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Digestivo 太陽の 鮫―スクアーロ―  作者: 29-Q
本章 ―Principale―
15/18

奴を追え

「…っくぅう、うまかったあ!」


 ダニーは満足げな笑みを浮かべながら、カウンターにショットグラスをコンと置く。

カフェ・ヴォルゲッテの優しい明かりの下。

サービスで貰ったサンドイッチを一瞬で平らげ、その勢いのままにカプレーゼも一皿頼み、そうして食後酒アニチェを一杯、飲み終えたのだった。

それからじんわりやって来たアルコールの心地良い微睡みに身を任せるように、ダニーは頭上の小ぶりなシャンデリアをぼうっと見上げて、


「ああ、ホントうまかった…ぁ」


恍惚とした表情で、ポツリ呟く。

「お兄ちゃんよりオーバーな人、初めて見たっ」

アニーチェは腑抜けたダニーにくすくす笑いながら、カウンター上の空いた皿やグラスを流しに持っていき、こちらに背を向けガチャガチャと洗い物を始めた。

「ったく、お前はいつも自分を過小評価する。ほらコイツの顔見てみろよ、カプレーゼ、自信持って良いんだぜ?」

一瞬振り向き、

「寝…いや気絶してない?」

半目のダニーにぎょっとして作業に戻っていく。

「自信をもっと持てアニーチェ」

「カプレーゼなんてただ混ぜるだけなんだから、誰にでもできるって」

「そんな事はない。間違いなく、ここらのバールじゃ一番だ」

「それ常連さんにも言われたな…」

「そうだろ!?その人もよくわかってるなぁ!」

「でも…他の料理、まだ作らせてもらえないし。マスター的にはまだまだ、って事なんじゃないかな」

「マスターはわかってないんだよ。今度会ったとき文句言っといてやる」

「もうっ、良い迷惑ですー」

そう言ってアニーチェは眉をしかめて振り向き、冗談冗談、と頭を掻くサンデーの笑みにため息を溢しつつ、洗った食器を水切りラックに並べていく。

そして一通りの作業を終えると、丁度良いや、と手を打って、

「ちょっと裏の片付け行ってくるから、お兄ちゃん店番してて?」

「俺、客だぜ?」

「町の安全のためですっ、警部」

おどけるサンデーに意地悪な笑みを浮かべて敬礼し、アニーチェは従業員用のドアの奥へと、小走りに消えていくのだった。


ふう、と、シガレットの煙を燻らすサンデーの吐息が、静かな店内に響く。


「かわいいだろ。俺の妹」


半分眠りに落ちていたダニーはサンデーの一言に肩をびくつかせ、垂れかけのよだれを慌てて紙ナプキンで拭い姿勢を正す。

「…ええ。警部に似て」

「はは。それは気のせいだな。だって腹違いだし」

「そうなんですか」

「…ちょっと複雑な家庭でね。あの子はあの子の母親に似て、かわいいんだ」

「そう、なんですね」

水切りラックからトレーに滴り落ちる水滴を、ダニーはじっと見つめる。

ピカピカになった食器を眺め、その醸し出される生活感から目をそらすよう、俯きながら、思わずため息を溢した。

「あの子の母親は、十の時に死んだんだ。なんでもない、よくある交通事故さ」

「以来…一緒に?」

サンデーは黙って頷く。

「フィレンツェ南部の何て事ない平凡な母子家庭。当時ガキだった俺から見ればそうだったんだが…母さんからしたら、アニーチェは愛人の子な訳で。俺の背が伸びるにつれて、アニーチェへの陰での虐待が見えるようになっていった」

灰皿にシガレットの灰を落として、当時を思い出すように眉をしかめる。

「…父親は?」

「…さあね。母さんは俺に一度も話してくれなかった。いや、話したくなかったんだろう」

「よっぽど無責任な人だったんですね」

「言ってくれるねえ。理由もあったかもしれないんだぜ?」

「子供に悲しい思いだけ押し付けてったんでしょう?アニーチェさんだけでなく、あなたにまでも。俺は許せないですよ、そういう大人」

真面目だねえ、と苦笑いを溢して、

「ただ、アニーチェは一度だけ会った事があるらしくてさ。大きくて温かい手の人だった、って。いつも嬉しそうに話してくれてた。…だからかな」

「…」

「あれが極悪人に残せる笑顔だとは、俺には思えなかったんだよ」

サンデーは最後の一吹きを楽しんで、灰皿にシガレットを押し付ける。

「俺はフィレンツェにあの子の父親を繋ぎ止められなかったし、母親の陰をすぐに見出だす事も出来なかった」


「それならせめて、良い兄でいてやりたい。そう心に誓って、あの子をこの島に連れ出し、今日も生きている」


「もしかして、警察になったのは父親を探すため?」

「はは。それは論理の飛躍が過ぎるぞ真面目ボーイ?飲み足りないか?」

そう言ってサンデーは慣れた足運びでカウンターの中に入り込んで、棚から最初に目についたサンブーカのボトルを手に取り、

「ちょっと。警部までハラスメントですか」

「可愛がりだよ」

二つのショットグラスに並々注いで、

「同じですよそれ…」

「聞こえはいい。だろ?」

ウインクをする。

ダニーは彼に()()()()()()であろうルッチの新人時代を思いながら、

「…警部の愛に」

「お前のくそ真面目に」

グラスをカチンと重ねて、その透明を一気に飲み下した。


それから何杯か飲んで、サンデーと二人してアニーチェに叱られた気がするが、夢見心地だったダニーはあまり覚えていない。



頭が痛い。

掻いても揺すっても、変わらず痛い。



頭の中に鋲を放り込まれ、スプーンで丹念にかき混ぜられるかのような痛みに呻きながら上体を起こすと、


「あ、おはようございますっ」


「ん…んんん?」


見慣れないアパートの一室。

少し乱れたベッドの上で目が覚めたらしい。


ハーブのような爽やかさと花の蜜のような甘い香りに包まれながら、ダニーはゆったり伸びをする。

「よく、眠れたみたいですね」

「うん…」

視界の端々で、忙しそうな朝の喧騒が、ぱたぱたと耳をくすぐる。

「朝ごはん簡単に作っておいたんで、よかったら食べて下さいっ」

「ふあぁ、あ。ありがと」

鼻をくすぐる香ばしいバタートーストの香りに、思わず頬が綻ぶ。

「あたし、朝の仕込みあるんでもう行きますけど」

「うん」

頬を撫でた朝の風が、清々しい始まりを予感させ、

「鍵は…じゃあ、ポスト入れといて!」

「はーい」

穏やかな気持ちで満たされたまま、

「それじゃ刑事っ、行ってきまーっす」

「気をつけてぇ」

玄関の戸の向こうに消えていく、亜麻色の髪をなびかすアニーチェを笑顔で見送り、ふう、と息を溢した。



「ッんん!?」



しかし楽園の静寂は一瞬だった。

見知らぬ窓の外の景色から吹き込む真夏の風はパンツ一丁にはあまりにも肌寒く、ダニーは甘い香りに満ちるベッドの上で瞬時に青ざめる。

そして乱れたシーツを震える手で握り締め、

「俺、昨日…あれ?え?さっきのアニーチェさん、だったよな??」

昨晩の出来事を思い出そうとする度に走る悪寒に、

「…え?あれ?昨日、…俺…ッ」

冷や汗と共にどんどん縮こまっていくが、



「おう、起きたか真面目ボーイ」



一番聞きたかった声にベッドから跳ね飛び、

「け、警部ぅぅうッ」

シャワー上がりの腰巻きタオル一枚、サンデーの胸板に思わず飛び込んでいた。

「おいおいなんだよ。真っ青じゃないか」

「ありがとうっ、ありがとうッ」

「わかったわかった。離れてくれ酒臭いんだから」

「俺てっきり…ッ」

「安心しろ。妹に指一本触れでもしてたら、お前に今日という朝は無かった」

「ですよねえ…ッ」

「それより真面目ボーイ。朝方からケータイ鳴りっぱなしだったけど」

「…え?」

「ルッチから二十回は電話来てたかな。可愛そうだったから、ダニーはまだ寝てるって、俺から電話しといたぜ」


窓の外で小鳥が囀ずる。


「…今、何時です?」

「んー…九時半」

「…ぅゎあ」



「おめでとう真面目ボーイ。寝坊の実績解除だな。まあ、ひとまずシャワーでも浴びてこい。臭いぜ」




「おい小僧(モネッロ)。ちょっとこっち来てくれや」

 今朝の一件でルーキーから小僧に格下げとなったダニーは、ルッチの呼び掛けに、はい、と答えて白い砂浜に足跡を残していく。

「この流木どかすぞ。そっち持ってくれい」

そして指定された一メートル八十はある大きな流木の湿気た端を掴んで、

「せえ、んのッ」

ルッチの掛け声で横にずらす。

すると、

「うわッ」

「げぇッ」

住み処を追われた小ガニ達がわらわらと百匹近く一斉に這い出てきて、ダニーとルッチ、いい大人二人がしばらく小躍りする様を、遠巻きに見ていた少年達が大笑いした。


「カニしか居ねえなあ」

「ええ。…やはり、海岸にはもう、何も無いんでしょうか」

『遊泳禁止』と書かれた立て札に、がらんとしたパラソル一つない真っ白な砂浜。

散歩を楽しむ家族連れや老夫婦はまばらにいるが、銃を携行している警官達の隊列を前にしては、存分に楽しめているような雰囲気は無い。

ビーチの奥の水平線を、沿岸警備隊の水上バイクが一隻、駆け抜けていった。

「この警備隊の監視の中だ。地方警察が通報に駆けつけてから今この瞬間まで、漁りに来る奴も居やせんだろう」

「じゃあ…()()()()なら、やはり」

「お前さんの指摘通り。漁られた可能性は、ゼロじゃあない」

ダニーは一つため息を溢して、手帳の一文、『海岸の再捜索』を横一文字に消していく。

同じような事を考えていたらしいルッチの朝の単独捜査で、遺体漂着の通報を受け初動捜査に当たった地方警察の警官達は、すでに沖の警備の手伝いに駆り出されている事がわかった。

彼らの聞き込みが出来れば、もう少し詳しい状況が掴めたんだろうが…、と、ダニーは再びため息を溢す。

「あんまりため息ばっかついてっと、幸せが逃げてくぜ?」

「幸せ程度なら、いくつ逃げてくれても構いやしませんよ」

ダニーはふんと鼻で笑いつつ、手帳を閉じてポケットに突っ込む。

「ほおう?聞けば、サンデー警部の妹さんとベッドインしたそうじゃないか」

「正確にはサンデー警部と、ですね。…やめてくださいよイタズラでも変な噂流されると警部に殺されかねませんッ」

「っだっはっは!違えねえ!今のうちに幸せ貯金しとくんだな」

ダニーはまたまたため息を溢しつつ、笑いながら先行くルッチに小走りで追い付く。

「そういえば、今朝のニュース見たか?」

「見れてないですね。それどころじゃなかったんで」

そう言いつつ、ダニーは思い出したようにスマホを取り出してニュースアプリを立ち上げる。

「なんでも旧市街の方で遺体が見つかったらしい」

「…もしかして、ヴィン・サント関連?」

「っほほ。鋭いね。ま、あの辺の遺体は基本マフィア絡みか」

ルッチが手頃な珊瑚片を拾い上げて遊び始めるのとほぼ同時、ダニーはルッチの言う記事を見つけ読み進める。

「…バカですねえ。クスリの濫用ですか」

「しかし妙じゃねえか?」

「妙、って?」

「その男。ヴィン・サントと関わりが深いってんで前から財務(ウチ)でも睨みきかせてた奴なんだが。…腐ってもマフィアお抱えの医者だぜ?免許は剥奪されてても、クスリの楽しみ方くらい、弁えてるもんじゃねえか普通」

「よっぽどやめられない快楽だった、とか?」

「んな、思春期じゃねえんだからよ」

「だいたい、お抱えの医者を殺すにしても、内部抗争以前に、組織そのものの痛手になりません?」

それもそうだ、と、ルッチが珊瑚片を波打ち際に向けて投げ飛ばすと、

「おれの考え過ぎ、か」

ぼちゃん、という着水音は、瞬時に潮騒がさらっていった。




「見えてきましたよ、セニョリータッ」

 イオニア海海上も昼手前。呆れるほど昨日と変わらない一面コバルトブルーの峰を突っ切って、ビアンカを乗せた小型クルーザーはただ一隻、ハイドの操舵で疾走していた。

その船首の先に浮かぶ、赤い旗を風になびかせるヴィンテージな漁船。ビアンカは近づく度に高まる胸の鼓動を押さえ込むよう息を飲んで、その揺れる影をじっと見つめる。


「ストラヴェッキの船に乗せろ、だ?」

早朝の操舵室。

学生達はまだ各々の船室で眠る中、ビアンカは一人、交渉に訪れていた。

そうして開口一番に告げられた彼女の言葉に、驚きのあまり開いた口が塞がらないスタッフの男二人。ジェンツィアナは最後まで堪えたが、大真面目なビアンカの顔に二、三度、目をぱちくりさせ、ついに大笑いと共に膝から崩れ落ちた。

「ぁあっはっはっは!昨日の事でブルっちまってるかと思えば…、っとにあんたは面白いお嬢ちゃんだ」

「それで?乗せてもらえるのかしら」

「ああどうぞご勝手に。…っぷ、くくく。サメに喰われて死んでもいいっつう覚悟があんなら、だけどねぇ」

「それなら」

ジェンツィアナの返事にビアンカは一歩踏み出すが、

「だあめですってセニョリータぁっ!」

そんな交渉成立の空気を引き裂くように、ハイドが慌てて割り込んでくる。

「すでに、昨日、ウチの、ツアーで、死傷者を出してんですッ。これ以上死なれたら困るんですよッ裁判とかあれとかこれとか」

「裁判?…悪いけど私も仕事で来てるの。危険も重々承知の上でお願いしてる」

「覚悟決めないでセニョリータッ」

「私は記者よ。…昨日のあなたの言葉を借りるなら、事実をあるがまま伝えるのが、私の仕事の本質。だから、サメ狩りの実態を記録しないといけないのよ」


そうして反対するツアーガイド達を押しきって、今こうして『鮫殺しの男』の船へと進路を向けるに至る。

「すでにストラヴェッキ氏からは無線であなたの乗船許可を頂いてますからッ」

ハイドが再び、クルーザーの駆動音に負けないよう大声で叫ぶ。

「どうかお気を付けてッ」

「ありがとうッ」

波に揺られる錆びの塊。近くで見れば見るほど、ヴィンテージという言葉に失礼な気がしてくるぼろ船、その横にハイドは器用にクルーザーを付けて、


「遅かったのお」


いつの間にか甲板に出てきていたらしい、壮年の男のドスのきいた声に、二人同時に肩をびくつかせる。

「す、すみませんッ」

ハイドは怯えながらハシゴを取り出して、片側のフックをストラヴェッキの立つ甲板の手すりに引っかけ、どうぞ、と視線を泳がせながらビアンカを促す。

「アンタかァ、オデの船に乗りたいっつう酔狂な女ってェのは」

「え、ええ」

波に揺れぐらつくハシゴ。

ビアンカは両手両足で引っ付きながら、ゆっくりと漁船に向けて這うように進んでいく。

「若ェ女をこんな近くで見るなァ、ひっさしぶりだァ。っげっはっはっは」

ハシゴの真ん中辺りで、ストラヴェッキの舐めるような視線がはだける胸元辺りに留まってる事に気が付いたビアンカは、うんざりするように視線を落とし、彼に聞こえない舌打ちを波間に溢す。


ママの忠告、ちゃんと聞いとくべきだった。


海の上にはドラッグストアもガンショップもあるわけもなく、催涙スプレー一つ持ってこなかったことを後悔する。

頼れるものはティーンの時に習ったカラテだけか、と、ハシゴの最後の一段に手を掛けた瞬間、


「ふふん。歓迎するぜェ。お嬢ちゃん」

「っわぁッ」


脇から抱え込まれるよう引っ張られ、甲板に叩きつけられた。

「この船に乗ったからにゃあ、チンタラすんじゃねぞォ」

そう言いながら手すりにかけられていたハシゴのフックを外して海に投げ落とし、ハイドのわあという短い悲鳴を響かせる。そしてずかずかと大股で歩いて甲板を軋ませ、ポケットから取り出したスキットルを一口あおると、立ち止まって振り返ること無く、

「少しでもオデをイラつかせるような事しやがったら」



「殺すぜ?」



下卑た笑いと共に、言い切った。


乗り間違えた船が、またランクアップしたらしい。

ビアンカは強く叩きつけられた胸をさすりながら立ち上がると、ストラヴェッキの消えていった船室に向けて、覚悟を決めて、歩き出した。




 海岸の捜査で目ぼしいものが見つからなかったダニーとルッチは港に足を運び、漁師や見回り中の警官に、不審な漂着物は無かったか話を聞いて回っていた。

島唯一の港の監視が強化されたことで、新たに大型の船や漁船で狩りに出ようとする者達の拘束は確実に出来るようになったものの、監視の目を盗んで小型のボートや水上バイクのような、ホオジロを狩るには不向きな小型船舶で出港してしまうケースが後を絶たないらしい。

そういった者達は大抵沖で監視をする巡視艇に捕らえられるようだが、それも現在出港を確認した総数の七割程度と、拘束率はお世辞にも誇れるものじゃない。


そんな現状の混沌っぷりに呆れたよう肩を落として、ダニーが手帳をポケットにしまい顔を上げた時だった。


ふと、視線が止まった、島案内所。

観光シーズン真っ只中だと言うのに、がらんと寂れているその有り様のせいだろう。

新聞や求人が張り出されている掲示板の辺りに呆然と立つ、黒いパーカーのフードを目深に被った小柄な人物が、嫌に目立つように感じたのだ。


「どうした小僧」

自身の手帳とのにらめっこを中断して顔を上げ、眉をしかめて立ち尽くすダニーを不審に思ったルッチは声をかけるが、

「ちょっと、行ってきます」

とだけ言い残し、ダニーはフラリと案内所の方に歩き出す。

あ、おい、とルッチは呼び止めるが、ダニーは無意識に足音を殺し、パーカーの背中に歩み寄る。


「何か、お困りで?」


ふいに声をかけられ、男は分かりやすく肩をびくつかせた事で、勢い余ってフードがはらりとずれ落ちる。


暗いカーキ色のロングヘアー。

前髪はオールバック、襟足含め後ろにヘアゴムで纏めているといった、シンプルな髪型だ。

…捜査資料だったか、どこかで見かけた顔な気がする。


横から覗き込むと、どうやら新聞の号外を読んでいたらしい。何か目ぼしい情報は無いかとダニーも男の隣に立って、返事を待ちながら新聞記事を読み進めていると、

「特に。困っては無いっす」

と言って踵を返し立ち去ろうとする。


が、

その一瞬、

ダニーの鼻を掠めた―――



消毒薬と、――血の臭い。


「君、ちょっといいかな」



考えるより先に、制止の言葉が口をつく。

男はちょうどずれ落ちたフードを被り終えたところで、

「…なんすか」

振り向く事無く、足を止める。


「少し聞きたいことが、あるんだけど」


「オレに?…何を?」


「最近、怪我とかしたのかな。…病院にでも行った?」


黙る男。


ダニーはその間にも観察を止めない。


最初は両手をポケットに突っ込んでいるのかと思っていたが、少しだけオーバーサイズの膨らみを見せるパーカー、その右腕は怪我なのか生まれつきか、妙なへこみを見せている。


「右腕は事故?それとも、生まれつき?」

「アンタ、警察?」

「財務の制服。すぐわかってもらえるようにいつもちゃんと着てるんだ。…どうかな。少しだけ、お話、聞きたいんだけど」

「…腕は生まれつき」

「そっか。気を悪くしたのなら、謝る」

「もう行っていいすか。急いでるんで」

「いや待って」

「…」

「最初の質問に答えてよ。…最近病院にでも行ったのかい?」

「…行ってねえっす」

「それじゃあ」



「その、血と消毒薬の臭いの説明を、してもらっても?」



言い終えたのとほぼ同時。

「っクソが」

男が駆け出し、

「ッあ、ちょっと!!」

ダニーもそれに続く。


「ルッチ!その男追って!!」


「何でぇ?」

ルッチも何事かと走り去った男の背中を目で追うが、

「いいから走ってッ!!」

ダニーの見たこともない形相に面食らい、

「おぉ、おおう。わかったッ」

走り抜けていったダニーの背中に続く。


「あの男がどうしたってんだ!?」

「どこかの資料で、見かけた気が」

「それだけ!?」

「臭ったんです、血と消毒薬ッ」

「ただの病院帰りじゃねえのッ」

「今朝のニュース見ましたッ!?」

パーカーの男は壁に立て掛けてあったすのこを倒し、道を塞いでくる。

「そんな偶然」

「可能性の話」

「…ゼロじゃねえが」

「賭けてみてもいいんじゃ?」

ルッチも呼吸を整え、状況を飲み込み目の色を変え、

「ダニーお前は右から回り込め、おれは左行くッ」

「了解ッ」

港、倉庫区画の入り組んだ路地。

「止まれよッ」

「止まるかよッ」

「話が聞きたいッ」

「話す事なんて無えッ」

川の字のように平行する通路を、三人の男は怒声混じりに駆け抜けていく。

そして隙を見てダニーはパーカーの男と同じ通りに移動し、


「ッうぉぉおおおおああ」


一気に加速をかけ、


「ッぐ、ふう」


男が脇腹を押さえ、よろけた一瞬の隙。

「――ッ」

踏み込んで一気に男の腰辺りに組み付き、土煙と共に薄暗い倉庫に二人して突っ込んだ。

「でかしたッ、ダニーィッ」

息も切れ切れで正直意識が飛びそうだったルッチも後から追い付いて、

「ぜえ、動くなぁ、はあ、ひぃ」

拳銃を構えて、ダニーに押さえ込まれてもなお逃げ出そうともがくパーカーの男に、静止命令を出す。

男はその鈍色を照り返す銃口を目にして、両手を上げて、睨みをきかせ沈黙した。

「確認なんだがぁ、ダニーぃ」

「ハァ、はいッ…はぁ」

「お前さぁ、気合い入れるとき、叫ぶタイプなんか?」

「…ハァイッ」

「命取りだぜぇ?…マジで」

「はあ、はあ、…こればっかりは」

「…はあ、はぁあ、っそっかあっ、はあ」

のんきな二人のやり取りに、捕えられた男はうんざりしたようにため息を溢すが、それと同時に手錠をガチャンとはめられるのだった。



「んで?…ヴォヴ・コロント君」

ダニーがタブレットで顔認証を済ませ、弾き出された検索結果の画面を提示し、ようやく呼吸が整ったルッチはそれを読み上げる。

「ヴィン・サント様のしたっぱが、昼間っからあんなとこで何を?」

「昼の散歩もダメッてか?ッあ!?」

噛み殺す勢いでルッチに威嚇するが、

「おー、怖え怖え」

柱に手錠で拘束されているため、ガチャンという虚しい金属音が倉庫に響くだけだった。

「しかしぃ、銃一丁さえも持ってませんし、ホントに散歩してただけなんじゃ?」

少し離れたところでストレッチしながら、ダニーは口を挟む。

「おいダニー。小僧が。怪しいっつっておれまで走らせたのはお前じゃあなかったか?」

「あーまあ。ははっ。…ですよね」

ルッチの鋭い視線に頭を掻きながら、ダニーは怯えるヴォヴに歩み寄り、

「おいてめえ、指一本でも」

「触れるよ」

「クソがよッ」

パーカーのファスナーを思い切り下げて、

「…ふむ」

先ほど逃走中に、男が押さえていた脇腹辺りに赤茶色のシミを見つけ、首を傾げた。

「この怪我は何?」

「アンタに関係」

「失礼するね」

「クソがよッ」

答えなんて関係なく、肌着を捲って覗き込むと、

「この手術は、いつ、誰にしてもらったの?」

露になったのはやせこけた肋の、真新しい縫合跡だった。

まだ塞がりきっていないのに激しく動いたせいで体液が滲み出てしまっているが、もぐりの医者とは思えない、美しいとさえ思えるその仕事振りに、ダニーは思わず感心してしまう。


三百メートルほど離れてしまった港から、パトランプの音が僅かに聞こえてきた。

小型のボートが、監視の目を盗んで出港したのだろう。


港の騒ぎが鮮明に響いてくる沈黙にダニーは肩を落として、スマホのニュースアプリを開いていじっていく。

そして、

「さっきの掲示板にあったカントゥチーニ島民新聞の号外、それのデジタル版だよ」

そう言って俯くヴォヴにスマホの画面を見せる。

「上から一文字ずつ読み上げてやってもいい。どの記事読んでたんだ」

「…暇かよ」

「言ってろ。っさ。どの記事を読んでいた?」

「読めばいいだろ、暇人さんよォ」

やれやれとダニーは肩をすくめて、スマホの画面を見つめ、


「俺の推理はこうだ。ヴォヴ・コロント」


適当にスワイプをしながら続ける。

「君に最初に声をかけたとき、その臭いを嗅いだとき。…一つのニュースが頭を過った」

「…へえ」

「ヴィン・サントと関わりの深い医者が、昨晩死んだ、ってやつ。君も組織のしたっぱ、もう情報は掴んでるだろ?」

「…」

「…それで、俺は血と消毒薬の臭いを嗅いだとき、ふと、思ったんだ。この男が、昨晩医者を殺したんじゃ、ってさ」

「んな訳あるかよ」

「よしっ、可能性が一つ潰れてくれた」

「チクショウが」

ダニーが得意気な笑みを浮かべ、ヴォヴは口を割ってしまったことを嘆く。

「それで?隠したって時間の無駄だよヴォヴ」

ダニーはスマホをスリープにしポケットに突っ込むと、


「君は港で、何をしてたの?」

「その縫合跡は、誰に手術してもらった?」

「そして、その右腕は」


「…ッ」


「誰にやられたの?」


ダニーがゆっくりと捲り露になった右腕は、肘から先が無くなっていて、これまた真新しい縫合跡がくっきりと残っていた。

ヴォヴは首筋に一粒汗を伝わせて、顔を伏せて黙り込む。


腕の断端と脇腹を結ぶのは、ナイロンの縫合糸。


二ヶ所を縫い付ける同じ素材、同じ手癖の糸は、恐らく同じタイミングで、同じ人物によって手術された事を示している。

そして二ヶ所共にまだ体液が滲むほどの傷の癒合具合を見るに、術後二十四時間と経っていないのだろう。


二十四時間程前に怪我をして。

その怪我の手術を受けた。

ヴィン・サントの、したっぱ。


これらの事実から、一つの可能性が浮かんでくる。


ダニーは思考を終えて一息ついて、俯くヴォヴの顔を横から覗き込んで、



「君の腕は、サメに喰われた」


「この推理は、合ってるかな?」



「…クソがよ」


そうしてダニーの推理でようやく観念したヴォヴは、一昨日の深夜の出来事と、死んだ闇医者との最後のやり取りを、ぽつりぽつりと話し出すのだった。



「…つまり要約すると」

「…お前さんは仲間にハメられた、ってわけか」

ダニーとルッチは信じ難い新事実に思わず顔を合わせ、

「おいダニー。こいつはオオゴトになってきたぜ」

「取引のブツが、薬物じゃあなく彼の言う通り武器なら…俺達の手に負える仕事じゃ無くなります」

ルッチは黙って頷いて、

「おいヴォヴ君よお」

ずいっと一歩、ヴォヴに歩み寄る。

「一昨日の取引は…本当に武器取引だったのかい?」

「間違いなく言えるのは…ヤクじゃあ無え、ってこと。チラッと盗み見た限り、バスケットボールくらいの何かだったってのは、わかるぜ」

「くそ、現物を押さえられれば一番なんだが」

「バスケットボール大なら海底に沈んでそうですねえ」

「楽しくダイビングしてサメに喰われたいか?ダニー」

「…狩るしか、ないんでしょうか?やっぱり」

腕を組んで考え込んでしまう二人に、

「現物を押さえられたら。どうにかなんのか?」

ヴォヴは考えがあるかのように問い掛けてきた。

「そのブツとやらの違法性が示せれば、な」

「それじゃあオレを逃がしてくれ」

「あん?ふざけてんのか?」

突然強気な発言をしてきたヴォヴを威嚇するよう、ルッチは腕を組んで見下す。

「刑事さんよ。オレが港をうろついてたのは、ボスに裏切り者の情報を伝えようと、アジトに帰ろうとしてたからだ」

「…ほう?バカな真似をするなあお前さんは」

「ああ。帰ってきて思い知ったさ。ボスの周りは裏切り者の一派が固めてて、近付く隙なんて無かったよ」

「それで?お前さんを逃がせば陽動でもしてくれるってのか?」

「違うぜ大バカが。考えてみろ」


「取引に参加したオレは、唯一ブツの保管場所を知ってる生存者。連中、今はボスの警備で忙しいんだから、保管場所の警備はその分手薄。そう思わないか?」

「…そうか」

「だからあんた達警察が、今以上にアジト周辺を賑やかしてくれれば、…奴らにとって死人のオレが、手薄になった保管場所からブツを持ち帰れる確率も上がる」


「協力しよう、って言いたいの?」


ダニーの一言に、ヴォヴは頷く。


「まあ待てよお二人さん」


見つめ合うダニーとヴォヴの間にルッチが割って入る。


「おれ達は情報が手に入って嬉しい限りなんだが…ヴォヴ、お前さんの狙いは何だ?何も得がないように思えるが」

「…っぷ、…っくっくっくくくく」

ヴォヴはルッチの問いに堪らず吹き出すが、

「…っげほ、げほっごほッ」

弱りを感じさせる咳を溢す。


「ッゴフ…見ての通り、オレにはもう、じかんが…無い」


「時間…?」


「そう、復讐のための(じかん)。…オレはね刑事さんよ」


彼にとっての、得。

その燃えるように充血した、怒りと哀しみ、狂気の色が混じる瞳に、二人は言葉は無くとも理解する。



「裏切り者を…幹部ノッチーノを殺せさえすれば、それでいいんだ」



ダニーとルッチはヴィン・サントアジト周辺の陽動。

ヴォヴは裏切り者の切り札、取引のブツを盗み出す。


お互い役割を決めて、

「それじゃあ頼むぜ、ヴォヴ君よお」

「復讐のお膳立てをよろしく。刑事さんよ」

ダニーとルッチは頷き合い、ガチャン、と手錠を外して、ヴォヴを逃がすのだった。




「おい撮れたか」

「おう。ばっちりと」


少し離れた、廃倉庫の柱の影。

二人組の警官はスマホを手に、こそこそと、小声で話し合う。


「しかしあの男、ヴィン・サントでしょ?追わなくていいのか?」

「ばあか。あんな小物ほっとけ。…そんな事より、オレ達が今目撃したのは何だ?ん?」

「財務警察の二人組の、背任行為」

「ふふん。そうだろ。…その動画と一緒に、奴らが『ネズミ』だって告発してみろ。俺達ぁ出世街道まっしぐらだ」

「おぉ…。あったまいいなあ。相棒」

「っへへ。ウマイ汁、吸わさせてもらおうぜ?」

「じゃあ早速上に報告」

「まあ待て」

「え?」


「あの二人を追って。再びヴィン・サントと接触しようとした時に。この情報を上に報告だ。…な?その方が間違いないタイミングだろ?」

「おおっ、やっぱあったまいいなあ、相棒」



「バカなネズミは、徹底的に追い込まねえとなあ」



ダニエル・トレビアーノ。巡査。

ルチアーノ・サンジョヴェーゼ。巡査部長。

そして、ヴォヴ・コロント。ヴィン・サント構成員。


警察タブレットの顔認証システムが弾き出した、三人の人物のプロファイル。

その画面を見つめて笑う、地方警察の制服に身を包む二人組の野望が、人知れず静かに動き出す。



―用語解説―


○モネッロ

イタリア語で『わんぱく少年』、『不良』といった意味の言葉。チャップリン監督・脚本・主演の映画、『キッド』のイタリア語のタイトルでもある。『Il monello , 1921』



∀本日の一杯

Vov(ヴォーヴ)

イタリア発祥のワインカクテル。菓子職人が余らせてしまった大量の卵黄の処分に悩んだ結果産み出したカクテルで、材料は卵黄、砂糖、マルサラワインのみ。ヴェネチアの方言で卵を意味する『Vovi』から、この名前がついた。

カスタードクリームのような濃厚な味わいながら、度数は17度と高め。

冷やしてストレートで。お好みのアイスクリームにかけて。

はたまたクリスマスシーズンなんかはホットでも。

お好みのスタイルでどうぞ。



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