蒼海に消える
コン、コン…
ノックの音でビアンカは我に返った。
「失礼しますキャプテン」
聞き覚えのある声。
確かスマホを回収していたスタッフの男、ジキルだったか。
彼がノックと挨拶を済ませガチャリと入室してくると、
「サメッギャアッ」
ジェンツィアナが投げたマチューテが、彼の真横十センチ未満の辺りの壁にトンと突き刺さる。
「何の用だい、ヒゲ」
「ああッ、ええと。どうやらっ、ホオジロが見つかったらしく」
「ほおう。狩りが始まったかい」
「ええ。雇いの漁師からも、『殺しの時間だ』、と無線の一報が」
ジェンツィアナは、くくく、と笑って立ち上がり、伸びを済ませると、来な、とビアンカに付いてくるよう促した。
イスから立ち上がり、部屋を出て、廊下を歩いて、階段を登る。操舵室までの道程の、一歩一歩が、妙に重く感じられた。
ドアを抜けると、大きなガラス一面に広がる亜麻色のパノラマが、酒にやられたビアンカの網膜を突き刺す。しばらく目眩によろけていると、
「船酔いですかい?セニョリータ」
いつの間にか真横にぴったりと立っていたハイドが、きひひ、と笑いかけてくる。
「…ええ少し。酔ったみたい」
「お手洗いはあちらです。…お手伝いが必要でしたら、お気軽に。ぐふふ」
「結構よ。あっち行ってて」
下卑た笑いにうんざりしつつ、窓の外の明るさに目を慣らそうとしばらく泳がせた。
水平線の向こうにポツポツと、漁船の影がいくつも見える。
目視できる範囲で、五隻位だろうか。
奥にはもっと船が居そうにも見える。
サメを追い込もうと、無線で連携をとりつつ包囲網を敷いているらしい。無線機に張り付くジキルは、情報を拾っては隣に立つジェンツィアナに耳打ちをしている。
「よく見えないっすよねっ?セニョリータ?」
「あなたまだ居たの」
やはり気配を感じられないハイドも、懲りずにビアンカの隣に立って水平線の様子を伺っていたらしい。
二人並んで立ち呆ける様は、まるでミーアキャットのようだったろう。想像しておかしくなったビアンカは、僅かに吹き出す。
「そりゃあ居ますよセニョリータ。常にお客様の楽しさをサポートする事こそが、ツアーガイドの仕事の本質ですから」
「それならもっと距離感と清潔な笑顔を学びなさい」
いい加減頭にきて、ビアンカはジェンツィアナの隣に歩み寄ると、
「具合はどうかしら」
横から顔を覗き込むように問いかけた。
「まだね」
「…まだ?」
「そうさ。ストラヴェッキは、まだ、手を出さない」
ジェンツィアナはにっと笑って、腕を組む。そしてビアンカの耳を噛み千切れるほどの位置まで顔を寄せると、
「あの男は狡猾なんだ」
笑い混じりに、楽しそうに呟いた。
その吐息のこそばゆさに、ビアンカはぞくりとする。
始まるんだ。『鮫殺し』が。
と、同時に、一隻の船が動きに変化を見せる。
パッと見、ストラヴェッキの船ほどおんぼろでは無さそうだ。
「アイツ、急いだねえ」
ジェンツィアナのぼやきに、あの一隻は鮫殺しでないことを確信し、息を飲む。
ストラヴェッキはどこで何をしているのだろう。
生き急いだ一隻の命運に胸が高鳴る。
「ねえちょっと」
またいつの間にか隣に、僅かに紳士的な距離感で立っていたハイドに呼び掛ける。
「もう少し、近くに寄れないのかしら」
「これ以上は、危ねえっすよ?」
そうまごつくハイドだったが、
「後ろに載せてる小型クルーザーなら、サメに追い付かれるこたあまず無えだろ」
視線はそのままのジェンツィアナの提案に、ああ、確かに、と手を打って、
「寄ってみます?セニョリータ」
芝居臭く提案してきた。
「ええ。ぜひお願い」
「グラッツェ!追加プランのお代は後で、請求しますねぇ」
「お金取るの!?」
「ええ。今思い付きました。いいビジネスでしょ!?」
今まさに行われている窓の向こうの狩りに、スクープの予感を嗅ぎとる。
ここで引いちゃダメだ、と、ビアンカは決心して、
「いいわ。とっとと行きましょう」
毎度ありい!とにやけるハイドを急かしつつ、操舵室のドアに早足で向かった。
が、その時ふと、出入口横の壁の物に目が止まり、次いで足も止まる。
古びた鍵のかかる金網のロッカーの中に、三丁ほど、種類の違う銃が掛けられていたのだ。
「どうかしましたセニョリータ」
「いや。あの銃は何かしら、と思って」
「ああ。海賊対策っすよ」
「海賊…?」
「まあ、ソマリアの海賊自体は最近めっきり減りましたがねえ。…今のご時世、スエズの辺りは海賊以外が物騒でして」
「なるほどね。名残とも言えないわけ」
「ええまあ。難しいですよねえ。人間って?」
そう言ってぴったりと真横に寄り添ってくるハイドにため息を吐きつつ、小型クルーザーのある船底格納庫に急いだ。
船尾側甲板の上。サメ狩りが始まり船が安全圏をゆっくり旋回しだした辺りから、こちらもこちらで静かな戦いが始まっていた。
「…」
パラソル付きの、四人掛けの、テーブル席。
汗でぐっしょりなナッツを挟むように、俯くザフィと、にこやかに頬杖を突くシトラ。そしてナッツの対面にはコリーが居た。
船首側甲板で楽しげなロロとミミには感付かれないよう、声すら掛けていない。
ふいにコリーは足元のクーラーボックスから炭酸飲料の缶を摘まみ出し、プシュ、っと良い音を聞かせた。
「ザフィも飲む?マウンテンデ」
「いらない」
「そっかあ!要らないよなあッ、ははッ!…んぐ、んぐ、んぐ、…っくぅ、うんめぇえ!」
「ねえ、コリーぃ」
「なあにシトラっ!」
「ビール、ちょうだい」
「おっけぇい!どれが良いかな!?ギネスにデュベルにハイネケン、ニッポンの銀色もあるぜっ」
「ナッツは、どれが好きだっけ?」
「…ッ、オレ、は、…モレッティ、が好き、かな」
「じゃあ、それを取って?コリー」
「おっけぇい!俺に似たイカしたヒゲのダンディがトレードマークだ、ほらよぅッ」
コリーはおどけた笑いを浮かべながら、僅かに温くなったダンディな缶を、ザフィをねっとり見回すシトラに手渡す。
そうして間も無く、プシュ、っと良い音を響かせて、シトラは視線はそのままに、ビールを一気に飲み干すと、
「…んっふふ。…にがぁい」
薄桃の口元を少し濡らす白を親指で絡め拭いとり、ことり、とテーブルの上に空き缶を置いて、再び座る姿勢を正した。
「…それで?二人が酔い潰れた晩も、これ、飲んだんだ?」
コリーの生唾を飲む音だけが、よく聞こえた。
「ナッツ、あたしとのデートでは全然お酒飲まないんだよお?…まあ、あたしがあんまり飲めないってのもあるけど」
シトラは指を組んで膝の上に置くと、
「だからなのかなあ」
ため息と一緒に吐き出すように、ぼやく。
「あたしが毎回、飽きられちゃうのは」
冷たい一言と、冷たい目線。
地中海の日差しを以てしても、ザフィとナッツを凍り付かせるには充分過ぎたらしい。
いたたまれなくなったコリーは手にした炭酸飲料を一気飲みして、
「空き缶、捨ててくるぜっ」
と言って、シトラの目の前のダンディを摘まみ上げて二ついっきに踏み潰し、そそくさと船内に消えていった。
パラソルの向こうの日差しの中で、海鳥が甲高く鳴く。
シトラはゆっくりと見上げて、群れの行方をじっと見送った。
その影が水平線の先の雲に消えていった時、
ナッツが意を決し、胸いっぱいに空気を吸い込んだ時だった。
「おぉおい。学生の皆様方ぁっ!」
手すりの向こう、船の外から呼び声がした。
その間抜けな声に拍子抜けしてしまうナッツと、相変わらず俯き固まるザフィをよそに、シトラは席を立って、
「あ、ちょっとシトラ聞いて欲しいことが」
ナッツがそっと取った手も振りほどいて、一人声のする手すりの方に歩いていく。
ナッツも振りほどかれた手をぎゅっと握り締めて、シトラの背中にすぐに駆け寄った。
「っおおおい。学生、っさああん?」
「ちょっとあなたッ。あんな危ない場所行くのは私だけで良いでしょ」
「何を言ってんですセニョリータ。ビジネスチャンスなんですよォ?学生はスリルある娯楽に飢えてる、声かけないなんて、そりゃあ無いでしょうよ」
「あなたねえ」
小型のクルーザーの運転席と後部座席で、ハイドとビアンカがケンカをしていると、
「どうされましたあ?」
麦わら帽子のショートボブの女の子が、手すりからこちらを見下ろしてくる。
ビアンカは頭を抱えて深いため息を溢すが、
「ああよかった!聞こえてたっ!」
ハイドはにっこり笑って女の子を見上げると、
「あのですねえ、これから小型クルーザーで、もう少し狩り場の近くに寄ろうと思うんです!定員もありますんで先着順にはなっちまいますが、学生の皆様方もどうかなあと思いまして!」
小刻みにエンジンを吹かして、船全体に呼び掛けるよう、ツアーの新サービスをアピールする。
船首側にいたらしい二人組も、何だろうと肩を並べて覗き込んできた。
「誰も来ないわよ、さあ早く行きましょう」
ビアンカは学生達を守ろうとハイドに出発を急かすが、
「わあ、面白そう!あたし、乗っても良いですかあ?」
一番最初に覗き込んできたショートボブの女の子が、ぐっと手すりから身を乗りだし、目を輝かせていた。
「おぉおう!グラッツェグラッツェ!他にも居ますゥ?」
「おいシトラ。まずは話し合いを」
「浮気の後始末なんて、あとでも良いじゃない?だって今はサメ狩りウォッチングツアーよ?せっかくお金払ったんだから楽しもおよお」
ナッツの言葉を聞く気なんて、さらさら無いらしい。
うなだれる彼の両手を取り、一緒に行こうと誘うように、あるいは、逃げ場は無いと拘束するように、シトラは暗い輝きを宿す目でナッツの瞳を覗き込んだ。
「先着三名!学生割引と団体割引でなんと半額以下!どうですかあ!?」
「だってよお?ナッツ。…ザフィ」
ふいに呼び掛けられたザフィは、肩を大きくびくつかせる。
「やめとけよナッツ。どうしちゃったのシトラも」
船首側甲板から慌てた様子で、ロロとミミが駆け寄ってきた。
「絶対危ないよ。この船の上…ほら、船首側からなら、狩り場の全体もよく見えたしっ、そこで我慢しよ?」
ミミも心配そうに、頭を抱えるナッツと、変にニコニコしているシトラを見比べる。
「ええー。ホオジロザメ、近くで見たこと無いからさあ」
「ねえシトラ。ホントにどうしちゃったのさ」
本気で心配になったミミがシトラの手を取るが、
「触んないでよお『メス犬』。きったないなあ」
一同が凍りつく最中、シトラはミミの手を振りほどく。
「あの噂。本当だったんだあ。今度はロロの純情、弄ぶんだね」
そう言って、膝を落としたミミを置いて、シトラはうふふと笑みだけ残して、一人、はしごを伝って小型クルーザーの後部座席に飛び乗った。
「っへへ。何話してたんです?よく聞こえなかったんですが、他にも乗りそうですかねえ?」
「ふふ。きっと来ますよお!」
にっこりと微笑むショートボブの女の子に、ハイドも安心して笑みを溢した。
「…アタシ、行くわ」
しんと静まり返っていた甲板の空気を引き裂いたのは、
「ザフィ…?君まで何を」
パラソル席からスッと立ち上がったザフィの一声だった。
「だめだ。僕が行く」
ロロはとっさに、はしごに向かうザフィの前に立ちはだかる。
「どいてロロ。押し倒してアンタの初めて奪うわよ」
「僕と、ナッツで行く。先着三人それで埋まるだろ」
「いやロロお前は残れ。オレとコリーで行ってくる」
「コリー…居ないじゃないかっ。だから僕が」
ごねるロロの両肩にナッツは掴みかかる。
二人の身長差は三十センチ近い。
押さえ込まれたロロが敵うはずもないのに、彼は必死にナッツの胸ぐらに掴みかかった。
「下にいんだよオレがすぐに呼んでくる」
「ナッツ、君は昔っからそうだ。身長差で言いくるめようったって今回ばかりはぼ」
「シトラを生きて帰ってこさせてミミに謝らせんだよッだからどけよロロォッ!!」
ナッツとロロの言い合いを一喝で黙らせ、魚みたいに口をパクパクさせる二人を追い越して、鬼の形相のザフィはシトラの待つクルーザーに降りて行くのだった。
「…ってわけだ。ロロ。後はオレに任せろ」
「でも」
「じゃ誰が。ミミを。守るんだ。ん?」
ナッツは黙って、つん、とロロの胸の真ん中あたりを、強く指差す。
ふと視線を流すと、ミミは甲板の上で膝を抱え込むようにして、震えていた。
その周りをくるくると、ローリーが心配そうに歩きまわっている。
あまりの痛ましさを直視できないロロは、再び相対するナッツの目を覗き込む。
「…君が、君達が抱えてる問題は、根深いんだよナッツ」
「なんだ。知ってたのか」
「…うっすら聞いた。だから、今回ばかりは、君に行かせられない。あの二人を、任せられない」
「おいおい。オレの事、自分のケツも拭けねえ男だと思ってんのか」
「ああ。最後に漏らしたの、ハイスクールの最後の夏だもんな」
「いいや。カレッジ二年だ」
「…マジかよ。はは、は」
ロロはついに、ナッツの胸ぐらから力尽きるよう、手を離した。
「なんで、もっと早くに相談しないんだ」
「お前を…勉強に恋に忙しいお前を、…巻き込みたく、なくて」
深い深い、ため息が出た。
「…約束してくれナッツ」
「絶対。三人で帰ってこいよ」
「…っ、ああ。絶対帰ってくるさ」
「それで僕にも、『ダチの恋路』をいじらせろ」
「っへへ。…途中までの感心を、返せよ」
ロロとナッツは目を見て頷き合い、ナッツは駆け出しはしごの辺りから飛び降り、
ッザッバアン…
と大きな水音を響かせる。
ロロが手すりから見下ろすと、進みかけていた小型クルーザーが停泊し、泳いで追い付いたナッツが後部座席に這い上がったところだった。
「…頼んだよ、ナッツ」
ロロは後ろ髪を引かれながらも一呼吸置いて、見送り半ば、足早にミミのもとに歩み寄り、隣に屈んで、黙って背中に手を添える。
と、そこへ、
「いや聞いてくれよ皆ぁ。クソみたいに男前なウンコが俺の切れ痔をひりつか、せて…よ?」
空元気のコリーが、トイレから帰ってきた。
そして待ち受けていた光景、泣きじゃくるミミと、そばで介抱するロロの二人に、ただただ困惑した。
「すんませんねえ。無理言って乗せてもらっちまって」
「いえいえ良いんですよぉ、あ、タオルどうぞ」
満席のクルーザーにニコニコしながら、ハイドは海水を滴らせるナッツにバスタオルを手渡す。
「いやあ、どうも」
そう言ってナッツは身体中をタオルで拭いて、改めて客席を見渡すと、
「あれ、記者の、方」
「ええ。記者よ」
彼女の冷たい瞳に、
「へえ、そうなんですかあ」
シトラの冷たい声色に、
「…」
ザフィの沈黙に、ただ、肩をすぼめた。
そんなナッツの様子からビアンカは全てを察し、
「あたし、シトラです。彼女はザフィ」
シトラの挨拶で確信に変わり、頭を抱えた。
「私はビアンカ。よろしくねシトラさんにザフィさん。…あとナッツ君?」
「うっふふ、楽しいツアーに、しましょうねえ!」
震え上がる二股彼氏に、
ニコニコなその彼女と、
怒りに顔を歪ますもう一人の彼女。
本当に、乗る船を間違えたわ。
絶望に沈みかけたビアンカをよそに、
「いいねえお嬢ちゃん!ほらセニョリータもアゲてきましょバイブスぅ!」
ハイドはゴキゲンなロカビリーを備え付けのオーディオからかき鳴らすと、
「っひぃい、やっほぉぉおおう!」
小型クルーザーは小気味良いエンジン音を吹かして、颯爽と狩り場へ走り出すのだった。
「凄腕漁師さんの船、って、どの船なんですかあ?」
およそ十隻ほどの漁船が展開する包囲網、その限界ギリギリにまで小型クルーザーが近づいた時に、シトラがハイドに問いかけた。
「ああ。見えますかねえ、あの赤い旗をはためかせてるヴィンテージな船」
ビアンカは両手でクルーザーの手すりに捕まりながら、水平線から赤い旗を探す。
そして、およそ協力的とは言い難い、包囲網からかなり離れた位置で波に揺られるおんぼろ、もといヴィンテージな船を見つけた。
ジェンツィアナは、ストラヴェッキを狡猾な男と称した。
他の漁師がサメを弱らせたところを見切り、とどめの一撃をかっさらおうと言うのだろう。
ビアンカは一目ストラヴェッキの姿を見ようと目を凝らすが、どうやら彼は船内に籠っているらしく、甲板には人影一つ見当たらない。
と、その時。
「わあっ」
僅か二十メートルにも満たない、目と鼻の先。
シトラが恍惚とした表情で見つめる先で、波間の青い峰を切り裂く白い影が、一隻の漁船の横っ腹に体当たりをかましたのだ。
ド派手に舞い上がる飛沫の向こう側で、漁師の男が悲鳴を上げた。
「まずいわハイド、近付き過ぎよッ」
「ええこいつはやっちまったかもッ、すぐに旋回を」
このクルーザーより二周りは大きな漁船が転覆しかけるほどの力は、当然高波を生む。
近付き過ぎたクルーザーは回避が間に合わず、波が覆い被さるように直撃してしまう。
「っぷっはあ、大丈夫でした皆様方ぁ!?」
「私は平気ッ、三人共!?」
ビアンカは潮を被った顔を拭い、しみる視界にこらえながら振り返る。
「あっははあ!気持ちいいっ」
「平気っす!ザフィも無事だ!」
ザフィはナッツに肩を抱かれながら、俯き垂れ落ちるロングの巻き毛から水を滴り落としていた。
「…全員、無事ね」
ビアンカは見ているだけでヒヤヒヤする三人の空気から逃げるように、
「ほら飛ばしなさいよハイドっ、もう高波はこりごりよ」
波をかぶっていかれたオーディオに涙するハイドを急かす。
「ッキショウ。無線までやられちまったかも」
「何ですって!?」
「こちらハイド。ジキル、ジキル。聞こえてるか。…こちらハイド」
くそうッ、と完全にイカれて沈黙を貫く無線のマイクを叩きつけて、無線機の本体部分を、意味もなくバンバン叩いた。
「一旦、戻るしかないわね」
ビアンカは、ストラヴェッキの船をじっと見つめながら、そう呟く他なかった。
「で?シトラたちはあんな所に行っちまったのか?」
手すりに寄りかかり頭を抱えるロロに、狩り場を指差しながらコリーは詰め寄る。パラソルの日陰でうなだれるミミをチラリと見て、ロロは一つため息を溢す。
「シトラおかしくなってた。ミミの事を平気で傷つけるなんて、普段じゃ考えられないよ」
「六度目の浮気だぜ?シトラにゃナッツ一人。浮気相手は親しい友達でそりゃ狂いもするさ」
「ナッツは大バカだよ、ホントに」
その時だった。
こん…こん…
波とは違う固い異物が船底に当たった気がして、ロロは固まる。
「どしたロロ」
「し…静かに」
こん…こん、こん
「やっぱりだ」
「なになに」
「船底から…音がする」
「おいおい。波の音以外、聞こえないぜ?」
「コリーよく聞いてよ、絶対に音がしたッ」
ロロは声を震わせながら、足をもつれさせながら、しきりに手すりの向こうの青に目を凝らしていく。
日も傾いて、僅かに朱色がさす。
金色の煌めきが邪魔をして、海底の様子が全くわからない。
が、しかし。
一瞬だけロロの目は大きな影を捉えた。
音が止んだと思った瞬間だった。
その影は船の底からゆっくり離れて、
漁師達が居る、
シトラ達が居る、
狩り場の方へ、ゆっくりと、移動していったのだ。
「コリー反対側を見ててくれ」
「見る?何を?」
「いいから早くッ!」
「ああおっけおっけッ、海を見とくぜっ」
「頼む見間違いであってくれ頼む…頼むっ」
ロロは半錯乱状態になりながらも、正気な部分で祈りながら、視界いっぱいの一面の青さを見渡していく。
そして、
「おいッ、ロロ!!」
驚嘆の声を上げたコリーに、祈りは届かなかったと悟る。
「いち…に、さん…ッ」
コリーに駆け寄り、彼の真左の手すりに体当たりするようしがみついて、彼が指差す方に視線を向け、
「サメは…ホオジロだけじゃ、ない…!?」
見間違いは無かった。
目視で五つは見えた波間を切り裂く三角形に、心臓ははち切れんほどの脈を打ち、
「…ッ」
「おいロロどこにッ」
「操舵室!!」
ロロはたまらず走り出していた。
「ミミを連れて船内に居て!!」
だん、と勢いよく操舵室のドアを開けると、
「最近の若えのはノックを知」
「サメだッ」
船長の女の文句も半ば、ロロは声を張り上げた。
「ホオジロだけじゃないッ。他のサメが集まってきているッ」
あんぐりと口を開ける、無線機の前に腰かけるスタッフの男と目が合い、ロロはそっちに歩み寄って、
「すぐに小型クルーザーの人達を呼び戻して下さいッ」
男の肩に掴みかかる。
「それがさっきから応答が無くってェ…」
「どうしてッ」
「わっかんないすねェ…」
「どこかの誰かが、魚の血でもばら撒いたんじゃあないかねえ」
ふいに船長の女が、くくく、と笑ってそう言った。
「はぁ…?」
「サメだよ。集まって来てんだろ?いいじゃない」
「何を、言って」
「それだけじゃんじゃん、殺せるって事さね」
ロロは思わず女の胸ぐらに掴みかかった。
「集まってきたサメは体長五メートルはあるように見えましたッ、あんなのに寄って集られたら小型クルーザーなんてタダじゃ済みませんよッ」
「くく、そうだろうねえ」
「あなたもですよッ」
「ハイッ」
ぼけえ、っと船長とロロのやり取りを眺めていたスタッフの男は急なターゲットの変更に肩をびくつかせた。
「何をぼうっとしてんですッ」
「でも無線に答えてくれなくってェ…」
「呼び掛け続けて下さいッ」
「漁師の皆さんは、何を撒いてるんですう?」
無線が壊れ、暴れるホオジロに波が乱れる最中、シトラは手すりに寄り掛かりながら呑気な質問を投げ掛けた。
ビアンカも揺れる視界でシトラの言う漁師の行為を捉えた。
しばらく観察していると、船の縁に立って、バケツから黒々した何かを海にぼとぼとと撒いている。
「へえ!?あ、ああ。ありゃあサメを誘い込むためのサバの血ですッ。ぶつ切りにした雑魚どもを混ぜて、バケツ一杯分を海に撒くんだと、以前聞きましたァ」
「へええ。それじゃあ、血を撒けばサメは来てくれるんですねえ」
「そっすねえ。おすすめはしませんッ」
切迫した状況でもツアーガイドとしての仕事を貫き通すハイドに、ビアンカは少し感心する。が、それもつかの間、
「ほら皆の船が見えてきたわ、もっと飛ばしてってばハイド!」
「アイアイ、セニョリータッ」
法廷速度を破るか破らないかで戸惑うハイドの肩を揺すり、急かす。
そんな前方に夢中な二人のやり取りを、シトラは、ふふっ、と笑う。
そして向かいの座席に並ぶナッツとザフィを交互に見つめていると、
「シトラ」
その視線に気が付いたらしい。ナッツは、姿勢を正し、ちゃんとシトラに向き直る。
「なあに、ナッツ」
しばらくの無言。
手すりを握り締めるその手を、グッと、より強く握り締め、呼吸を整え、
「俺は確かに、これまで六度、君を失望させた」
シトラの暗い輝きの目を真っ直ぐ見つめて、ナッツは続けた。
「とりわけ、六度目は君にとって許しがたい…よく見知った間柄の、ザフィへの、浮気」
シトラの顔から笑みが消え、彼女は、す、っと姿勢を整える。
「俺は自分が大バカだって、ここに認める。二人を同時に愛せもしないのに、…シトラ一人を幸せに、できたことさえ、無いってのに。…意地になってた」
言い切り、呼吸を整えて、そして頭を下げた。
「本当に、すまなかった」
ナッツの様子を見届けたザフィも、
「アタシも酔ってたとは言え、あんたが傷付くってわかっていながら、遊び半分でナッツを誘った。最低で最悪な選択をしたの」
「…本当に、本当に本当に。ごめんなさい」
深く頭を下げた二人。
シトラは震える吐息を溢して、
「…何よ、つまんない、ありきたりな浮気、してさあ」
膝を抱え込むように座り込んで、
「ザフィ怒らそう、って関係ないミミ傷付けた…あたしが一番、最低じゃない…ッ」
その震えのまま、膝頭を涙で濡らすのだった。
「なんすかこれェ、…一件落着?」
「うっさい。大人でしょ前だけ見てなさい」
小声で耳打ちしながら、ビアンカは相変わらずハイドを急かす。
もうすぐ。
もうすぐで、この子達を帰してあげられる。
そしたらもう一度。
今度は一人で、ストラヴェッキの船に近付いてやるんだから。
ビアンカはそう決意を改めつつ、踏ん張りどころの最初の一歩を踏み出したナッツを内心、拍手で称えてあげた。
「シトラ。ミミなら許してくれる。…アタシも一緒に謝るからさ」
「…うん」
「そしたらナッツとの事、三人で、ちゃんと終わらそうね」
「うんッ」
「アタシ、シトラの事も、大好きだから。このまま終わりたくないよ」
「ふがいなくてごめんな、二人とも」
「ホントよ。バカナッツ」
「っふふ。…ずず、うん。ホント、あたしと同じ」
涙を掌で拭って、
久しぶりに見た気がする、
穏やかな笑顔を、抱えた膝から上げて、
「昔っから大バカよお。ナッツは」
三人の頬が綻んだ、
最後の瞬間だ。
ッズゴンッ――…
走行中のクルーザーが何かを轢いたらしい。
「ちょっとハイドッ、前見てたの!?」
「見てました見てましたッ、急に海底から何かがアッ」
大きく縦に揺れたが転覆するほどではない。
手すりを掴んでいたのなら、船に慣れていないビアンカでも何て事無い揺れだった。
学生達は確かダイビングサークル。
こんな揺れ、日常の一部みたいなものだろうと、安心しきったビアンカが彼らに振り向いたときだった。
「…シトラ?」
ナッツの呟きが、蒼海に消える。
「シトラ」
「船を止めてハイドッ!!」
「ええェッ、今度は止め」
「いいからッ、とっとと止めなさいバカぁ!!」
焦る勢いのままハイドを押し退け、ハンドルを切って急旋回。
「シトラッ」
「シトラァ!」
ナッツとザフィがしきりに呼び掛ける方へ舵を整えて、
「急いでハイドッ、急いでッ!!」
「アイアイ、セニョリータッ!」
何度もハイドの肩を叩いて、白い飛沫の上がる辺りに急がせる。
アクセル全開。
フルスロットル。
さすがはダイビングサークルだ。
シトラは慌てることなく体の動きは最小限。
体力を温存しつつ見事な立ち泳ぎで海面に上半身を留め呼吸を確保しつつ、
「っぷは、だめ…だめ来ないでえッ」
見たところ強く海面に打ち付けたのか鼻血を流す程度の軽傷だ。
しきりに何かを叫んでいるが、波音が拐って何も聞こえてはこない。
「シトラ待ってろすぐ行くからなッ」
「ねえ浮き輪はどこ!?すぐにあの子に投げてあげないと」
ハイドはクルーザーの運転をしつつも脇にある救命浮き輪を慌てて手に取ったがために、
「アッ、しまっ、た」
浮き輪は床を転がり後部座席の下に挟まってしまう。
「何してるのよッ、もうッ」
ザフィとビアンカは激怒しながら、座席の脇に這って、しきりに、浮き輪を、外そうとするが、
「ああ」
「ああ、ぁ、…ぁぁぁあああああっ」
頽れるナッツの嘆きに、クルーザーの全員が固まる。
船の向かう先に、白い飛沫なんてもう無かった。
そこに群がる、いくつもの黒い影。
そのただ中はただ、赤い。
シトラの赤が、じんわりと、蒼海に溶けて消えていった。
麦わら帽子が一つだけ、波に揺れる。
―用語解説―
○カーニャ
イタリア語で、直訳すると雌の犬。転じて、英語のビッチのように蔑称として使われることも。イタリア人の友達にペットの紹介をするときは、細心の注意を払いましょう。
∀本日の一杯
○リモンチェッロ
イタリア発祥の、糖度の高いレモンの果実酒。カプリ島周辺が有名な産地で、今でこそお土産として人気だが、元々は庭先で育てていたレモンから作られる家庭の味だった。
レモンの花言葉は「心からの思慕」、「香気」。
冷蔵庫や冷凍庫でキンッキンに冷やして、花に込められた想いと夏のカプリ島の青さをイメージしながら、氷を浮かべたロックでどうぞ。