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Digestivo 太陽の 鮫―スクアーロ―  作者: 29-Q
序章 ―Prologo―
7/15

アニーチェ・ヴァルネラータの店番

 老舗のバール、カフェ・ヴォルゲッテの自称看板娘アニーチェ・ヴァルネラータが、一人留守番を頼まれたのは、カントゥチーニ島全体がオレンジに染まる頃の事だ。


「暇だなあ」


カウンターも、テーブル席も、酒棚も、床も、掃除という掃除を終え、夜の間は使わないテラス席の片付けも何もかも終わらせてしまい、アニーチェはただ一人、ピカピカに磨いたテーブル席に腰かけ頬杖を突いていた。


「悪いっ、アニーチェ。どうしても出にゃならん事になった」

そう言ってマスターのウィル・ヴォルゲッテはいつものように顔の前で掌を組んで、その陰から申し訳なさげにちらちらアニーチェの顔色を伺ってくる。

「まあた賭けサッカー(トトカルチョ)ですかあ?」

「まあそんなとこ」

「もう。負け続きなんですから、諦めてください」

「そこをなんとか」

「…お土産、キンっキンに冷えたジェラートがいいなあ」

「…シングル?」

「ダブルかなあ」

「っう、うう、…わかっ、た」

「いってらっしゃいっ!」



「はあ」

そう、思い出しため息を溢した時だった。

カランカラン、とドアベルが客の入店を告げる。

「あ、いらっしゃいませっ」

「っす」

妙な格好のパンクな女が、気だるげにカウンターに歩み寄る。

アニーチェもエプロンの乱れを直しながら、小走りにカウンター内に入った。

「カプチーノ、デカフェ低脂質砂糖控えめで。…あとクランベリージュース。持ち帰り」

「お一つずつで?」

「っす」

「かしこまりましたっ」

コーヒーバリスタを操作しながら、アニーチェは白衣の女の観察をする。

右肩を出すよう着崩すオーバーサイズ気味な白衣。

ドクロのワッペンがこれでもかと貼り付けられる死屍累々の純白の最中、胸ポケット辺りでにっこり微笑むポメラニアンのワッペンに、浮いた印象を受ける。

「…お好きなんですか?ポメラニアン」

「クソ好き」

「わあ」

「あんたは?」

「どっちかっていうとネコ派ですねえ」

「クソが」

「すみません」

「最高じゃねえか」

「あ…え?ありがとう、ございます?」

「あーしはスフィンクスの腹に顔埋めんのクソ好き」

「うわ独特ぅ」

デカフェのカップに低脂肪乳を泡立てた物と砂糖を少し注いで蓋をして、クーラーからクランベリージュースのビンを取り出す。

「ペットとか飼ってるんです?」

「ああ。たくさんいるっすね」

「へえ!わんちゃんねこちゃんいっぱいなんですか?」

「ったりめえっしょ。この間まではチャバネの繁殖に凝ってたんすよ」

「はあ。ブリーダーも?」

「そこまで大したもんじゃねっす」

「…というかチャバネ、って…いや、いいか。考えちゃ、ダメな気が」

「それと最近サッカロミケス・セレビシエに凝ってて」

「え?何て?」

「サッカロミケス・セレビシエ」

「さっかー…?」

「ほれ。可愛いっしょ」

そう言って女はスマホでペットの写真をいろいろなアングルから見せてくれるが、透明なゼリーの上で白いふにゃふにゃがポツポツしている事ぐらいしかわからなかった。


あ。この人、ヤバイかも。


「うっわあ、カァワイイデスねえ」

「だろ!?クソが、やっとじいさん以外でわかってくれるダチができそうだ」

そう言って女は満足げに買い物袋を取って、

「釣りは要らねえ。また来るぜっ」

と言って会計を済ませ、少しスキップ混じりに帰っていった。

「ちょっと可愛いじゃん。…さっかーは…わかんないけど」


客が去った後、また退屈な時間がやってきた。

アニーチェはスマホを取り出して、ニュースをさっと眺める。

「サメ、ねえ。…百万ユーロもあったら、何できるかな」


お父さんを、探せるかな。


「なあんて」

一人ごちた瞬間、カランカラン、と再びドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませっ」

今度は柿渋色のスーツ、上着を右肩にかけた中年の男だ。

時々来店する常連さんで、確か記者だった気がする。

「ラガー、ジョッキで」

「かしこまりました」

ため息混じりにカウンターに立ち、タバコを一本咥え、ライターで火を灯す。

アニーチェはジョッキを棚から取り出して、ガラスの灰皿をそっと男性客の前に引っ張る。

「ありがとさん」

「いえいえ。ごゆっくり」

「したいとこだけど」

「できないんで?」

「ええ。すぐ」

冷蔵庫を開けて、ラガーのビンを一本取り出して手早く注いでいく。

「今日はマスターいないのかい?」

「ええ。出掛けてます」

「そっかあ。今夜は相談乗ってもらおうと思ってたんだけどな」

「ほう。仕事ですか。恋ですか」

こん、とジョッキを記者の男の前に置いた。

「まあどっちもってところ」

「おお。マスターどっちも苦手そう」

「っはは。じゃあ君は得意なの?」

「見えます?」

「見えないねえ」

「でっすよねえ」

男は楽しげに笑って、灰皿にタバコをぐりと押し付け、ジョッキの琥珀色をぐいっとあおる。

そこへ、カランカラン、と二人の客が早足で入店してきた。

「いらっしゃいませっ」

「テーブル借りても?」

「どうぞー」

痩せぎすの男は落ち着かない様子で、連れの紺のスーツの男をこちらへ、と奥の影になっているテーブル席へ案内していく。

「ご用があればお声がけくださーい」

痩せぎすの男は手を上げ、あいよ、と一言言い残し、連れの男と小声で話し始めるのだった。

「何かな。ヤクの取引とかかな」

記者の男は楽しそうに、声を潜めて話しかけてきた。

「うちの店ではやめて欲しいなあ」

「ははっ、俺は大歓迎だね」

「普通に他人事じゃん」

「映画みたいで楽しくない?」

「楽しくないなあ」

ぐいっと二口目でラガーを飲み干して、

「さあて。また仕事だ。マスターにもよろしく」

そう言って会計を済ませ、またね、と店を出ていった。

「仕事と恋かあ」

マスターの笑顔が頭に浮かぶが、

「無いなぁ、あたしには」

一瞬で流れていく。


灰皿掃除と、ジョッキの洗浄。

職場から帰宅していく外の通りの喧騒に紛れて、二人の男のひそひそ話がわずかに聞こえてくる。

「…一刻を争う状況だ…」

「…ししゃが増える前に、どうにか…」

「…こっちもヤられてんです。だから…」

なんだか物騒な話かも。と逃げるように、アニーチェは少しだけ、店内BGMの音量を上げる。

会話が隠れる程よい音量になったちょうどのタイミングで、

カランカラン。

またドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませっ」

「おう。嬢ちゃん」

いつもの常連の、気さくな白髪の老人だ。

どっこいしょ、と言って、スマホ片手にカウンターに寄りかかる。

淡いブルーのアロハと白のハーフパンツにサンダルと、今日も老いを感じさせないラフな格好に身を包んでいる。

「お?ウィルぁいねえのか」

「ええ。出掛けてます」

「ったく。若い女の子置いて何してんだウィルは」

「さあっ。女遊びするような人でもないですしね」

「ああそうだな。がははっ」

そう豪快に笑うのも束の間、通知にため息を溢し舌打ちして、手にしたスマホの画面を睨む。

「…嬢ちゃん。いつもの頼む」

「はい、いつものでっ」

「ああ、カプレーゼは抜きで。別のバールで飯は済ませてて」

「あー。浮気ですかあ?」

「すまない。訳アリでね」

どこか悲しげな含みを察して、アニーチェは余計な詮索をやめて仕事に専念する。

エスプレッソマシンを操作して、ダブルでカップに注ぎ、多めの砂糖を注いでいく。そしてアニチェのボトルからその透明を注いでいき、少量の氷と共にパフェ用スプーンでしっかり混ぜた後、冷凍庫から取り出したバニラアイスを浮かべて提供した。

老人はスプーンで一口アイスを食べて、そしてまた、苛立たしげにスマホをしきりにスワイプし始める。

「…荒れてますね、今夜は」

「んん?いやねえ、変なヤツに絡まれてるんだ」

「ええ。大丈夫なんですか」

「まだ特に実害が出てるわけじゃあねえんだが、ただただ」

アイスをまた一口、口に運びながら、適切な言葉を探すように眉をしかめる。

「…ただただ?」

「気味が悪い」

「うっわ、最悪」

「最初に長文の、意味のわからないヴィジュアル系バンドの歌詞みたいなDMが送られてきたかと思えば、今度はオレの愛犬達の写真投稿一つ一つにいいねとポエムみてえなのを送りつけてくる」

「まじで最悪ですね」

「ただ内容は…どうやらクソ褒めてくれてるらしくて」

「ええ…ただのV系愛犬家ですか?」

「悪い気はしない」

そうニヤついて、カフェ・コレットを飲み干した。

「問題起こされる前に、はやめに開示請求した方がいいですよ」

「仕事柄、そうもいかんのだよ」

「へえ…?」

そういえば、この常連客の仕事は知らないな、と、アニーチェは首を傾げていると、老人は残ったアイスをくしゃくしゃに混ぜ混んで一気に掻き込むと、

「ごちそうさま」

そう言って五倍ほどある額をテーブルに置かれ、

「こ、こんなに頂けないですっ」

「ん?チップはいつもの事だろう。…今日はウィルも居ないし、嬢ちゃんが貰ってくれ」

「ぅええ、あ、ありがとう、ございますっ」

深々と礼をする間に、カランカラン、と出ていってしまった。

「ボーナスだぁ」

そうぼやきながらチップをエプロンのポケットに突っ込んでいると、

「邪魔しやした」

と、怪しげな二人組も、どこか申し訳なさそうにペコペコしながら戸口に歩いていって、

「またのご来店をー」

カランカラン。

ドアベルの音と共に、再び店は静寂に包まれた。


「マスター、遅いなあ」

レジスターの整理に、グラスの洗浄。

厨房掃除といった雑務を終えてぼやいたところに、カランカラン、とドアベルの音が聞こえてきた。

慌ててモップを片して、店内に顔を覗かせ、

「いらっしゃ」

カウンターに立っている男の爽やかな笑顔にアニーチェも挨拶半ばたまらず吹き出し、

「なあんだ、お兄ちゃんか」

「ああ。お兄ちゃんだ。悪いか?」

「いいえ?サンデー警部。問題有りませんっ」

敬礼をしてからかう。

サンデーはやれやれと肩をすぼめる。

「どうだ。店は慣れたか」

勤め始めてそろそろ二年。常連さん達ともうまくやれているし、何よりもアニーチェは、苦楽含めて全部を楽しんでいた。

「まあまあ。お兄ちゃんは慣れた?」

「ん?警部の仕事?」

馴染みのシガレットを咥えながら、ジッポを灯しつつ、眉をしかめて考え込む。

「…まあまあ。かなあ」

そう言って彼が流した視線の先、通りに面した大窓には、一人の男の白シャツの背中があった。

「できの悪い部下、と見たっ」

「ふふ。明日言っとこ」

「やーめてよぉ。警察の人達、みんないいお客さんなんだし。あの人も確か、お昼にお初、だったかなあ」

「ほう。覚えてるのか」

「そりゃ覚えますよ。仕事ですし」

「あいつクソ真面目でさ。『兄妹水入らず。邪魔しちゃ悪いです』とか言って。入ってこないんだよ」

「へえ。優しいんだ」

「優しいか?」

「うん」

サンデーは肩をすくめ、ガラスの灰皿を自分で引っ張り寄せ、シガレットの灰を落とす。

「妹のカプレーゼは絶品なんだぜ、って連れてきたんだが。食う気無いのかねえ」

「…へえ。ついては来たのにね」

「全くだ」

「で、お兄ちゃんは?いつもの?」

「もちろん。ペコペコなんだ」

「おっけー。待ってて」

アニーチェはウインクして、厨房に小走りで駆け込んだ。

そうしてプランターから頃合いのバジルを数枚摘んで、軽く水洗いの後水気を拭き取り、揉みしごきながらボウルに突っ込む。

それから塩コショウとオイルをバジルに馴染ませ、冷蔵庫からトマトと、モッツァレラをそれぞれの引き出しから引っ張り出し、慣れた手付きでカットして、全部を彩りよく皿に盛った。

仕上げにレモン汁を搾りかけたところで、

「…」

思い付きで、何となく。

余った切れはしをバジルとオイルの残りと混ぜ合わせて、レモン汁と和えて、バゲットを手頃な厚さに切り揃え、簡単なサンドイッチに手早く仕立て、ペーパーでくるんだ。


「お待たせ。お兄ちゃん」

「おーう。…おう?」

カウンターから店の戸口へ通り抜け際、さっとカプレーゼの配膳を済ませ、アニーチェはそのままペーパーの包みを抱えて外に出た。


「サンデー警部、一つ気付いた事があるのですが」

部下の男が、神妙な面持ちで通りの雑踏からこちらに振り向くが、

「なんだね、真面目刑事クン?」

芝居がかった立ち振舞いの少女に思わず吹き出した。

「…失礼致しました。『ヴァルネラータ警部』」

「あら。ユーモアは意外とお持ちでっ」

「意外と?…というか、どうしたんです」

大窓の向こう。

店内カウンターから冷たい視線を感じ、男は身震いする。

「お兄さんを、置いて」

「いえ。あなたも何か食べるものでも、と思って」

そう言ってアニーチェはサンドイッチの包みを手渡す。

「ええっ、いいんですか」

「なんと、いいんです」

「そうだお代は」

「お代は結構」

うーんでも、と、刑事の男が渋るものだから、

「じゃあ」



食後酒(ディジェスティーボ)は、いかがなさいます?」



吹き抜けた爽やかな夜風に、男は頬を綻ばせる。

「じゃあ。おすすめを一つ」

「でしたら、アニチェはいかがでしょう」

「惹かれる響きですね。それにします」


「かしこまりましたっ」


カランカラン、と、ドアベルが高らかに響く。


アニーチェ・ヴァルネラータの店番は、始まりゆく混乱の中でも、誰にでも等しく暖かな微笑みの時間を与えるのだった。


―用語解説―


○カフェ・コレット

エスプレッソに度数の高いお酒を入れて、ホイップを浮かべる等して飲む方法。グラッパという蒸留酒を使うのが一般的。


食後酒(ディジェスティーボ)

直訳すると消化薬。イタリアの食文化の一つで、食後に強めの酒をちょびちょび飲みながら、家族や友人、恋人との会話を楽しむ、というもの。なお、消化を助けるという言い分に医学的な根拠は無い。


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