第七章:楽しい夢の世界。未来もそうだったらよかった。
バナナの皮とタライの衝撃で、倒れ伏したハリスをようやく冷静になったセシウスがみおろす。あまりにも哀れな状況に、同情しているようだ。
「ちょっと、ハリス様? 大丈夫……? まあ、なんて無様……」
セシウスがため息をつきながら、不気味な面を外した。その時、ハリスが「う、ううん……」と呻き声を上げ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
ハリスは、確か、前世で姉がやっていたあのゲームでは、こいつも“攻略対象”だった。当然ながら彼も美形であり、なんとなく俺に似た雰囲気だ……。セシウスは、つかの間、ハリスに目を奪われる。
やがて視線が重なる二人。
朦朧とした意識の中で、ハリスの瞳に映ったのは、心配そうに自分を覗き込む、漆黒の髪を振り乱した美貌の令息——セシウスで。
「……あ……綺麗な人……」
ハリスの口から、掠れた声が漏れる。
「えぇ!?あ、あの、えっと、と、当然だよ!」
ハリスの漏れ出た本心と思われる言葉に、顔を真っ赤にしながら、セシウスが虚勢を張るが、ハリスの視線は熱を帯びたまま、彼を捉えている。
「……ああ、先ほど、私に……バナナの皮を投げたのは、貴方なのですね……」
「え、 あれはリヒルに命令されて……!」
「怒っていません……。あの皮が顔に当たった瞬間、不思議な温もりを感じました……。あれは、暴走する私を止めるための、貴方の愛の鞭だった……」
いや、当たったのは般若面の上だっただろ?
ハリスはふらふらと上体を起こすと、セシウスの震える手を、そっと両手で包み込む。そのタイミングでリヒルが笑顔で紹介する。
「ハリス先輩、この方、伯爵家のセシウス様です。セシウスさんは般若男より、紳士の方が好みですよ?」
それを聞いたハリスはシャキッと立ち上がると、酸化して黒ずんだのバナナの皮をポケットにしまい、セシウスに向かって恭しく跪いた。
「セシウス様。リヒル君を追いかける修行の一環として、まずは貴方を完璧にエスコートする機会をいただけますか? 」
「え、あ、あの……。ま、まあ、ボクに相応しい流行でスタイリッシュで、高価なお店のお茶と一流パティシエのケーキなら付き合ってあげてもいいけど。……ハリス様、結構背が高いんだね……」
セシウスは頬を染め、扇で顔を隠しながらも、ハリスの手を取った。
……なんだかよく分からないが、俺の部屋から、厄介な男が二人同時に去っていく。これ以上ない平和な解決だ。
俺は遠い目で彼らを見送った。
リヒルは残されたタライを被りながら
「兄様、オオタライ購入したら、一回だけ天井に設置して、いいですか?」
弟はすでに、人の恋愛事情よりオオタライに興味が移っている。
俺は返事はせず、オオタライの注文を阻止することにした。
しかし、一つだけ、確認したいことがある。セシウスの言っていた手紙……。おそらくリヒルの仕込みだろう。
「リヒル、セシウスに手紙を送ったのはお前なのか?」
俺の問いかけに、タライを被ったままのリヒルは一瞬ピクリと肩を揺らした。
「……ふふ、ばれちゃいました……」
タライの中で声が反響する。
「もしかして、セシウスとハリスを、引き合わせるためか?」
俺が溜息をつきながら問いただす。リヒルは、真剣な琥珀色の瞳で俺を見上げた。
「ええ。そうです。……ハリス先輩もセシウスさんも、絶対、お互いに好みのタイプだと思ってましたから……
恐怖で心拍数が跳ね上がった後なら、お互い、吊り橋効果で、相手に興味持つかなと思ったんです」
リヒルが首を傾げる。
「兄様、別にセシウスさんの事、愛してませんよね?」
俺は答えにつまった。
確かに愛などない。だが、いつか弟への感情を断ち切るために、彼との婚姻は最善の策かもしれない――そう考えていた。
「兄様、言っときますけど、愛もないのに、セシウスさんと結婚したら、皆不幸になりますからね?」
淡々と述べる弟が、真っ直ぐこちらを見る。
「リヒル、それは未来のことなのか?だとしたらなぜ知っている?」
俺が尋ねるとリヒルは目を伏せる。
「……信じてもらえるかわかりませんが、最近、妙な夢を見るんです。桃のお姫様を助ける配管工だったり、巨大なハサミを持った男からひたすら隠れる少女だったり……あるいはお城の侵入者を罠にかけ、タライで沈める艶めかしい美女なんてのもあります」
「な、艶めかしい美女……」
俺は思わず生唾を飲んで聞き返す。
リヒルは被っていたタライをゆっくりと持ち上げ
「興味あります?」
と、クスリと笑った。
「兄様。あの夢、なんなんでしょうか?父上からパクった魔道具に触れて以降、知らない世界の夢を見るようになりました。色々見られて楽しいのですが、現実世界にはあの世界がなくて寂しいです」
まあ、それはそうだろう。
土管のある世界も、階段が滑り台になってタライが降る屋敷も、前世に実在したわけじゃない。
リヒルはようやくタライを床の上に置いて手放した。
「あの世界、もっと見たくて兄様に作ってもらったけど、再現は難しいですね。もっと広いスペースが必要です」
「リヒル……。庭全部にあれを作ったら母上に怒られるぞ」
弟は少し渋い顔をした後、ぽつりと呟いた。
「空から落ちてくる、丸いモンスターを色ごとに並べて消す夢、もう一度みたいな」
「ぷよ……いや、ジャンルに統一性がないな……」
「あのモンスター、とても可愛いので、謹慎が解けたら魔物の森へ行って似たような子を探して飼おうと思うのですが、兄様、手伝ってくれますか?」
「行くのはいいが……いたとしても、飼わないからな……」
魔物の森。大量捕獲してきて、屋敷がモンスターだらけになる未来が見える。
リヒルはまた、不満そうに唇を尖らせたが、すぐにいつもの柔和な笑顔を俺に向けた。
「そうですね。面白い夢だからって、何も考えず真似たらいけませんね。場合によっては、人を深く傷つけます」
「人を傷つける?」
その声は、いつもの柔らかさを保ちながらも、妙に大人びている。
「レックス先輩が誘ってくださったドラゴンに乗るデート、本当はあのドラゴンに乗りたかったけど……あの子の名前、サラマンダーなんです。
『サラマンダーよりはやーい』というセリフが脳裏から離れず、乗れませんでした。とても嫌な夢でしたから」
……純情な少年の心を木っ端微塵に砕いたあの凶悪悪女のセリフ!
「心配するな。お前はそこまでの非道じゃ無い」
俺の言葉に、リヒルは一瞬、きょとんとした顔をしてから、目を細めた。
「兄様、それ、『水晶塔の禁断の夜』の攻略対象のセリフですよ」
「その夢も見たのか?」
「はい。つい最近です……。……って、兄様。今、当たり前のように言いましたけど、どうして僕の夢の内容を知っているんですか?」
琥珀色の瞳が、探るようにこちらを射抜く。
「俺もその世界、見たことがある。少しだが……」
「……そうですか。兄様も、僕と同じ地獄を覗いてくれていたんですね」
彼にとって、俺が「なぜ知っているか」という理屈よりも、「自分と同じ痛みを共有してくれている」という事実に、価値があったらしい。
「なら、隠す必要はありませんね。……実はあの夢、攻略後の未来まで見てしまいました」
「攻略後?」
「はい。全員攻略した後の世界です。あの魔道具、父上の言いつけを破った罰でしょうか。とんでもない威力で僕に未来を見せます。」
少し、悲しげに視線を落としてから、リヒルは淡々と語り始めた。




