第一章:前世とお使いイベント(なお恋愛は発生しないもよう)
「あ……」
階段の上から降ってきた弟の呑気な声。それと同時に、俺の視界を巨大な影が覆った。
直後、分厚い革装丁の辞書が、吸い込まれるように俺の脳天を直撃した。
ガッ!!
凄まじい衝撃。火花を散らす視界。
その痛みと共に、俺の脳内に「前世:日本の普通の男」という異物が濁流のごとく混入した。
――同時に理解してしまう。
ここは、前世で姉がリビングのTVを占拠し、家族の目も憚らずプレイしていたBLゲーム『水晶塔の禁断の夜』の世界だということを。
魔法、ドラゴン、王侯貴族。そして、右を向いても左を向いても男が男を狙っている、肉食系男子しかいない修羅の国。
なるほど、今世の自分の記憶を辿れば、金髪碧眼の超絶美男子がこちらを見返している。公爵家の長男アルバート・ロゼルト。この俺。……あろうことか、攻略対象の一人だ。
「に、兄様……っ!」
弟が青い顔で駆け寄ってきて、ぶっ倒れている俺を覗き込んだ。
「ご、ごめんなさい……! ぼ、僕、手が滑って……! 大丈夫ですか!? い、今すぐお医者様を――」
(いや、待て。状況を整理させてくれ。辞書の角で死ぬ前に。)
俺は後頭部を押さえたまま、ゆっくりと起き上がった。目の前にいるのは、このゲームの主人公であり、俺の弟、リヒル・ロゼルト。
弟は自覚していないが妙に人を惹きつける16歳の美少年で、母に似たせいか、中性的な魅力があり、その外見は淡いオレンジ色の柔らかな髪に、蜂蜜のような琥珀色の瞳を持つ。
輪郭は丸く、少年とも少女とも言い切れない危うい色香を放つ、魔性の美少年。
「……リヒル。ひとつ聞くが……この世界、……男同士で恋愛って、普通だったりする?」
弟は、きょとんとして答えた。
「え? はい。そうですね。女性と恋をする人も男性と恋をする人も……愛に性別は関係ないって、父上も仰っているじゃないですか」
……ああ。そうか。詰んだ。
逃げ場はない。ここは日常的にBLがログインしている恐ろしい世界。
「兄様? 本当に大丈夫ですか? 何か、凄く困ったようなお顔ですが?」
リヒルの不安げな声に、俺は我に返った。
……いや、まだだ。落ち着け。
俺は痛む頭を押さえながら立ち上がる。
「医者は不要だ。部屋で休む。父上と母上にはもう寝たと伝えておいてくれ」
「兄様……」
不安そうに俺を見送るリヒルに背を向けて、俺は自室へ戻った。弟が心配して、救急箱を持ったメイドを寄こし、彼女は頭に湿布を巻こうとしている。俺はされるがままになって大きく溜息をついた。
(落ち着け。落ち着け。そうだ。よく考えれば、俺が自分から誰かを攻略しに行かない限り、男に向かって愛を囁く必要はない。鋼の理性を保ち、弟を守る『ただの良き兄』として振る舞えば、将来、可愛い奥さんを娶る『普通』の人生だって可能なはずだ)
しかし、そう思おうとする俺の思考に反し、記憶の戻る前の俺……「アルバート」自身の人格が、
『見ろ、あの潤んだ瞳! あれが俺の天使だ! 天使をすぐに俺のものに!』と叫んでいる。
どうやら前世を思い出す前のアルバートは、すでに弟に秘めた想いを持っていたらしい。
俺は鏡の前でブンブンと首を振った。
「血迷うな! 俺は一般家庭で育った普通の感性の持ち主だ! 絶対に弟に恋なんてしない!」
絶叫する俺を見て、メイドは哀れむような目になったが、構っていられない。
だが、この世界は甘くなかった。
BLゲームの世界補正なのか、あるいは定められた運命なのか、前世を思い出してからも、何かと理由をつけて弟との甘いイベントを夢見てしまう自分がいる。
「運命に抗え! 100歩譲って俺が他の男と恋に落ちるハメになっても、家族だけはダメだ。業が深すぎる……。せめて、せめて妄想程度で理性を食い止めろ!」
壁に頭をぶつけながら俺は叫んだ。
物音に驚いて部屋に入ってきたメイドが可哀想なものを見る目で俺を見ていた。
もっとも、「身内相手に妄想だってダメだ」という理性の叫びを無視している時点で、俺の負けは決まっていたのだが。
◆
そんな中、最初のイベントが幕を開けた。
父――ロゼルト公爵が、さらりと言った。
「アルバート、リヒル。明日、この書状と、これを持って、隣国の町シルフハーフェンまで行って来い」
そう言って小箱を取り出しだ。
「これを道具屋の主人に直接渡してきてくれ。馬車は用意してある。信頼できる者にしか任せられんからな」
そう言って父が俺に書状を渡すと、リヒルは、小箱を持ち上げながら無邪気に聞いた。
「わあ、これ、なんですか?」
「……コマンド入力装置」
「えっ?」
「何でもない。絶対開けるなよ?」
父上、それは開けてくれというフリですか?
俺は心の中でツッコミつつ、始まった「兄弟二人きり出張」に、少しばかりの期待を持ってしまった。
案の定、道中、大雨に見舞われ、手違いで馬車が帰るという無理やりな展開が起こる。
駆け込んだ宿の部屋には、当然のようにベッドは一つ。
ゲームではここで、寒がるリヒルを俺がベッドで抱きしめ、体温を分け合う甘い夜が始まるはず。
(いや、それは……ダメだ、……ダメなのに……!)
隣で濡れそぼっているリヒルの首筋を見た瞬間、俺の理性が「ホワイトアウト」した。
白く細い指。寒さに震える肩。
前世の理性(一割)が「やめろ」と叫び、アルバートの本能(九割)が「抱きしめろ」と吠える。
が。
「寒いーー!!」
部屋に入るなり、リヒルはシャツのボタンを引きちぎらんばかりの勢いで脱ぎ捨て、全裸一歩手前の姿で浴室へ直行した。
……そらそうだ。
あまりの素早さに、甘い言葉をかける隙もなかった。
俺はずぶ濡れのまま、呆然と椅子に腰掛け、弟が風呂から出てくるのを待った。まだだ、風呂上がりこそが真のイベント発生ポイントのはず。
やがて、ガチャリと扉が開いた。
「どうぞ。兄様、お先です」
リヒルは濡れた髪を適当に拭きながら、事もなげに言った。
「……いや、俺はいい。寒くないか? リヒル、こっちへ——」
「えっ、嫌です!
僕は風呂に入らない人と、同じベッドで寝たくありません!」
リヒルに本気で嫌な顔をされ、俺は深く傷ついた。
「……わかった。入ってくる」
「はい。ごゆっくり~」
リヒルは物凄くかわいい笑顔で見送ってくれた。
20分後。
俺が浴室から出てくると、リヒルはすでにベッドで爆睡していた。
雨は上がり、月明かりに照らされた美しい寝顔。桜色の唇。
俺のなかの「アルバート」が、ついに理性の防波堤を決壊させた。
(……もう、限界だ。頬に触れるくらいなら、神も許してくれるはず……)
俺は、獲物を狙う獣のごとくベッドへ這い寄り、そっと、愛しい弟の頬へ手を伸ばした、その時。
ドゴォッ!!
「ぐっ……!?」
リヒルの、殺意すら感じる的確な寝返りが俺の鳩尾を撃ち抜いた。
そのままベッドから叩き落とされた俺は、床で意識を失った。
翌朝。
俺は床の上で、リヒルはベッドの上で、それぞれ心地よく(?)目覚めた。
俺の理性は、弟の物理攻撃によって鉄壁に守られたのである。




