ダニエル・トレビアーノの後悔
新米刑事のダニエル・トレビアーノが、相棒に連れられて初めて島のバールに訪れたのは、昼休憩の真っ只中、正午手前頃の事だ。
「食後酒はいかがなさいます?」
カフェ・ヴォルゲッテのテラス席。
ウェイトレスの亜麻色の髪がパラソル越しでも太陽をよく照り返し、ダニーは思わず顔をしかめる。
「あー、いえ。結構です」
こんな時に酒なんて飲めるか、と、ダニーはため息混じりに返事をするが、
「濃ぉくて甘ぁいやつ、頼むぜェ。お嬢ちゃん?」
向かいの席に座っていた相棒のルッチは舌舐めずりをしながら下品に笑っている。
「かしこまりましたっ。ではアニチェはいかがでしょう?」
「いいねえ。エロそうだ」
それを聞いてウェイトレスはニコッと笑うと、すたすたとカウンターの奥へ消えていく。
ダニーは彼女の背中を流し目で見送った後、
「…ルッチ。ルチアーノ・サンジョヴェーゼ」
呆れきった口調で相棒の名を呼ぶと、
「なんだいダニエル・トレビアーノ君」
ルッチはいつもの人懐っこい笑みで応じた。そんな彼に対して、ダニーは腕を組んでわざとらしく眉をしかめてみせる。
「白昼堂々セクハラは如何なものかと思いますよ」
「おぉいダニー、白昼堂々のハラスメントハラスメントはよせよ」
「ったく、堂々巡りは勘弁してくださいよ」
ダニーは肩を落として頭を抱える。
「いいですかルッチ。あんたは上司で、俺は島じゃあまだルーキー。だから何言っても聞いてくりゃあせんでしょうが、これだけは、言わせてください」
「うん。一個だけな?」
「…っ」
ダニーは大きく息を吸って、言ってやるぞ、の意気込みだけは見せたものの、ルッチのにやけた顔を前に呆れは臨界点を超えて、
「はぁぁあ…やっぱ、いいです」
深い深いため息だけが、オーバーヒートの水蒸気のように溢れていった。
そんなダニーの呆れにルッチが腹を抱えて大笑いし始めた、そこへ、
「お待たせしました。アニチェになります」
カウンターの奥からすたすたと現れたウェイトレスは、またニコッと笑って、太陽を含んだ透明が満たした可愛らしいグラスをテーブルに置く。そして、ごゆっくり、とだけ言い残して、店内テーブルの常連客のもとへ歩いていった。
ルッチは、きたぜきたぜ、と嬉しそうに笑いながら、くいっと一気にアニチェを飲み干す。
「ルッチ。これから仕事ですよ?」
「っかっはぁぁあ、ああいいのいいのぉ。ランチの後もディナーの後も、食後酒は欠かせねえんだよな、おれ」
「勤務中の飲酒の、正当な理由になってません。…というか、『消化薬』とは言いますが、ホントに効果あるんです、そのお酒」
「おうともさ。食後のもったりした食道と胃をすっきり洗い、かつ、確実に的確にアルコールを肝臓に届けもする。こいつは医学的に間違ってねえぜっ」
「なるほど酒飲みの理屈ですか。もう結構」
ダニーはチップと勘定をダンっとテーブルに置いて、ごちそうさまでした、と、店内バーカウンターでグラスを磨く店主に挨拶し、ルッチを置いてさっさと石畳の通りを歩きだす。
それから十数歩ほど遅れて、勘定を済ませたルッチが小走りで追い付いてきて、いやあ食った食った、とランチの余韻に浸るよう腹をさする。
さんさんと照りつける太陽が白い石畳に反射して、汗がじんわりと吹き出してきた。
ダニーはシャツの袖を捲り直し、胸ポケットのサングラスをかけ、雲一つ無い青い空を見渡す。
地中海性気候のからっとした真夏の昼下がり。
隣からむんむんと漂うアニスの香りに少しくらりとしながら、ダニーは足早に職場への帰路につく。
「戻りました」
午前の見回りと昼休憩を終えて署のデスクに戻ると、
「おう、おかえりよ」
オフィスの掃除をする署長とすれ違う。
「ラ、ラツィオ署長っ、掃除なら自分がやりますよ」
「ん?いいよいいよォ。君は君の仕事をなさいよ。ワシの掃除は昼休憩の趣味だから」
「はあ」
ラツィオ署長はそう言って、再び鼻歌交じりにモップがけにいそしむ。
「君は君の仕事を、って言われてもなあ」
ダニーはそうぼやいて席に着くが、
「署長の掃除はうちの署の名物よ、覚えとけルーキー。っへへ」
と言いながら隣の席に深々と腰かけた、酒気を纏う笑みを溢すルッチに理不尽を覚える。
「…なるほど。勉強になります」
そう適当に返事を済ませたダニーが、署長に習って掃除でもするか、と、机の上に散らばる片付いた仕事の資料をまとめ始めた矢先、
「暇そうだね、キミ達」
「サンデー警部っ」
爽やかな笑みを讃えたサンブーカ・ヴァルネラータ、愛称サンデー警部の来訪に慌てて起立し、敬礼する。
「おいおいダニー。まだかたいなお前。ルッチ、どんな教育してるんだ」
「ちょうど今、ヴォルゲッテに連れてったとこっすよ」
「おおそうか。昼からバールとは一歩前進だな、真面目ボーイ」
そんな彼の爽やかスマイルに萎縮するように、ダニーは肩の力を抜く。
「で?アニーチェは頑張ってた?」
「え、ウェイトレスの子ですか?恋人にしちゃ若いっすね警部」
「あれ、言わなかったっけ。妹だよ俺の」
『妹』というサンデー警部の言葉に、ルッチは小さくうげっと悲鳴を上げ、
「ええ、そりゃあ、もう。厄介な客も、とびきりの笑顔で、あしらってやしたとも」
「厄介な客だと?…ったく、変な虫が付いてなきゃいいが」
そんな相棒のぎこちないスマイルに、ダニーは失笑する。
「ところで警部。バール帰りの不真面目なコンビに何かご用事でも?」
話題を早急に変えたいルッチは、警部の抱える資料を顎でさしながら姿勢を整えた。
「ああそうそう。そうだった。誰か手隙がいないかデスクを回ってたんだよ」
「仕事ですか」
ダニーも姿勢を正し、身構える。
「そう。今朝、南東のビーチに遺体が上がったらしくてさ」
「えぇッ、それ財務の仕事なんすか?普通なら地方の仕事でしょう?」
「『普通なら』、そうなんだけどさ」
サンデー警部のため息にダニーは察しがついて、
「『ヴィン・サント』…ですか」
その一言に、警部はため息混じりに頷く。
「マフィア達の違法な取引があったんじゃないかと、今朝、遺体の通報を受けた地方警察が泣きついてきた」
「っへへ。取引がご破談になって、海の上で撃ち合いでもしたんすか?」
「そうだったら、楽なんだけどさぁ」
警部はガックシと肩を落としながら、資料をダニーに手渡す。
「まあ、ちょっと見てきてよ。かなりひどいらしいよ、彼ら」
ダニーは『彼ら』の遺体の検死結果、解剖記録の記された資料を流し見て、
「サメの襲撃…?」
その死因と、判別不明にまでぐちゃぐちゃに混じった人数不特定の肉塊の有り様に、言葉を失った。
「サメが出た、となれば当然島中のビーチは遊泳禁止に。州知事もこのバカンスのシーズンただ中、観光資源に大打撃ってんで、大慌てだよ」
「うぉおおい、勘弁してくれぇ。今週末は娘っ子どもの家族サービスだったのによお」
「そいつは残念、三児のパパさん。たまには市民プールでもどうだ?」
嘆くルッチを、サンデーは肩をさすりながら励ます。
「あんなガキのしょんべん混じりの水溜まり、最悪っすよ!」
「何言ってんの。それなら海はお魚さん達と全人類の糞にょ」
「っだああ。サンデー警部。堂々巡りは勘弁してくださいよ」
「はいはい。…それで?」
資料に釘付けなダニーの肩をぐいっと組んで、サンデーは頭を抱える二人を見比べるように問いかけた。
「その事件の初動、頼んでいいかい?」
ダニエル・トレビアーノは、後にこの時の選択を大いに後悔するとも知らずに、
「ええ。やります」
信念に燃える瞳で、強く返事する。
「かたいなあ真面目ボーイ。気楽に行ってこい」
「はいッ」
「へーい」
―用語解説―
○カフェ・ヴォルゲッテ
カントゥチーニ島の中央区商店街に店を構える老舗のバール。従業員は自称看板娘のウェイトレスと、店主の二人。繁忙期にはアルバイトも何人か雇っている。
○アニチェ
アニスのリキュール。独特な香りと味わいで癖が強いため、飲んだら道は二つ。大嫌いになるか病みつきになるかのどちらか。
○ヴィン・サント
カントゥチーニ島に拠点を置くマフィア。
○イタリアの警察組織
》国家憲兵…カラビニエリ。国防省に所属し国内で治安維持などの職務を行う。軍事組織としてイタリア軍の一角も担う。
》国家警察…内務省所属の文民組織。軽犯罪、交通事案、通信・インターネット犯罪事案、鉄道内における治安維持、山岳地帯における救難事案などを取り扱う。
》財務警察…経済財政省所属の準軍事組織。密輸や麻薬取引、不法移民の取り締まりが担当。
〉イタリア沿岸警備隊…海上交通整理、捜索救難、漁業監視、不法移民の監視。財務警察が役割を担う。
》監獄警察…司法省所属の文民組織。刑務所の警備・管理・運営および受刑者の移送を行う。
》自治体警察…軽犯罪や反社会的な傾向を取り締まる。
》地方警察…違法な狩猟や釣りを取り締まる。




