ビアンカ・レゼンティンの災難
カントゥチーニのマイナー出版社の記者ビアンカ・レゼンティンが、『サメ狩り』の取材にと南部の港に駆り出されたのは、正午を回り日が傾きだした頃の事だ。
「うん。…うん、そうね。…ママ、ちょっと三、四日仕事で帰れないの。だからおじいちゃんとおばあちゃんの言うこと、しっかり聞くのよ?…ふふ、いい子ね。…うん。ママ、頑張るから。それじゃマリオ、おじいちゃんかおばあちゃんに替わってくれる?」
「わかった!んんまっ」
スピーカーの向こうからどたどたと聞こえてくる足音に、ビアンカは笑みを溢す。
「ホントに大丈夫なんかえ?レベッカや」
「大丈夫よママ。危ないことはしないわ」
「あんたぁいっつもそう言って」
「はいはい、お説教は聞き飽きた。そろそろ出港だから、もう切るわよ」
「ちゃんとゴムかピルは持ったかえ?漁師は飢えとる。これ以上バツ増やすんじゃ」
「もーわかったわかった。私ももう、ティーンじゃないんだから、節度はありますって」
「あれはわしがが十四の時じゃった。港の桟橋を」
「切るよー」
「これビアンカ」
「愛してるママ」
「ビアンカっ」
「なあに」
「気を付けてな」
「うん。じゃ、マリオをよろしく」
はいよ、と電話が切れる直前の、寂しさを感じさせる母の声色に、ビアンカは少し憂鬱になった。
「ビアンカ。ニュース見たか」
朝の日差しがまだ僅かに感じられる頃、上司のベンがコーヒーカップを差し出しながらデスクに腰かけてくる。
「どのニュース?時の俳優の三又騒動かしら」
ビアンカはうんざりしながら彼の差し出すカップを受け取り、一口すする。
「サメだよサメサメ。サメが出たんだ」
「ああ。新しいのが公開されたの。よかったわネ」
スマホのニュースアプリを開いて、新着欄をさらさらとスワイプで流し見していく。
「違うよッ、ビアンカまたサメ映画をバカにしたな次バカにしたら俺のコレクション全部夜通しパーリナイのサービス残業だ覚悟しろレポート文字数は百万」
「百万ユーロの懸賞金?へえ、大盤振る舞いじゃない」
ニュースアプリでようやくベンの言わんとするホオジロザメが出たという記事にたどり着き、その見出しに目を丸くした。
「そうそれだ。マフィアのヴィン・サントが、サメに懸賞金をかけたんだよ」
「ビーチが遊泳禁止となれば、夏のしのぎも減るでしょうしね。慈善事業にも見せかけられて一石二鳥かしら」
そんなビアンカの眼前、スマホの画面を遮るように、ベンは、
「っちっちっち」
と指を振る。
「うざいわ。邪魔よ」
「甘いよビアンカ」
そう得意気なベンを、ビアンカは顔を上げて鬱陶しそうに睨む。
「マフィアがどうして、こんなばかでかい懸賞金をかけたと?」
「慈善事業って言わなかった?私」
「だから甘いんだよ。いいか?ビアンカ」
ベンはぐいっと身を乗り出して、小声になる。
「俺はこのサメの喰ったブツにこそ、問題があると踏んでいる」
「記事にはそんなこと一切書いてないわ」
「書くわけないだろ。だって違法なブツかもしれねえんだぜ」
「あっきれた。夢か映画の見すぎよ」
「よぉしサービス残業確定。…ポップコーンはキャラメル派?」
「デート誘うなら普通に誘いな?」
「とにかく!」
ベンは、ぽん、と手を叩く。
「マフィアの狙いは、サメの腹に眠る百万ユーロが霞むほどのブツだ。そう思わないか?」
「まあ、ドラマチックではあるかも」
「ソイツを君に解き明かして欲しい」
「…」
ビアンカはオフィスチェアを回転させてまばらな職場を見渡すが、みんながみんな、各々の仕事で忙しそうだ。
「…私しか居なそうね」
「大丈夫。何も君がサメを殺せってんじゃないんだ。安全そうな船に同乗して、遠くからサメの狩りを…あ、できたらその様子をスマホでビデオ撮影して欲しいなあ」
「できたらね」
「で、サメ狩りが終わったら、そのサメの解体を一番に申し出るんだ」
「サメの三枚下ろしなんてできないわよ私」
「いい、いい。ナイフで腹をまっすぐ一文字。これだけでいい」
「消化されてる心配は?」
「サメは消化が遅いんだ。運が良ければマフィアのしたっぱと会えるかもな?」
「っげぇ、最悪な想像しちゃった」
「何はともあれ安心安全。二十四時間、プロのサメアドバイザーが電話対応してくれる。何かあったら電話してくれ」
「おおっ、やるわね。予算大丈夫なの?」
「いや俺俺ぇ」
ベンは自分のスマホを掲げながら、いつもの憎めない笑顔を浮かべているものだから、ビアンカはわざとらしく肩を落とす。
「ってか、地中海の沖って、電波届くの」
「…」
「大丈夫っしょ!」
『これより出港。ボーナスは色付けてね』
はあ、とビアンカはため息を溢す。
『現ナマかサメ映画優待券一年分、どっちがいい?』
二度目のため息でスマホを温めて、メッセージアプリを落とし、スマホをしまう。
そして、よしっ、と気合いをいれて港案内所の日陰から一歩踏み出した。
桟橋の向こうに広がるは一面のコバルトブルー。
午後の亜麻色の日差しをチラチラと照り返して、その眩さに目眩すら覚えた。
その目眩に任せるようにふらふらと活気づく港を歩いていると、
「サメ狩りウォッチングツアー!サメ狩りウォッチングツアーの受付は、こっちらぁあ!」
即席で作ったらしい、ちゃちなプラカードを掲げる漁師とは無縁そうな小太りの男と、そこにできる五、六人の男女の人だかりに目が留まる。
後ろに停泊しているのは中型の、最新式のクルーザー。
甲板で、同じプラカードを掲げる髭の男がにやにやと宣伝しているから、スタッフはともかく、船は間違いないだろう。
「すみません」
ビアンカは迷う暇なく声をかけていた。
「はいよお嬢さん。ツアー参加をご希望かな?」
「ええ。記者なんだけど。このツアーは特等席から『狩り』を見られるのかしら」
そう言って社員証を提示する。
「オォウ!こいつぁいい目をお持ちなようで!ウチのツアーなら間違いないっすよォ!?」
「自分の目には自信がなくって。ホントに安全?」
「もちろん!規約もこの通ぉり、セニョリータ」
「あらそう」
男の提示する規約に目を通すが、読む気が失せるほど小さな字でびっちり書かれていて、日差しとの合わせ技でよけいくらくらした。
「キャプテンも雇った漁師もみーんな、プロ!ご安心くださいよォ」
「プロ、ねえ」
直近でがっかりした言葉ランキング上位の言葉に、ビアンカは思わず眉をしかめるが、
「失礼」
そう言って、壮年の男女が脇を通り抜けていった。
きつい蒸留酒の残り香に、ビアンカは思わず鼻先を手で扇ぐ。
「ストラヴェッキ・バリカータ。あの男ですよ。雇った漁師。後ろにいた女がうちらのクルーザーのキャプテンね。ジェンツィアナ・リグリーゼ」
「…へえ?」
クルーザーの陰に停泊していたおんぼろの漁船に、ストラヴェッキは一人乗り込んでいく。ジェンツィアナは桟橋に腕を組んで立って、クルーザーの外観を観察しているらしい。
「何でも漁の腕前はピカイチで、過去に何匹もでかいサメを殺してるとか。んで、ついたあだ名は、『鮫殺し』」
「…その男をウォッチングするツアー、ってわけ」
「そういうことです」
ベンが喜びそうな設定ね、とビアンカは肩をすぼめ、
「いいわ。参加させて貰おうかしら」
「ありがとう!そうこなくっちゃあ!おいジキル!お一人様だ!」
ジキルと呼ばれたクルーザーの甲板に立つ男も、グラッツェ!と叫び、間もなくして六人の学生と一頭の犬と一緒に、船に押し込まれた。
「どうも」
隣の席に腰かけてきた気弱そうなメガネの男子に挨拶される。
「ええ、どうも。…バカンスかしら?」
「そんなとこです。ホントは友達の別荘に行くはずだったんですが」
「あらら。渋滞ひどかったものね。あたしも取材で来たんだけど、大変だったわ」
「取材…記者の方で?」
「ええそうよ」
しばらく話し込んでいると、ぷしゅっと缶ビールのプルタブを引く爽快な音を聞かせながら、がたいのいい黒人の男子が向かいの席に腰かけた。
「どうも、お姉さん。うちのロロに口説かれてたんすか?」
「ええそんなとこ。笑顔がチャーミングね彼」
ロロと呼ばれたメガネ男子はチャーミングにはにかみながら、こめかみを掻いている。
「あなた達は『サメ狩り』には参加しないの?」
「参加のつもりだったんすけどねえ」
がたいのよさがはっきりわかるくらい、ティーシャツをピッチリさせる伸びをして、
「みんなに全力で止められちまいまして」
「それでウォッチングツアーに?」
「ええ。不本意ながら」
「バカなんです、このナッツって男は」
ナッツと呼ばれた男子は、いやそれほどでも、と照れている。
と、そこへ、
「ささ、お客さん方もスマホをこちらに」
ジキルがにっこり笑いながら防水バッグの口をこちらに向けてくる。
「え、預かるんすか。聞いてねっすよ」
「あれ、ハイド言ってねえのか?まあでも同意した規約は読んだでしょ?そこに書いてあるから、ほら、スマホをここに」
ジキルはぐいぐいとバッグの口をナッツに押し付ける。
すでに女の子達はスマホを入れていたらしく、しぶしぶナッツも、ロロも、バッグに自分のスマホを入れた。
そしてジキルは、あんたもですよ、とビアンカにも袋の口を向ける。
「上司に狩りの様子を撮影してこい、って言われてるの。カメラに使えるのこれしか持ってきてなくて」
「ダメダメ、セニョリータ。規約違反はすぐに船降りてもらうよ」
言い分け虚しく、ビアンカは肩をすぼめつつスマホをバッグに放り込んだ。
「グラッツェ。これら貴重品は下船まで船内金庫で厳重にお預かりしますんで、ご安心を」
そう言ってジキルはバッグのジッパーを閉じて、満足げに船室に降りていった。
「俺、規約読まない派」
「僕も」
「ちゃんと読みなさいよ」
クルーザーのエンジンが点いた。
もやいが解かれて、桟橋はみるみる離れていく。
「あら」
ふいに、一頭のフレンチブルドッグが膝に飛び乗ってきて、手すり越しに、離れゆく桟橋を儚げに見つめる。
へえへえという呼吸音が、波間に溶けていく。
乗る船、間違えたかしら。
桟橋でニコニコ手を振ってくる、受付の痩せぎすの男と目があった。
ビアンカはその不気味な笑顔から逃げるように、
「いい子ね」
「わふんっ」
犬を隣のロロに抱かせて、一人船室に入っていく。
最新式の設備に囲まれながら、リビングのソファに深く腰かける。
「…ふぅ」
ビアンカ・レゼンティンは人生最大の災難に片足を突っ込んでいると、知ってか知らずか、ため息を一つ溢すのだった。