

「帰ったらお説教です」

「はい」

「長いお説教です」

「はい」

「今回は大神殿なので、かなり長いです」

「はい」


 マリベルは素直に返事をしながら、最後の神官兵を正座させた。

 止まる気はなかった。

 お嬢様が濡れ衣を着せられている。

 それならば、これは戦である。

 そしてマリベルは、ただの侍女である。



 ***



 大神殿の最奥には、祈りを捧げるための大広間があった。

 高い天井。

 色硝子から降り注ぐ光。

 中央には、白い石で造られた祭壇。

 その祭壇の前に、一人の少女が立っている。


 白い聖衣。

 月明かりのような白銀の髪。

 青く澄んだ瞳。

 守ってあげたいと思わせる可憐な容姿。

 聖女リリアーナである。


 周囲には、多くの神官と信徒が集まっていた。

 エレノアが広間へ入ると、無数の視線が向けられる。


 疑い。

 非難。

 嫌悪。

 恐れ。


 それらを受けながら、エレノアは背筋を伸ばした。

 マリベルの鉄扇がごく小さく鳴る。

 だが、エレノアは視線だけで制した。

 ここで逃げれば疑いを認めたことにされる。

 俯けば罪悪感があると言われる。

 だから、まっすぐ立つ。

 誰かのためではない。

 自分が自分を信じるために。


「リリアーナ様」


 エレノアは祭壇の前で足を止めた。


「私が聖杯を穢したと伺いました。事実を確認するために参りました」


 リリアーナの肩が跳ねた。

 その視線が、エレノアの隣にいるマリベルへ移る。


「その方は……」


 近くの神官が、リリアーナの耳元へ囁く。


「あれが、公爵家の侍女マリベルです」

「ま、まさか……騎士団と王城を正座させたという?」

「はい」

「ですが、侍女なのでしょう?」

「本人は、そう申しております」


 リリアーナはマリベルを見た。


 黒い侍女服。

 白いエプロン。

 穏やかな笑顔。

 黒塗りの鉄扇。


 たしかに侍女に見える。

 侍女にしか見えない。

 それなのに、神殿の入口からここまでの道には正座した神官兵が並んでいるという。


「公爵令嬢エレノア様」


 リリアーナは胸の前で手を組んだ。


「あなた様が聖杯を穢したために、浄化の儀式は失敗しました」

「私は聖杯に触れておりません」

「聖杯は、あなた様が大神殿を訪れたあとから曇り始めました」

「最後に大神殿を訪れたのは、儀式の十日前です」

「それでも、あなた様の力が残っていたのです」

「私に聖杯を穢すような力はありません」

「それを隠しているのではありませんか?」

「隠してもおりません」


 エレノアの答えは、静かだった。

 リリアーナの表情が歪む。


「では、なぜ浄化の光が消えたのです!」

「それを、私も知りたいのです」

「認めないのですね」


 リリアーナは両手を掲げた。

 祭壇の奥に置かれていた聖石が光を放つ。


「ならば、聖なる光に真実を問いましょう」


 白い光が大広間へ満ちていく。

 神官たちが祈りの言葉を唱え始めた。


「邪なる者は、浄化の中で身動きを封じられます」


 リリアーナの視線が、マリベルへ向く。


「まずは、その侍女からです!」


 白い光が奔流となって放たれた。


「マリベル!」


 エレノアが手を伸ばす。

 だが、マリベルは一歩も動かなかった。

 鉄扇を胸元へ添え、穏やかに微笑む。


「ご心配には及びません、お嬢様」


 光が迫る。


「私はただの侍女でございます」


 次の瞬間、マリベルの姿が白い光に呑み込まれた。

 神官たちが息を呑む。


「聖女様の浄化をまともに……」

「魔に属する者ならば、立っていられぬはず」


 やがて光が薄れていく。

 中央に、マリベルは立っていた。

 無傷である。

 髪も乱れていない。

 服にも焦げ跡ひとつない。

 むしろ、白いエプロンが先ほど以上に白く輝いていた。

 黒い鉄扇に記された『お嬢様第一』の金文字も、神々しい光を放っている。

 その背後には、なぜか後光まで差していた。

 マリベルは自分のエプロンを見下ろした。


「まあ」


 指先で布を確かめる。


「しつこかった染みまで落ちております」


 神官たちが固まった。

 リリアーナの頬が引きつる。


「な、なぜ……なぜ浄化の光が効かないのです!」

「効いております」


 マリベルはエプロンの裾を軽く摘まんだ。


「ご覧ください。大変白くなりました」

「洗濯の話ではありません!」

「漂白にも利用できるとは、便利な御力でございますね」

「便利で終わらせないでください!」


 リリアーナは祭壇へ手をついた。


「やはり、その方は人ではありません! 魔に属する何かです!」

「私は侍女でございます」

「侍女は聖なる光を洗濯に使いません!」

「初めて使いました」

「回数の問題ではありません!」


 リリアーナは肩で息をしながら、神殿の奥へ顔を向けた。


「ならば、聖獣に裁いてもらいます!」


 広間の奥から、低い唸り声が聞こえた。

 神官たちが一斉に道を開ける。

 白銀の獣が、ゆっくりと姿を現した。

 狼に似た顔。

 獅子のような大きな身体。

 額には淡く光る角。

 銀色の毛並みは、降り積もった雪のように輝いている。


「聖獣アルシオン……」

「清き者には従い、罪ある者には牙を剥く、神殿の守護者だ」


 リリアーナはエレノアを指差した。


「アルシオン! あの公爵令嬢が、聖杯を穢した罪人です! 真実を示しなさい!」


 聖獣は、青い瞳でエレノアを見た。

 ゆっくりと歩き出す。


 一歩。

 また一歩。


 神官たちの間に緊張が走る。

 エレノアは逃げなかった。

 ただ、ドレスの脇で指先を固く握っている。

 それに気づいたマリベルが、鉄扇を開いた。


「お嬢様へ牙を向けた場合」

「マリベル」

「毛並みを徹底的に整えます」

「それは脅しではありませんか?」

「身だしなみ指導でございます」

「櫛を構える顔ではありません」


 聖獣はエレノアの前まで来た。

 大広間が静まり返る。

 アルシオンは鼻先を近づけ、エレノアの匂いを確かめた。

 エレノアは動かない。

 数秒の沈黙のあと。

 聖獣は、ゆっくりと頭を下げた。


「……え?」


 リリアーナの口から声が漏れる。

 アルシオンはさらに一歩近づくと、エレノアの掌へ額を擦り寄せた。

 大きな身体に似合わない、甘えるような仕草だった。

 エレノアは驚きながらも、そっと聖獣の額へ触れる。


「大丈夫よ。怖くありませんから」


 優しい声に、聖獣は目を細めた。

 そのままエレノアの足元へ伏せる。

 完全に懐いていた。

 神官たちは言葉を失った。

 マリベルだけが満足そうに頷く。


「さすがお嬢様でございます」

「何が、さすがなの?」

「聖獣にも、お嬢様の素晴らしさが理解できたのでしょう」

「そういうことではないと思います」

「見る目のある獣でございます。毛並みも悪くありません」


 聖獣はマリベルを見た。

 その身体が、ごくわずかにエレノアの後ろへ隠れる。


「なぜ私を恐れるのでしょう」

「櫛を握っているからでは?」


 リリアーナは首を振った。


「認めません……」


 声が震えている。


「そんなはずはありません。罪ある者へ、聖獣が従うはずは……」


 マリベルは静かに微笑んだ。


「でしたら、お嬢様に罪がないということでは?」

「違います!」


 リリアーナの声が大広間へ響いた。


「きっと、聖獣まで惑わされているのです! 何か見えない力を使って!」

「私はそのような力を持っておりません」

「では、聖鎖です!」


 周囲の神官たちの顔色が変わった。


「聖女様、お待ちください」

「聖鎖は罪人を裁くための御力です。明確な証拠もなく使うものではありません」

「聖獣まで惑わされたのです!」

「しかし」

「聖鎖なら、罪そのものを見抜けます!」


 リリアーナは制止を振り切り、祭壇へ向き直った。


「罪ある者を縛る、大神殿の裁きの鎖です! これならば、真実は明らかになります!」


 両手を掲げる。


「聖鎖よ! 罪ある者を縛りなさい!」


 天井近くに金色の光が生まれた。

 光は無数の鎖へ変わり、音を立ててエレノアへ伸びてくる。

 マリベルの鉄扇が開いた。


「お嬢様へ触れる前に、すべて粉にいたします」

「待って、マリベル」

「しかし」

「私は逃げません」


 エレノアは前を向いた。


「本当に罪のある者を縛る鎖なら、私は何も恐れる必要がないはずです」

「お嬢様……」

「見守っていて」


 マリベルは鉄扇を構えたまま、動きを止めた。

 金色の鎖がエレノアへ迫る。

 聖獣が立ち上がり、低く唸った。

 神官たちは息を詰める。

 リリアーナは祈るように指を組んだ。

 鎖が、エレノアへ届く。


 その直前。

 ぴたりと止まった。


「……なぜ?」


 鎖が宙で震える。

 何かを迷っているように揺れたあと、ゆっくりと向きを変える。


「え?」


 リリアーナが顔を上げた。

 金色の鎖はエレノアから離れ、祭壇の前へ立つ聖女へ向かった。


「待って――」


 鎖がリリアーナの腕へ巻きつく。

 続いて、足へ。

 腰へ。

 身体を締めつけるように絡み、リリアーナをその場へ座り込ませた。


「きゃっ!」


 鎖は傷つけてはいない。

 だが、立ち上がることも、逃げ出すことも許さないように、しっかりと彼女を捕らえている。


「どうして……」


 リリアーナは鎖を見つめた。


「聖鎖は、罪ある者だけを縛るはずなのに……」


 マリベルは鉄扇を閉じた。


「ええ」


 静かに微笑む。


「ですから、正しく役目を果たしているのではございませんか?」


 神官たちが一斉に目を逸らした。

 大広間に、重い沈黙が広がる。

 マリベルはリリアーナの前まで進んだ。


「それでは、改めて事実確認を始めましょう」

「待ってください……」

「お嬢様が聖杯を穢したという証拠を、今度こそお示しくださいませ」

「わたくしは……」

「いつ、お嬢様が聖杯へ触れましたか?」

「……」

「誰がそれを見ましたか?」

「……」

「聖杯を管理していた方は?」

「……」

「当日の記録は?」

「……」


 リリアーナは何も答えられない。

 マリベルの声は、終始丁寧だった。

 だが、一つ質問が重なるたびに、リリアーナの逃げ道が消えていく。


「儀式の行われた時間、お嬢様は公爵家の温室におられました。お茶をお淹れしたのは私です。屋敷の使用人たちにも確認できます」

「……」

「お嬢様が聖杯へ触れることは不可能です」

「……」

「それでは、儀式が失敗した本当の理由は何でございますか?」

「分かりません」

「聖女様」


 マリベルは微笑んだ。


「私は、嘘を聞いているのではございません」


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。

 そのとき、そばにいた若い神官が耐えきれずに声を上げた。


「聖女様は悪くありません!」


 リリアーナが勢いよく顔を上げる。


「やめて!」

「儀式の前から体調を崩しておられたのです。聖力も安定せず、このままでは浄化の光を維持できないと――」

「言わないで!」


 リリアーナの叫びが、広間へ響いた。

 若い神官は口を閉じる。

 だが、もう遅かった。

 マリベルの目が細くなる。


「儀式の失敗は、お嬢様ではなく、聖女様の聖力が不安定だったことが原因だったのですね」

「違う……」

「何が違うのでございますか?」

「違うの……」

「でしたら、本当のことを」

「怖かったのです!」


 リリアーナの目から涙が溢れた。


「聖女なのに、浄化の儀式を失敗したなんて知られたくなかったの!」


 鎖に縛られた身体を震わせながら、リリアーナは泣いた。


「みんな、わたくしなら奇跡を起こせると思っている。病を癒やし、穢れを払い、いつでも正しく祈れると信じているのです」


 声が掠れる。


「失敗したと知られたら、聖女ではいられなくなると思いました。神官たちにも、信徒たちにも、見捨てられると思ったのです……」


 エレノアは黙って聞いていた。


「それに、エレノア様はいつも堂々としていて……誰からも認められていて……わたくしが必死に祈っても手に入らないものを、初めからすべて持っているように見えた」


 マリベルの鉄扇が再び開く。


「だから」


 その声は、冷たかった。


「お嬢様へ罪を着せたのでございますか?」


 周囲にいた神官兵たちが、一人、また一人と正座を始めた。

 誰からも命じられていない。

 だが、この状況では座っていた方が安全だと、本能が告げていた。


「マリベル」


 エレノアの声が響く。

 マリベルは動きを止める。


「はい、お嬢様」

「そこまでです」

「ですが、この方はお嬢様へ」

「私が話します」


 マリベルは唇を結び、鉄扇を下す。

 エレノアはリリアーナへ近づいた。

 聖獣アルシオンが伏せた身体を起こし、道を譲る。

 エレノアは、聖鎖に縛られたリリアーナの前へ膝をつく。


「お嬢様、お膝が……」

「今はいいの」


 エレノアは、リリアーナと同じ高さまで目線を下げた。

 裁くために、見下ろさない。

 言い聞かせるために、遠くへ立たない。

 リリアーナは涙に濡れた目で、エレノアを見た。


「怖かったのなら、そう言えばよかったのです」


 エレノアの声は穏やかだった。


「……言えるはずがありません」

「なぜ?」

「わたくしは、聖女です」

「聖女は、怖いと言ってはいけないのですか?」


 リリアーナの唇が震える。


「失敗してはいけないのです。弱いところを見せてはいけない。皆が、わたくしの祈りを待っているから」

「ですが、その怖さを隠すために、していない罪を着せられた私は、苦しかったわ」

「……」

「私だけではありません。あなたを信じて祈っていた方々も、嘘を信じさせられることになります」


 リリアーナが俯く。


「怖いことも、失敗することも、責めるつもりはありません」


 エレノアは続けた。


「でも、自分の怖さを誰かへ押しつけてはいけません。あなた自身のためにも、あなたを信じている方々のためにも」

「わたくしは……」

「間違えたのなら、謝ればいいのです」


 エレノアの声は優しい。

 だが、甘やかす声ではなかった。


「傷つけた方々へ謝り、失った信頼を取り戻すために行動する。それは簡単ではありません。でも、始めることはできます」

「聖女ではなくなっても?」

「肩書きがなければ祈れないのですか?」


 リリアーナは息を呑んだ。


「完璧でなくても、祈り続けることはできます。間違えたあとでも、誰かのためにできることは残っています」


 リリアーナの目から、大粒の涙がこぼれた。

 同時に金色の聖鎖が淡く光る。

 腕を縛っていた鎖が緩み、足元へ落ちていく。

 罪が消えたのではない。

 罪から逃げることをやめた者へ、立ち上がることを許すように。

 聖獣アルシオンが静かに頭を垂れた。

 神官たちは、誰も声を出せなかった。

 リリアーナは目の前のエレノアを見つめる。

 自分に濡れ衣を着せた相手を、ただ許す人ではない。

 間違いを間違いとして伝え、それでも立ち上がる道を閉ざさない人。


「……エレノア様」

「はい」

「あなた様は、女神様なのですか?」

「違います」


 即答だった。

 後ろにいたマリベルが深く頷く。


「ようやく真実にお気づきになりましたか」

「マリベル」

「失礼いたしました」


 リリアーナは鎖が解けたあとも、床へ座ったまま頭を下げた。


「申し訳ございませんでした。わたくしは、自分が失敗したことを認められず、エレノア様へ罪を着せました」


 エレノアは静かに頷く。


「謝罪は受け取ります」


 リリアーナが顔を上げる。


「ですが、この件を私たちだけの間で終わらせてはいけません」

「……はい」

「大神殿として、何が起きたのかを公表してください。私に向けられた疑いを正式に取り消し、儀式が失敗した理由を調査してください」

「承知いたしました」

「そして、聖女一人へ失敗を許さないほどの期待が集まっていたことも、見直す必要があります」


 エレノアは周囲の神官たちへ目を向けた。


「同じ環境のままなら、リリアーナ様でなくても、また誰かが追い詰められるでしょうから」


 神官長が進み出て、深く頭を下げた。


「公爵令嬢エレノア・アルヴァイン様。大神殿を代表し、深くお詫び申し上げます。直ちに調査を行い、公爵家へ正式な報告書をお届けいたします」


 マリベルが一歩前へ出た。


「報告書は三部お願いいたします」


 神官長が顔を上げる。


「三部、でございますか?」

「公爵家保管用、お嬢様確認用、そして私の監査用でございます」

「マリベル、あなたの分は必要ありません」

「再発防止の確認が必要でございます」

「それは大神殿が行います」

「大神殿が起こした問題ですので、私も確認を」

「しなくていいの」

「では、写しだけでも」

「だめです」


 リリアーナは、そのやり取りを呆然と見つめていた。

 やがて胸の前で手を組み、エレノアを見上げる。


「エレノア様」

「はい?」

「どうか、わたくしをおそばへ置いていただけませんか?」


 ぱちん。


 マリベルの鉄扇が開いた。

 正座していた神官兵たちの背筋が、一斉に伸びる。


「お嬢様のお世話係は、定員一名でございます」

「マリベル」

「これは、お嬢様の生活環境に関わる重大な問題です」


 マリベルはリリアーナをまっすぐ見た。


「お嬢様の素晴らしさを理解された点は評価いたします」

「ありがとうございます!」

「気づくのが遅いほどでございます」

「申し訳ございません」

「ですが、距離が近い」


 リリアーナが慌てて手を振った。


「まだ何もしておりませんわ!」

「お仕えしたいと申し出た時点で近うございます」

「では、見習いから始めます!」

「見習い期間は三百年でございます」

「人間の寿命では終えられません!」

「覚悟の有無を確認しております」

「厳しすぎませんか!?」

「大幅に譲歩しております」

「マリベル」


 エレノアが低く呼ぶ。


「はい、お嬢様」

「聖女様を威嚇しない」

「これは雇用条件の説明でございます」

「雇う予定はありません」

「安心いたしました」


 リリアーナが目を見開く。


「安心なさるところですの!?」


 エレノアは深く息を吐いた。

 足元には聖獣が伏せている。

 周囲には正座した神官兵。

 目の前には自分へ仕えたいと言い出した聖女。

 隣には鉄扇を構える侍女。

 考えるほど、頭が痛くなりそうだった。

 けれど、濡れ衣は晴れた。

 リリアーナは自分のしたことを認めた。

 これから償うために、立ち上がろうとしている。

 ならば、今日のところはそれでよい。


「帰りましょう、マリベル」

「はい、お嬢様」

「帰ったらお説教です」

「はい」

「大神殿で騒ぎを起こしてはいけません」

「はい」

「神官兵を正座させてもいけません」

「はい」

「聖女様へ鉄扇を向けてもいけません」

「はい」

「反省してる?」

「お嬢様に濡れ衣を着せた者を許さない件については、反省いたしかねます」

「マリベル」

「ですが、聖鎖が聖女様を縛った件は、私の仕業ではございません」

「そこは手柄ではありません」

「事実の確認でございます」


 エレノアは呆れたように笑った。

 その笑顔を見た瞬間、マリベルの胸へ熱いものが込み上げる。

 お嬢様が笑った。

 ならば、今日の戦も勝利である。



 ***



 翌日。

 大神殿の大広間には、新たな戒めが掲げられた。


 一つ。


『涙は証拠ではない』


 一つ。


『聖なる力を、私情による裁きに用いてはならない』


 一つ。


『聖女も過ちを犯す。過ちを認め、謝罪し、償うこと』


 一つ。


『公爵令嬢エレノア・アルヴァイン様に関する申し立ては、必ず事実を確認すること』


 そして最後に、小さな文字で一文が書き加えられていた。


『なお、公爵家侍女マリベルを怒らせてはならない』


 神官長は、その一文を消そうとした。

 だが、正座させられた神官兵たちが、一斉に首を横へ振った。

 消してはならない。

 これは戒めではない。

 安全対策である。



 ***



 数日後。

 公爵家へ、一通の手紙が届けられた。

 差出人は、聖女リリアーナ。

 エレノアは自室の長椅子へ腰を下ろし、丁寧に封を開いた。

 美しい文字で、こう記されている。


『エレノア様。わたくしは今、自分の弱さを隠すことなく、再び祈るための修行を始めております。いつの日か、あなた様の慈悲深き御心へ少しでも近づくことができましたら、どうかおそばへ侍ることを――』


 そこまで読んだところで、ぱちりと音がした。

 マリベルの鉄扇が開いている。


「お嬢様を敬う姿勢は、大変結構でございます。ですが――」


 エレノアは手紙から顔を上げた。


「ですが?」

「距離感に重大な問題がございます」

「あなたがそれを言うの?」

「私は侍女でございますので」

「答えになっていないわ」

「侍女とは、お嬢様のもっとも近くに仕える者でございます」

「自分だけは例外なのね」

「当然でございます」


 マリベルは完璧な笑顔で答えた。

 侍女なので。



 そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。


「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」


 屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。

 老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」


 公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。

 お嬢様が呼ばれた。

 ならば、戦である。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


お嬢様第一侍女マリベルのお話は、他にもあります。

気に入っていただけましたら、第一作目の「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」もぜひ読んでみてくださいね。


また、第四作目となる番外編、

「お嬢様が勇者パーティーを追放されたですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」

もよろしくお願いします!


また、本作とは異なる展開やエピソードを加えた連載版

「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」

も投稿しておりますので、そちらもお楽しみいただけましたら嬉しいです。


面白かった、続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマーク・評価・いいね・感想などで応援していただけると励みになります。


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このシリーズ大好きです!! マリアベル…変わらず元気にお嬢様を守っていますね(ほろり) 相変わらずのイケメン紳士っぷり! そしてやっぱり正座…(笑) いいですねぇ。今回の話でマリアベルが真剣に向き合っ…
短編ありがとうございます ふと思いました 聖女が居るなら神殿には女神像もあるだろうと ……表には出せないかもしれませんけど 正座させたのかなぁ( *´꒳`* )
善神の女神なら信仰するのは必然だよね
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