―序章― Digestivo
殺してやる。
チクショウ。
チクショウ。
「っぷはぁッ」
ヴォヴ・コロントが水面に顔を出したときには、すでにプレジャーボートは見るも無惨な薪と成り果て、立ち上る火の粉が夜空を僅かに朱色に染めていた。
「おい二人ともッ」
「セレナァッ」
「ポルコォッ」
「なあおい二人ともッ」
右腕、肘より先が喰い千切られ、海水を掻けば掻くほど激痛に顔が歪み、意識が飛びそうになるが、
「二人、とも」
「返事をッ」
「返事、を…ッ」
「…二人ともッ」
ヴォヴは必死に、セレナに教わった立ち泳ぎを崩す事無く、声を張り上げ続けたが、
「オレを…置いてか、ない、で」
最後の力と共に絞り出した懇願に、意識が飛びかけたときだった。
エンジン音だ。
遠いような、近いような場所から、クルーザーのエンジン音が聞こえてきて、
「ヴォヴッ!ヴォヴ無事だったかッ!!」
「ノッチ…さぁん…」
今度は近くでクルーザーの停まる音が聞こえてきて、すぐにざばんと飛沫を感じ、抱き抱えられた。
「待ってろヴォヴ。今、船に乗せてやるからなッ。おい右腕が…、かわいそうによォッ」
「ノッチさん…二人が…二人、が」
「何も言うなヴォヴ。気をしっかり持てよッ、さあ、ほらッ」
クルーザーの後部座席にざばんと上げられ、
「ッゲホ、ゴホッ」
ヴォヴは飲み込んだ海水を勢いよく吐き出す。
そうして同じくノッチも這い上がると、クルーザー備え付けの応急セットを使って手早く止血をし、
「さあ帰ろう。ヴォヴ」
うなだれるヴォヴを元気付けた。
「取引、は…?」
「そんな場合じゃあねえだろッ」
「…ゲホ、ッゲホ」
ヴォヴは、運転席に腰掛け、エンジンを掛けなおすノッチの背中を見つめた。
「ブツは…海の底に、落としちまい、ました」
「ああいい。気にするな。よしエンジンかかったぞ。すぐにアジトだ安心しろヴォヴ」
間も無くスクリューが回り始め、クルーザーは燃え上がる惨劇の跡地から、みるみる遠ざかってていく。
「二人が」
「…ヴォヴ」
「まだ生きて」
「気を確かに持て」
「セレナと、ポルコが、喰われ、た?」
「ヴォヴ。今は、帰ることだけを考えろ」
「ありえ、ねえ。…あり得ねえあり得ねえッ」
「ヴォヴ、もう喋るな。傷の手当てを急がねえと」
「なんでぇ、あんな…化け物が、地中海、なんか、にぃッ」
「もう大丈夫だヴォヴ。安心しろ。このクルーザーなら絶対逃げ切れる」
見上げた夜空には煌々と月が輝き、その目映さに思わず眉をひそめる。
そして、月がうっすらとした雲に、僅かに隠れた時、
「二時間…くらい、でしたっけ」
ふいに、ヴォヴがノッチに問いかける。
「何か言ったか!?」
エンジンの駆動音が邪魔をして、ノッチには声が届いていないらしい。ヴォヴは這い寄り、どさり、と助手席に腰掛けた。
「どうしたヴォヴ。傷が開く。あまり、動くなよ」
「見回りは…二時間、くらい、でしたよね」
「くそっ、血が足りねえんだな?」
「妄言じゃ、無いです」
そう言ってヴォヴは痛みに耐えるように、夜空を仰ぎ見た。
「見回りは…どの辺りまで?」
「…落ち着け、ヴォヴ」
「二時間…回ったにしちゃあ」
「メーター。全然、減ってないですよ。ノッチさん」
ヴォヴが顎で指し示した、燃料メーターは、
ほぼ、満タンだ。
「…」
フルスロットルの小型クルーザー。
仄明るい銀色の轍を残して、闇夜を颯爽と駆け抜けていく。
「なあヴォヴ」
「ノッチさん」
「聞けよ」
「あんた」
「…ヴォヴよ」
「見てたな?」
キュウウゥゥゥゥン――…ンン…
ふいに、クルーザーが、停まった。
ノッチが停めたのだ。
月が、完全に雲に隠れた。
「ノッチ、さん」
「答えて、下さい」
「なぜ、メーターが、減ってな」
「…っくくくく」
「何を…笑って」
「っなあヴォヴ」
「あんたッ、オレ達を、サメに…ッ?」
「妄言はいい加減にしろ」
「サメに喰わせるのが…エサに、するのがッ」
「ヴォーヴ、おいヴォヴ。落ち着けよ」
「あの…ブツを、沈めるのが…目的…か?」
「ヤクを沈めて何に」
「ヤク…?あんた、オレ達に」
「ヴォヴ」
「『ブツの取り引き』、って言ったよな…?」
「見たのか、中を」
「ああ見たさッ、あれは、絶対にヤクなんかじゃ」
「…バカが」
ッタァアン――…
銃声が波間にこだまする。
焼けるような腹の痛みに、ヴォヴは思わず頽れる。
「俺はな?ヴォヴ。昔、役者を夢見たことがあったんだ」
「…ノッ、チ」
「うまいもんだろ?…ボスにだって『ヤクの取引』と信じ込ませたさ。っはは!」
「何、し、てんだ」
「なあヴォヴ。お前はボスから何を学んだんだ。え?」
「何、が…も、くて、き…だ」
「頭を使え。…いつも、そう教わんなかったか?」
「…こっぽ、ふ、ぐぅうう、ノッチー、ノ」
「何でもかんでも、な?目についたものを喋るんじゃあないよ。…ほら、沈黙だって立派な話術だぜ?」
ノッチは拳銃の銃口を、ヴォヴの腹に開けた穴に突っ込んで、はみ出てきた小腸をぐちぐちと弄る。
「ノッチィイノォオッ」
「なんだよ。教育係はベッドでの踊り方しか、教えてくれなかったか?ん?」
「ノッチィィイノォォオオオオッ」
「セレナはとんだクソ売女だな、おい」
ヴォヴは遺された左腕で、ノッチの胸ぐらに掴み掛かる。
「おいおい、おいおいおいおい」
しかし力が込められるわけもなく、あっさり掴まれ、捻り上げられた。
そして再び雲の向こうから顔を出した月が、その左手を、ルビーの婚約指輪を、残酷なほど赤々と照らし出した。
「あわれな…実にあわれな指輪だなあ…そうだろヴォヴ」
「…っふ、ぐうぅ、っう」
「なんだよ。片割れのもとに、送ってほしいのか?」
「ふぅ…ふぅ…ふぅ…ふぅッ」
「な?クソブタとクソ売女が手招きしてるぜ?」
「…す」
「あ?」
「ころ、す」
「ああそう。やってみろよ。ほら」
「お前を絶対にッ」
ッタァアン、タァン、タァアン――ンン―――…
ぼしゃ…ん…
三発の銃声の後、ヴォヴの音が波間に消えた。
「全く。サメに喰われた方が気持ちよく死ねたろ?」
ノッチはクルーザーにこぼれていた小腸の破片を靴底で蹴り落とし、
「…さて」
クルーザーのエンジンを点けて、
「角度を、間違えなければ」
回るスクリューに、歩み寄り、
「…利き腕はマズいな」
「…フゥ」
「…もうすぐ。もうすぐだよ。…『O sole mio』」
こうしてノッチーノ・チノーリは、
馴染みのナポリ民謡を口ずさみながら、
左腕の『噛み傷』を、作ったのだった。
真夜中のイオニア海のどこか。
ヴォヴの意識は、まだこの世に、強い感情によって、繋ぎ止められていた。
声無き言葉が、
繰り返し、
繰り返し、
あぶくと共に水面へ昇っていく。
ヴォヴ・コロントは、誰よりも強い決意を、
復讐を、
遺された左腕、その薬指の赤い輝きに、誓うのだった。
チクショウ。
チクショウ。
殺してやる。ノッチーノ・チノーリ。
「っぷはぁッ」