第四章:弟が黒魔術に目覚めたのは、だいたい俺のせい。――図書室の身長差イベント
薄暗い夕暮れの学園。窓から差し込む斜陽の光が薄紅色のカーテンを照らしている図書室。
その片隅、人気のない奥まった書架の前で、リヒルが懸命に背伸びをしていた。
重厚な木製の棚の最上段。
指先がギリギリ触れるか触れないかという絶妙な高さにある一冊の本。
「……っ、ん、んん……あ…ダメ……届かない」
ぷるぷると震えるつま先立ち。服の袖がずり下がり、白い手首が夕日に透けて見える。必死に手を伸ばすその姿は、まるで高いところにある果実を欲しがる小動物のようで、庇護欲をこれでもかと煽ってくる。
これだ。これこそが乙女ゲームにおける至高のシチュエーション。
俺は息を殺して背後から近づき、影で彼を覆うようにして手を伸ばした。
「――この本か?」
俺は、リヒルの耳元で低く囁く。
驚きに肩を揺らした彼の頭上を、俺の腕が悠然と越えていった。
大きな手の長い指が、目的の本を難なく、それでいてスマートに引き抜く。
これぞ典型的な、「背後からの身長差イベント」である。
リヒルは弾かれたように振り向いて、その大きな瞳をキラキラと輝かせた。
「はい。これです! ありがとうございます。
……兄様は、やっぱり背が高くて格好良いですね。それに、困っている時にいつも助けてくれる……。本当に、お優しいです!」
極上の笑顔。至近距離。
向けられた純粋な賞賛の言葉に、俺の心臓は高鳴った。
ああ、可愛い。美しい。なぜお前は俺の弟なのか。
俺は内心で血縁という名の高すぎる壁を呪いつつ、しかし、家族ゆえに俺にだけ独占的に向けられる無防備な笑顔に、仄暗い悦びを感じていた。
だが。
リヒルが胸元に抱え直した、その本の表紙を見た瞬間。俺の脳内のバラ色の景色は、一瞬でセピア色に凍りく。
『どんな男も操れます! マル秘恋愛黒魔術テクニック! ~世界の男があなたに跪く!!~図解説付き』
……。
俺の胃がキリキリと痛みはじめた。
紫の古びた装丁に、どこか怪しげな金文字のタイトル。
リヒルは内容を確かめるようにパラパラとページをめくり、満足そうに「ふむ」と小さく頷いた。
「うん。……、とてもわかりやすい」
「……何がだ?」
「この、本の内容が、です」
弟よ。その神に愛されたような綺麗な顔で、一体何を読む気だ。というか、世界中の男を跪かせてどうするつもりなんだ。
「……リヒル。その、おどろおどろしい本は……なぜ必要なんだ?」
俺の問いに、リヒルは小首を傾げた。その仕草すら絵になるのが余計に恐ろしい。
「フリード・フォン・デュアナード王子殿下を操る為です」
俺の脳内に、最大級のサイレンが鳴り響いた。
フリード・フォン・デュアナード王子。
このゲーム世界の不動のメイン攻略対象であり、この国の第一王子だ。
表向きは物腰柔らかな「理想の王子様」だが、その本質は冷徹かつ完璧主義。深く美しいエメラルドの瞳は、常に慈愛に満ちた光を湛えつつも、その裏側では恐ろしいほど冷徹に他者を観察し、盤面を支配するための計算を巡らせている。
「冷たいエメラルド」――。
愛などという不確かなものを一切信じず、鉄壁の理性を鎧として纏う彼。本来なら、リヒルのような無垢な存在すら利用の対象としてしか見ないはずの男だ。
ゲームシナリオでは、リヒルの健気さに少しずつ心を溶かされ、やがて真実の愛を見つける……という、その「過程」がファンの心を掴むはずなのだが。
だが、リヒルにはそんなまどろっこしい手順を踏む気など毛頭ないらしい。あろうことか怪しげな本を手に、物理的な強制力で攻略の最短ルートを爆走しようとしている。
「……王子を、黒魔術で操りたいほど……その、好き……なのか?」
俺は震える声で尋ねた。もしや、愛ゆえの独占欲が闇堕ちの方向へ突き抜けてしまったのか。
しかし、リヒルは不思議そうに目をしばたたく。
「え? いえ、好きとかそういう感情ではなくて。先週でしたか……殿下と中庭でお話しした際、『君の瞳に見つめられると、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。君になら、いっそ操られたい』とおっしゃったので」
「…………」
おかしい。俺が想定していた、切なくも美しい「報われない愛ゆえの禁忌」という答えとは、何かが根本的に違う気がする。
「殿下があそこまで切実に望まれているのです。その期待に応えるのが、貴族の義務かと思いまして」
違う。リヒル、それは決定的に違う。
あの自信家の王子が言ったのは、熱烈な愛の囁きだ。決して、「操り人形にしてくれ」という実務的な依頼じゃない。
攻略対象が心を込めて投げた愛の告白を、弟はこともあろうに「発注書」として受理してしまったようだ……。
リヒルは本を宝物のように大切そうに抱え直し、汚れなき天使のような微笑みを浮かべた。
「兄様も、後で読みますか? 兄様となら、すぐにでもこの魔術の目標を達成できそうです」
「……遠慮しておこう」
「そうですか。一緒に研究できると思ったのに。残念です」
リヒルは少しだけ、しょんぼりしてから、しかし軽やかな足取りで、くるりと踵を返した。
その手には、王国の破滅を招くかもしれない黒魔術書が握られている。
俺はその背中を見送りながら、深く、深く、天を仰いだ。
(なんかこの頃、上ばっかり見ている気がする……)
図書室の天井は、今の俺の心境のように高く、そしてどこまでも虚無だった。
――今回は、確かに身長差イベントは成立した。
弟は喜び、俺への好感度も、本来上がるべきではない方向に上がった気がする。
成立した上で、今、俺が切実に思うのは、あんな本、渡す前にさっさと燃やしてしまえばよかった、ということだ。
「……王子殿下、弟に不用意な事、言わないでくれ……」
図書室の静寂の中、俺だけが一人、遠い目をしながら立ち尽くしていた。




