コレッタ・ラタフィーアの研究
研究助手のコレッタ・ラタフィーアが、島役場、多目的室の引戸を開けたのは、博士が午後の紅茶を啜る昼下がりの頃の事だ。
「っす。遅れやしたぁ」
「遅いッ!遅いぞコレッタ!!」
そう、ご立派な白い髭をゆさゆさ弾ませながらコレッタを叱りつけるは、海洋生物学の著名な博士、バロン・アクアヴィーテだ。
「へへ、さーせん」
「まあいいけどね。言ってみたかったの。茶ぁ飲むか?」
「あぁ。しばきてぇな茶」
壁際に荷物を適当に放り置いて、アクアヴィーテが腰かける機材の山、その隣に腰かける。
「ほれ。雇い主からの差し入れだと」
「クソありがてぇ」
そして足を組んで、受け取ったカップから立ち昇る熱々のお茶のかぐわしい湯気を楽しんで、ずずっと一口啜った。
「っくぅ、…キマるぅ」
「うム。結構。実に結構な茶葉だ」
「クソほどイカすウィードっすね」
そうして飲み干したカップを脇に置いた時だ。
ガララ、と引戸が開けられて、
「あら…あら?」
グレーのビジネススーツ姿の女性が入ってきて、怪訝そうにコレッタを見回す。
「あの。ここの部屋は関係者以外立入禁止でして」
「ああすまんねアリアンヌ女史。この小娘が、遅れてくると伝えておいたわしの助手だ」
「っす。よろしくでーす」
「…え」
その言葉に絶句したように、女はまじまじとコレッタを見回す。
ツーブロックのスパイクヘア。
左右合わせて十三の耳のピアス。
暗いパープルのルージュにアイシャドウ。
少しよれた黒基調のタンクトップとダメージジーンズ。
おまけに右腕、肩から下には、南国の魚達の群れをモチーフにしたタトゥーがびっちりと煌めく。
およそ老科学者の助手には結び付かないその成りに、アリアンヌは目をぱちぱちさせた。
ふいに彼女は手を打って、クソ忘れてた、とぼやきながら、荷物からドクロのワッペンにまみれた白衣を引っ張り出して、ばさりと羽織る。胸ポケットにだけちょこんと微笑むポメラニアンのワッペンが、妙に浮いて見えた。
「これコレッタ。ちゃんと挨拶なさい」
「うい。コレッタ・ラタフィーアっす。このじいさんの助手やってまーす。…あと何言えば?」
「週末の過ごし方とか」
「ああ。…ダチとハッパかなあ」
「友人とお茶にしときなさい」
ヒソヒソ会議を終えて、
「オトモダチとお茶してますね。週末は」
ダウナーな笑顔でコレッタは自己紹介を終えた。
「あ、あらあ。そうですかあ。差し入れのお茶はいかがでした?」
「ファーストフラッシュは好みじゃねえですが、まあ悪くはなかったっす。ごっそーさん」
銘柄のラベルもないのに時期外れのひねたダージリンを嗅ぎ分けられ、あらよかった、と、アリアンヌは少しコレッタを信用する。
「それじゃあ、揃ったようですし。仕事の話をしても?」
アリアンヌは姿勢を正し、手提げカバンからファイルを取り出し、ニコッと微笑んだ。
部屋の中央を整えて、ローテーブルと、大きな機材の箱二つをイスにして、会議が始まる。
「改めまして、私はアリアンヌ・マンダリネ。本国の環境・エネルギー安全保障省に勤める者です」
「かっこよ」
「ふふ、ありがとう。それで今回アクアヴィーテ博士達をお呼びしたのは、…もうニュースで見たかもしれないけど」
アリアンヌはファイルの中から、ネット記事のページをプリントアウトしたものを取り出し、テーブルにそっと置いた。
「おいマジかよ、じいさん、百万ユーロだってよ?」
「ホオジロザメを狩るとは、…嘆かわしいのお」
「新しいリクライニング買えんじゃねえか?」
「おお。パソコンも新調できるなあ、ってダァメじゃよコレッタ。ホオジロザメとて命。軽んじて値段を付けて良いものじゃないだろうに」
「ちげえねえ。じゃあクソマフィアにお気持ちお手紙書くか?」
「イーメールでいいだろ。メアドないんかマフィアは」
「バカ。じいさんバカがよ。SNSだろ時代は。なあアリアンヌ氏。ヴィン・サントってティックトックやってねえんすか?」
「知らないわ。話を続けるわね」
「ええどうぞ。メアドはわしが探す」
「っクソ、やってねえじゃんティックトック。じゃあ…インスタは…っと」
しきりにスパイクをデコったスマホと、化石みたいなノートパソコンと各々格闘する二人を放っておいて、アリアンヌは何枚かの紙束を取り出す。
「こほん。アクアヴィーテ博士の仰る通り、あらゆる環境保護や動物愛護を提唱する団体から多くのご意見が寄せられまして。イタリア政府としても対応に困り」
「で?じいさん呼んだんだ」
「え、ええ。世界的な権威をお持ちのアクアヴィーテ博士からなら、サメを痛めつける事なく追い払う方法を教えていただけるのでは、と」
「っく、ジーメールはダメじゃ。あとは何があるかの」
「お、インスタやってんじゃん。じいさん、宣戦布告のギグといこうぜ」
「…それ『なりすまし』ってやつじゃあないのか?」
「っへへ。クソヴィン・サントを名乗ったことを後悔させてやりゃあいいだろ…んだよこのクソ可愛いクソ犬どもはよ。後でいいね爆撃だクソチクショウめが」
「うム。好きにしなさい、コレッタ」
「で、アリアンヌ氏?」
スマホをしきりにスワイプしテキストを認めながら、コレッタは話に戻ってくる。
「は、はい」
「狩猟やら電撃やらは愛護団体どもにクソ叩かれるって?」
「ええ。恐らくは」
「じゃあ、ギグと洒落混むしかねえっすよ」
「ええはい…え、何て?」
よし、とヴィン・サントと思しきインスタアカウントに宣戦布告を終えたコレッタは、一つ伸びをして続ける。
「音っすよ。『音波』。…サンプリングが課題っすけど、迷い込んだクソホオジロ、その個体が嫌う音を特定し、その魂にぶつけてやればいい。だろじいさん?」
「そういうことじゃ、アリアンヌ女史。早急にサンプリングのための機材と、録音チームと編集チームの用意。それと水中で十分な音を出せるスピーカーと速い船も欲しいのお」
「な、なるほど。急ぎ用意させます」
「ああ、あと最高にパンクなCDも頼めます?」
「それはアマゾンで頼みなさい。コレッタ」
「バカ。じいさんバカがよ。あーしが持ってきてねえわけねえだろが」
「サブスクじゃないんだ」
アリアンヌはぼやきながらも広げた資料をテーブルの端にさっとまとめ、
「ああそだ。その資料。PDFでも貰っていいすか?」
「わかりました。後でアクアヴィーテ博士宛に送らせます」
「まあサメ退治は期待してくれていいっすよ。最高のギグにしてやっから」
「ふふ。それではまた、後程」
コレッタの白衣、デスクに向かう彼女のパンクに染まった背中に一礼をして、入り乱れる期待と不安、主に不安に後ろ髪を引かれつつも、多目的室の引戸を出ていった。
カントゥチーニ島の西日が島役場の窓から差し込んできた。
コレッタははっとして、窓辺に歩み寄り、そのマンダリンオレンジを思わす鮮やかな眺めに、しばし見惚れる。
「クソ綺麗だな、おい」
「コレッタ。こいつを運ぶの手伝ってくれんか」
「…あークソ。危ねぇな、もっと早く言え」
こうして、コレッタ・ラタフィーアの研究、サメとの無血の戦いが始まるのだった。