ノッチーノ・チノーリの決意
ヴィン・サントの幹部、ボスの右腕とも言える男ノッチーノ・チノーリが、一人アジトに倒れ込むよう帰り着いたのは、午前四時頃の事だ。
「ノッチーノさんッ」
「ノッチの旦那ッ、お気を確かに!」
愛する家族に声をかけられながら、ベッドに担ぎ込まれたのが、朦朧とする意識の中、彼が最後に視界に捉えた景色だった。
愛する、家族。
愛する家族。
炎上するプレジャーボートがゆっくりと沈んでいく。
小型クルーザーをフルスロットルで走らせても、間に合うわけもなく。
黒い大波の中で、炎の朱色をくっきりと照り返す、白い死神の無数の刃が、確かに脳裏に焼き付いている。
ポルコ。
セレナ。
そしてヴォヴ。
三人の家族が、惨たらしく、その凶刃をもってして喰い散らかされたんだ。
「待てッ」
目覚めて最初に視界に捉えた景色は、見慣れた寝室の天井だ。全身が海に浸かった後のようにぐっしょり濡れていて、
「っぐ…痛え…ッ」
左腕に巻かれた包帯が、寝覚めの身動ぎにじんわりと血を滲ませた。
と、そこへ、
「ノッチの旦那ッ」
声の方に顔を向けると、開け放たれた寝室の入り口に、組織お抱えの闇医者チェンテルベが目を点にして立ち尽くしていた。が、
「す、すぐにボスを呼んできますッ、少々お待ちをッ」
慌てた足取りで、朝日の満ちる廊下の奥へ消えていく。
「おお、ノッチーノ」
それから間もなくして、頬を涙で一杯にした白髪の老人、ヴィン・サントのボス、カンディアス・マルヴァジーアが、歳に見合わぬ機敏さで駆け込んできたかと思うと、
「無事でッ、何よりだッ」
ベッドで上体を起こしていたノッチを強く抱き締めた。
「…ボス。すみません」
「いいんだ」
「取引を」
「いいんだ、ノッチ」
「…家族、を」
「何も言うな、ノッチーノ」
「…ダメに、しちまいましたッ」
悲しさと悔しさに震えるノッチを、カンディアスはただ、黙って、優しく抱き締める。ノッチもその優しさに包まれて、たまらず涙を溢れさせた。
「…それで」
ひとしきり泣いたノッチを、そっと楽な姿勢に寝かせると、ボスはチェンテルベが用意した椅子に腰掛け、
「一体、どこのどいつに、うちの子達がやられたんだ」
怒りに声を震わせて、静かに問いかけた。
そして、ノッチはその問いに一つ身震いをして、
「六メートル…いや、八メートルは、あった」
ゆっくり、言葉一つ一つを、噛み殺していくように、語り始める。
「でかい、ホオジロザメに」
「ポルコも、セレナも、…ヴォヴも。俺の、左腕も。みんな、喰われちまいました」
血濡れた包帯を睨み付け、
「クソォオッ」
怒りのままに右の拳がベッドをぶち鳴らした。
「サメ…か。っふ、悪運の中の悪運だな。それで、取引のヤクも沈んだのか」
「あのクソ畜生がキメてなければ、海の底でしょうね」
「子供達の遺体はすでにサツに奪われたとの情報も入っている。奴らの捜査が、オレ達の取引を嗅ぎ付けてくるのも時間の問題だろうな」
「…回収しようにも、サメがまだ近くに居るかも」
「おう。いたずらに子供達を死地に追いやるほど、オレも愚かじゃあねえぞ」
「サメを殺す以外、手詰まりじゃあねえです、ボス」
「いいや」
「金を積むんだよ、ノッチーノ。サメの首に懸賞金をかける。金に目が眩んだ島の民やらに、邪魔なサメを狩らせるんだ」
「ナメられますよ、そんな事しちまったら」
「構わんさ。サツも取引の捜査より島の民どもの取り締まりに手一杯になって、その裏でオレ達ぁヤク回収の準備を進められる」
「三人の仇討ちができねえでしょうよッ!!」
ノッチは怒りのまま身を乗り出した。
カンディアスは笑いながら、しかし確かな怒りも滲ませながら、強く優しくノッチを再び座らせる。
「ノッチ。心配するな。あの子達三人でも手間取った相手だ、オレも島の民なんかに殺せるなんて期待しちゃあいないぜ」
「だったら、最初っから俺達で袋叩きに」
「そう。最後にサメを討つのぁ、オレ達さ。サメに狩人どもをたらふく喰わせてよぉ、動きが鈍ったところをオレ達がかっさらうんだ」
「…なるほど」
「いつも言ってるだろ。なあ、ノッチ。オレぁ、なんて教えた?」
「頭を、使え」
「そうだろ?復讐に身を任せるのは、愚かだ。美しくない。『仇討ち』ってのは、よく考えて、頭を使って。美しくフィナーレを決めねえと、鎮魂歌にはならんのさ」
「…わかり、ました。ボス」
ノッチの頷きに、カンディアスはにっこり微笑むと、
「おいヤブ。ノッチの腕は治んのか」
後ろで立ち呆けていたチェンテルベは、突然のその呼び掛けに肩をびくつかせる。
「皮膚と筋肉はずたぼろですが、骨と神経は辛うじて無事でした。ですからぁ」
「治んのか?」
「以前のように、とはいかずとも、…エエハイ。まあ」
「そうか。しばらくはゆっくり休めよノッチ。一週間もすればサメも弱るだろう」
カンディアスは、ふう、と一息ついて俯く。
「後で、ポルコが教えてくれたバールに行ってみるか。そこのピッツァはあの子の舌を唸らせたんだ間違いねえだろ」
「…ヴォヴとセレナを送る花束は、綺麗で可愛いブーケにしてやりたかったぜ。すまねえな二人とも。…許せよ」
しばらくの黙祷で祈りを捧げてから、カンディアスは立ち上がると、
「白い死神だかなんだか知らんが、オレ達マフィアに喧嘩売ったこと、後悔させてやろうじゃあねえか」
一歩一歩踏みしめるような強い足取りで、部屋を後にする。
「ええ。…殺してやりましょう。ズタズタに」
そしてノッチーノ・チノーリも、その大きなボスの背中に、決意を誓った。