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Digestivo 太陽の 鮫―スクアーロ―  作者: 29-Q
本章 ―Principale―
11/18

捜査開始

 検死室の前の廊下。窓から差し込む僅かに朱色の注した日差しは嫌に生暖かく、先程まで手袋越しに感じていた中途半端に凍結された死の温度を思い出し、ダニーは再び流しに俯きえずく。

ふいに、ガチャリ、と後ろのドアが開いて、

「っよ、ダニー。いい知らせと悪い知らせがあるぜ?」

呼び掛けに振り向くと、けろっとした表情でマスクを剥ぎ取るルッチが、ちょうど検死室のドアをバタンと閉めたところだった。

「…帰れるかどうかだけ、先に教えてくれませんか」

「ふーむ、残念。退勤後のラガーはまだまだお預けだ」

そう言ってニコッと笑うと、ルッチは茶封筒を一つ掲げた。

「まず、いい知らせはもう死体をいじくり回さなくていいってこと。いろんなアングルで隅々まで撮らせてもらった」

「そいつは最高ですね」

「ほいで、悪い知らせは謎が増えたってこと。だから有識者を訪ねる事になった」

「どういう、事です?」

すたすたと先に行くルッチに駆け寄りながらダニーが尋ねると、ルッチは、ふふん、といじらしく笑った。

正面玄関口のロビーで煌々と輝きを放つ自販機からミネラルウォーターを二つ買い、ほれ、と片方をダニーに手渡し、続ける。


「何でも、サメの種類が特定できんそうだ」


一口飲んだ冷たさに、目が覚める。

若干の冷静さを取り戻したダニーは眉をひそめて、

「世間を賑わすホオジロザメではないんで?」

同じく眉をひそめ考え込むルッチに問いかける。

「おれもそう思うんだがなあ。監察医は首を縦に振らねえんだこれが」

「それじゃあ、ヴィン・サントが発表したあの懸賞金は何なんです?事を大きく見せかけるフェイクですか?」

「おいおい。仮定だけで突っ走るなよダニー。マフィアの言う通り、遺体(こいつ)を食い荒らしたのはホオジロザメかもしれねえし、違うかもしれねえ」

そう言ってルッチも一口、水を飲んだ。

「全く、迷惑なもんですよね。あんな発表されたせいで地方警察も沿岸警備隊も取り締まり強化で大忙し。それに検案担当の監察医を死因特定に手間取らせて。その上情報を誇張しているとなれば、いよいよヴィン・サント(やつら)の腹の内が読めませんよ」

「おまけに遺体の欠片やら漂着物からは違法な薬物も物品の痕跡も、未だ数ミクロンと見つからんときた。ただただ()()()()()()だけが手元にある。これじゃ事件性も何も判断できんよ」

覗き込んだ混じりけの無いペットボトルの透明っぷりに、ルッチは思わずため息を溢した。


正面玄関の自動ドアを抜けると、夕暮れ時の温い風が頬を撫でる。

遺体安置所は町から少し離れた島西部の小高い丘の中腹辺りにある建物だ。

正面玄関から外に出るとすぐに麓の中央区の町並みとイオニア海のパノラマが一望できるのは、鬱屈とした遺体の検死作業で職員の気が擦り切れないようにするための、設計者の計らいなのだろう。

その思いやりにありがたみを感じつつ、遠景に見えるオレンジに染まっていくイオニア海に見惚れるように、ダニーはゆっくりと深呼吸をした。

一通り新鮮な空気を堪能すると、隣でルッチが大あくびをしていることに気がついて、ダニーは思わず笑みを溢す。

「…それで?次の行き先は?」

ッピョッピョ、と間抜けな音を鳴らし、車のロックを解除しながら相棒に問いかける。

「おおう。悪い知らせの途中だったな」

ルッチはそう言って、胸ポケットからメモの書かれた紙切れを取り出し、

「何でも、お役人が島に呼んだ海洋生物学者サマが島役場に来ているらしい。その先生に遺体の写真をお見せして、意見を貰ってこい、との事だ」

写真の入る茶封筒に冷笑を滲ませた。

「件のサメ対策にしては、学者の招致までの手が早いですね」

運転席に腰かけたダニーは、ドアを閉めつつ何の気なしに疑問を口にする。

「どうやらうちの島が取り入れてるサメ避けの電磁波?だかに、環境保護やら動物愛護やらの団体から、前々から苦情が相次いでたらしくて」

ルッチも助手席に腰かけて、バタンとドアを閉めつつ答える。

「サメ避けの施策を一時停止してた矢先、『コレ』だそうだ。ほんでマフィアが狩りを始めたってんで、苦情の数はうなぎ登りよ」

「それで、目を付けていた学者をすぐに呼んだんですか?」

「まあバカンスのシーズンだ、時期も時期で州知事は焦ったんだろ。マフィアの死因がサメと断定された朝の時点で、お呼び出ししたらしいぜ」

「急な呼び出しに関わらず、よくすぐに来てくれましたね」

「確かに。…よっぽど海の友達想いの優しい先生なのか」

ダニーはシートベルトを閉め、周囲の安全確認を済ませ、

「よっぽど暇な先生のどっちかだな」

ルッチの言葉に肩を落としつつ、エンジンをつける。

「…前者であることを願いましょう」

そのぼやきと共に、パトカーはゆっくりと駐車スペースから発進した。



 そうして島一帯が夕焼けのオレンジに染まった頃、ダニーとルッチは島役場の駐車場に車を停めて、受付を済ませていた。

職員に連れられ廊下を奥に歩いて、三人でも窮屈さを覚える狭いエレベーターに乗って、四階で降りる。

途中の廊下に並ぶ引き戸は、全部古びてガタがきているように見え、防犯は大丈夫なんだろうか、とダニーが考えていると、役場の職員が『多目的室 9』の前で止まる。

「こちらに博士がいらっしゃいます。面会についての確認は先程の内線電話で来訪目的含め簡単に済ませてありますので、捜査に関する前説明は省いていただいて構わないかと」

「わざわざありがとうございます」

「いえいえいえ。仕事ですから。それでは、何かありましたら『内線 0』の受付まで、お電話ください」

「わざわざありがとうござ」

「とっとと行くぞダニー」

永遠にペコペコの応酬が終わらないと踏んだルッチが早々に見切りをつけて、あざした、と職員を解放してあげ、多目的室の引き戸をノックする。

「誰じゃ」

中から穏やかそうな老人の声が聞こえてきた。

「すんません。カントゥチーニ島中央区警察署の者ですが」

「警察じゃと?何の用で?」

一瞬きょとんとして、ダニーとルッチはお互い顔を会わせ、

「失礼します」

と、強引にがらがらと戸を開けて部屋に踏み込んだ。

すると腰の曲がった老人が一人、化石みたいなノートパソコンをバタンと閉じて、慌てた素振りでデスクから立ち上がり、

「なんだねッ、入ってよいとは言っとらんぞ!?」

立派な白い髭を弾ませながら捲し立ててきた。

「んな思春期じゃねえんですから」

「先程受付から確認のお電話、ありませんでした?」

「うけつけ?でんわ?…ああ、いつものおれおれ詐欺じゃろう?きゃつめ、わしが詐欺にまんまと引っ掛かったと思っておったようだが、詰めが甘いと言わざるを得んな。ぜぇんぶソフトな相槌で聞き流してやったわ」

「…全部?」

「ああ全部」

「…聞き流したんですかい」

「おぉう。ぜえんぶ、じゃ」

捜査に関する前説明を省けなくなった落胆か、はたまた別の理由か。ルッチは両手で顔を覆いながら深い深いため息をついた。

「ところであんたたち何者じゃ?押し掛け詐欺か?」

「…カントゥチーニ島中央区警察署の者ですが」

警察手帳を掲げ、

「警察じゃと!?何の用で?」

老人は初めて知ったように飛び退く。

その驚きようにダニーも堪えることかなわず、深い深いため息を、思わず溢してしまった。


「なるほど。それでわしの出番、というわけか。いいじゃろう」

役場の備品のホワイトボードで図解して、口頭に次いで二度目の説明で何とか捜査協力の許諾に漕ぎ着け、一仕事終えたダニーは両膝に手を置いて息を切らしていた。

「んで。見て欲しい写真がこちらなんすが」

ルッチはダニーに、後は任せろ、とウィンクし、封筒から写真の束を取り出しアクアヴィーテに手渡す。

「ふうむ。凄惨じゃな。自然の驚異とはまさにこの事じゃ」

仕事柄血には慣れているのだろう、アクアヴィーテは眉一つ動かすことなく写真をパラパラと眺めていく。

そして、ふム、と言って、

「監察医は何と?」

写真の端をとんと揃えてルッチに返す。

「…ホオジロザメと思われる食痕も見られるが、種類の特定には至らない」

「その答えを出しておきながら、どうしてわしのところに?」

「そりゃあ…可能性の話、ですし?」

「いいや、違う」

アクアヴィーテはふうと、僅かに身震いしながら姿勢を正す。


「このイオニア海に人喰いザメが複数いる、などと、簡単に公に言えんのじゃろう。州知事も泡吹いて卒倒しそうじゃな」


ばささ、ばさ…


ルッチは思わず手にした写真の束を落とす。

「先生ぇ…今、何て…?」

「種類の特定はできない。つまり、種の判別が可能な食痕が複数ある、とも言える。…だから専門家のわしに意見を求めたのでは?」

「そりゃあ、そう…え、そうなの?」

「一匹じゃないのなら、すぐに狩りに出てしまった漁師達を呼び戻さないとッ」

ダニーが慌てて走り出そうとするが、

「いやいや落ち着きなさい」

アクアヴィーテは冷静にそれを制止した。

「島の民どもの狩りは確かにとっとと止めねばまずいが、サメはそう好戦的な生き物じゃないわ。下手なことをせんかぎり、人死にはまず出んよ」

そう言ってアクアヴィーテは、よっこいせ、と屈み込んで、ルッチの落とした写真を何枚か拾い上げる。

「八メートル…二・五メートル…こいつは五メートル以上か」

「おいおい勘弁してくれよ」

アクアヴィーテがぼやく数字の意味を察したルッチは膝を落とし頭を抱えた。

「三メートルに二メートル。…おやあ、一メートル以下もおるな。可愛い歯形じゃ」

「博士…もしかして、その、数字は」

ダニーもようやく理解し、目眩でふらつくが近くのデスクに手をついて何とか耐える。

「うム。歯形から推察できるサメの体長じゃな。八メートル超はホオジロザメ。それ以外は…イタチかのう。抜けた歯は遺体に刺さっとらんかったか」

「…ええ。何も、見つかってません」

遺体の惨状を思い出して、ダニーはその場にしゃがみ込んだ。

全部の写真を拾い集めたアクアヴィーテは、再びとんと端を揃えルッチに返すと、ゆっくり立ち上がり伸びを済ませ、

「これは恐らくじゃが」

よっこいせ、と言って近くのイスに腰かけた。

「何らかの理由で地中海に迷い混んだホオジロザメが、酷い餓えからか、こやつらマフィアの船を狙って狩りをした。そしてその血の臭いを嗅ぎ付けた他の中型のサメが寄ってきて、『おこぼれ』にありついたんじゃろうな」

「博士の考え得る、何らかの理由を伺ってもいいですか?」

「そうじゃなあ」

ぎいという音を響かせて、アクアヴィーテは背もたれに寄りかかり、しばらく考え込む。そして、うム、と言ってダニーが説明に使ったホワイトボードに歩み寄って、その図解をきゅっきゅと消していく。

「一つは自然に迷い込んだ、じゃろう。マグロを追ってか、潮の流れに乗ってか、気ままに迷い込んでしまったんじゃ」

ホワイトボードを左右二分割にして、左側に同じ文言を書き出す。

「さて、そこの…ええと、ダウナー君だったか」

「ダニーです。ダニエル・トレビアーノ」

「よしダウニー・ジュニア。自然でなければ何が考えられるかね?」

大学の講義気分なんだろうか。

アクアヴィーテはコツコツと空白の右側をペンでつついている。

「…不自然?」

「そう。何らかの外的要因じゃな。例えば何が考えられるか、ルイージ君」

「ルチアーノです。…そっすねえ。ビキニのいい女が居たとか?」

「うム。結構。実に結構」

右側『外的要因』を最初に埋めたワードは『ビキニのいい女』。

ルッチは得意気ににやけながらダニーに視線を向け、ダニーは返事に肩をすぼめる。

「では、ダンデ君。他に考えられる外的要因は?」

真面目に腕を組んで考え始めたダニーをよそに、ルッチは痺れを切らし挙手をして、

「…先生ぇ。そろそろ答えを教えてくれやしませんか。もう日も暮れちまいます」

「おおそうか。で、何じゃったかな…ええと、ビキニのいい女?」

その返答に二人がため息をついた瞬間だった。

引き戸ががららと開いて、


「たーいまーっと…あ?誰だあんたら」


スパイクヘアーのパンクな女が、買い物帰りの装いで、紙袋を抱き抱えて立ち尽くしていた。

ただいま、と言うからにはアクアヴィーテの仕事仲間なんだろうが、パッと見プロファイリングを試みても、白衣と思われるドクロまみれの服以外はこの研究機材が所狭しと並ぶ多目的室におよそ結び付かない。

「おおコレッタ。いま講義を受けたいと訪ねて来てくれた学生達に授業をしとったのだ」

そう言って胸を張るアクアヴィーテの肩越し、ホワイトボードにでかでかと書かれている『自然』『海流やエサ』、『外的要因』『ビキニのいい女』の文字列に、はあ?とコレッタは首を傾げるが、

「紹介しよう。彼女はコレッタ。わしの優秀な助手じゃ」

「っす」

「コレッタや。彼がダスター君で」

「ダニエル・トレビアーノ巡査です」

「彼がルバート君だ」

「ルチアーノです。刑事やってます」

二人が掲げるIDを見て、今日一日の出来事が脳裏を駆け抜け、コレッタは瞬時に状況を理解した。

「あーあ、なあるほど、っす」

「警察じゃとッ!?何の用で!?…――んっ?」


「外的要因とは、要するに、っすよ」

コレッタは『ビキニのクソいい女』と書き足して、その下に落書きをしながら続ける。

「サメは天敵にクソみたいに追われて、地中海に逃げ込んできた可能性もあるわけっすね」

「天敵だって?サメにも居んのかい?」

シャチ(オルカ)。…海のクソギャングとも言われるやベーやつっす」

ホワイトボードのパンクなビキニの女は、どうやらシャチに跨がりだしたらしい。コレッタは落書きの出来映えに、っし、と言うと、ペンのキャップを閉めて振り返った。

「後は…考えたくねっすけど、クソみたいな人間が意図的に誘い込んだ、とか」

「そんなこと、できるんですか」

ダニーは思わずメモするペンを止め、顔を上げて問いかけた。

「ええまあ。兄さんがクソしばかれて、鼻血一滴でも海面に落としゃ、寄ってくるっすよ」

「あとは腸内分泌物や排泄物の臭いに寄ってくる、という説もあるの。だから下水の排水口付近やダイバー連中のお漏らしなんかには集まりがちじゃ」

そう言ってアクアヴィーテは、コレッタの買ってきた紙袋からコーヒーカップを取り出し一口啜る。

「うーム。やはり本場のカプチーノは最高じゃのお。デカフェなんて猫のしょんべんじゃ。そう思うだろルーファスよ」

ルッチはカップの蓋の小さな『デカフェ』シールを見つめながら、そっすねえ、と適当に相槌を打つ。

「…ともかく、サメを意図的に呼び込むことも可能ってわけですか」

ダニーはメモ帳にさらさらとペンを走らせる。

「不可能ではない、程度に覚えといて損はないの」

「クソみたいな確率っすけどね」

「…なるほど。ご意見、ありがとうございました」

頭をぽりぽり掻いてため息を溢し、メモ帳をパタンと閉じて、ダニーは窓の外のオレンジを見つめた。

今もあそこに、何匹、何十匹もの人を喰うケダモノが泳ぎ回っていると思うと、自然と体は強ばってしまう。


「ダニー」


ふいにルッチに呼ばれ、ダニーは我に返る。

「そろそろおいとましようぜ。これ以上聞ける事は無えだろうし、長居も悪いしよ」

「…そうですね」

「なんじゃもう帰るのか。デナーと一緒にサメトークでも、と思ったんじゃが」

「すみませんねえ。仕事が立て込んでまして」

ルッチは芝居臭いため息混じりに荷物をまとめ始め、ダニーもそれに習い、乱れたイスや役場の備品の整理を進めていく。

そして各々帰り支度を済ませると、

「ありあとっしった。なんかお話があれば、…っと」

ルッチは自分のメモパッドから一枚走り書きを認め破り取り、

「おれのケータイの番号っす。こちらまで、ご連絡を」

そう言ってコレッタに手渡す。

「っす。…ま、ねえでしょうけど」

「ねえ事を願います。では」

そうはにかんで、ルッチとダニーはコーヒーブレイクを楽しむ二人の研究者を置いて、多目的室を後にした。



「戻りました」

 短い明滅を繰り返す殉職の近い蛍光灯が照らす、警察署のオフィス。ほとんどの職員が退勤を済ませたか、まだ職務の最中で出払っているのか、ダニーとルッチ以外、片手で数えきれるほどしか人は居ない。

ダニーが一息つきながらオフィスを見渡していると、

「おう、お帰りよ」

コーヒーが満たす紙コップ二つを引っ提げて、ラツィオ署長がデスクに歩み寄ってきた。

「あ、ありがとうございます」

「あざっす」

二人は淹れたてのコーヒーの優しい温もりを受け取り、ずずず、と啜る。

安い苦味が舌を走り抜け、喉を通り抜ける頃には脳が否応なしに目覚める。バールのエスプレッソでは味わえないこのインスタントな感覚に、ダニーは学生時代の夜長を何度も助けられた事を思い出した。

「それで?どうじゃね、『サメ』は」

期待にニコつく署長をよそに、二人は同時に肩を落とす。

「今のとこ、事件のじの字もねえっすよ」

「したっぱがサメに食われ、マフィアのボスが逆上している、と、現段階ではそう結論付ける他ありませんね」

「それなら事件性ナシ、で流しても問題無いんでは?」

ふいに後ろから割り込んできたのは、

「サンデー警部。お疲れ様です」

捜査帰りの爽やかスマイルを携えたサンデーだ。

「っよ、真面目ボーイ。不真面目にできた?」

「解剖の立ち会いは三分の二くらいサボってたっすね」

「三分の二不真面目か。上出来だ」

そう言って肩をポンと叩かれるが、眉をひそめる署長を前にダニーは萎縮する。

「署長。今は『サメ狩り』の取り締まりに人員を割く事に集中しないと、島民を守れないですよ。聞いたところによれば、今日、何人か死傷者も出てるとか」

そんなッ、と身を乗り出すダニーだったが、その勢い余る肩に手を置いて、ルッチは黙って首を横に振った。

サメが複数いる、と伝えようとしたところを止めてきた相棒の意図が読めず、ダニーが戸惑っていると、

「その取り締まり強化こそ、ヴィン・サント(やつら)の狙いにも思えんかね」

眉をひそめながら考え込んでいた署長は、ふと顔を上げ、そう言った。

「と言うと?」

サンデーも腕を組んで、聞く姿勢に入る。

「視点を『海上』に集中させることで、『海中』への注意を散漫にさせられる」

「…海中に、何があると?」

「違法なブツ、とかですかい?」

今、何よりも欲しい事件性を示す物証。

サンデーの試すような物言いへのルッチの一言に、ダニーも頷く。

しかしサンデーはやれやれとため息を溢し、

「そうかもしれないなあ。あったらいいなあ。…そんな考えで、捜査の方針を決めるべきじゃないでしょう署長」

二人の部下から視線をそらし、ラツィオに詰め寄る。

「マフィアの一斉検挙なんていつでもできる。今は島民の暮らしと、観光客の安全を守るのが先決では?」

「確かに言えているが…どうも引っ掛かる」

「それじゃ何ですか。今もホオジロザメが悠々と泳ぐ海域に部下をめい一杯潜らせて、あるかもわからない、ゴールの見えない宝探しをしようってんですか?」

「サンデーよ。わしはそこまで愚かじゃあないさ。ただ、『一人二人』、沿岸警備隊の手伝いから外れたところで大局が動くとは思わない、そう言いたいんじゃ」

サンデーは額に手を当て、俯きがちにため息を吐く。

「なるほ、ど。署長の考えはわかりました」

「君の部下を少し借りるが、良いかね?」

敵わんな、と肩をすくめたサンデーは、考えをまとめ終えるとダニーとルッチに向き直った。

「気は進まないんだが、君達二人には単独でヴィン・サントの痕跡を追ってもらうことになる。大多数はしばらく沿岸警備隊の手伝いに回るから応援も無いと思ってくれ。…それでも、捜査を続けてくれるか?」

「なあに。わしもサンデーも、出来得る限りの手助けはするさ。安心したまえ」

ラツィオ署長の睨みに、サンデーは肩をすくめる。

「署長と俺が、応援に入る。…捜査を、続けてくれるな?」

渋りを滲ますルッチをよそに、


「はいッ、やらせてください!」


ダニーは一歩踏み出し、胸を張って言い切った。



 日も完全に沈み、警察署前の街灯がぽつぽつ灯りだした。正面玄関の木の扉から出ると、ガードレール脇の駐輪スペースでボロのシティサイクルのカギと格闘するルッチがいた。

「たまには油でも注したらどうです」

ダニーの提案にルッチは、ふいい、と汗をぬぐいながら腰を上げると、

「いつも頭ん中がいっぱいいっぱいで、つい忘れちまうんだ」

一つ伸びをして気だるげに言う。

街灯に頭を打ち続ける蛾の儚い響きと、ガチャガチャと言う錆との格闘の音が、沈黙を埋める。

「…どうして、さっき俺を止めたんです」

混じりけの無い透明っぷりに、ルッチは思わず手を止め、ため息を溢した。

「なあダニーよ」

「何です」

「お前さん、『ネズミ』って知ってるか」


ぽと、っと、足元に、ついに力尽きた蛾が落ちてきた。


「…潜入捜査、ですか」

「警察からマフィアに。…マフィアから警察に。情報っつう武器を手に入れるために、お互い古典的な手で日夜静かな戦争に明け暮れてる」

「しかしあの二人に限って」

「ダニー。あの部屋に俺達四人以外、誰がいたよ。あいつら全員の名前や年齢、家族構成、恋愛遍歴から過去の恥ずかしエピソードまで全部言えんのか?」

「…それは、わかりません、けど」

「たまには先輩らしく、良い事を教えてやる。いいかよく聞け」


「署内では、気安く情報を、口にするな」


「…はい」

お、あいた、と、奥さんからのお下がりの赤いママチャリのカギを外し終えたらしい。ルッチはぎぎいと錆びた軋みを響かせて、自転車に跨がる。

「ま、何にせよ今は目の前の仕事に集中だ。明日っから気合い入れてくから、覚悟しとけよルーキー」

黙ったままの頷きを、街灯の白さが浮き彫りにする。

ルッチは、まあ大丈夫か、と何も問い詰めることなく、ギコギコとペダルを漕ぎ出すが、


「ルッチは」


ダニーの呼び掛けに、その足を止める。


「ルッチは、ネズミじゃ、無いですよね」


ルッチはしばらく空を見上げて考えるが、

「逆に聞かせてもらうが、お前はネズミか?」

いつもの人懐っこい笑顔で聞き返してきた。

「…俺は、違います」

「ふうむ。可能性アリ、と」

そう笑って、ルッチは再びギコギコとペダルを漕ぎ出すのだった。


意味の無い問いしか出てこない自分に呆れ、ダニーは一人、夜の歩道のただ中に俯く。

と、そこへガチャリと後ろの木の扉が開く音が聞こえてきて、

「おい、どうした真面目ボーイ。女の子にフラれたみたいな顔して」

サンデーが心配そうに歩み寄ってきた。

「いえ…相棒をバールに誘ったんですが、フラれまして」

「はは。アイツは退勤後は真っ先に家に帰るからな。仲間との飲みより、家族との時間を大事にする男だ」

「なるほど。…覚えておきます」

励ましも虚しく部下のなかなか晴れない表情に、サンデーは腕を組んで少しばかり考えると、

「相棒にフラれたなら、上司の誘いにはノってくれるのかい?」

ダニーの落ちた肩に手をポンと添えて、続ける。

「昼に行ったっていうバール。飯は何食べたんだ」

「ヴォルゲッテですか。…ええと、カルボナーラです」

「ふむ。マスターのカルボナーラか。あれもウマイよな」

「ええ、ぜひまた食いたいですね。あれ目当てに毎日通いた」

「いや待て。お前は何にもわかっていない真面目ボーイ」

「え」

サンデーの初めて見るような呆れっぷりに、ダニーは何か地雷を踏んだかと怖くなる。

「ヴォルゲッテに行って、カプレーゼを頼まないバカが居てたまるか」

「はあ、カプレーゼ」

「ああそうだ。俺の妹のお手製カプレーゼ。摘み取るバジルの審美眼といい、味わい深い塩加減といい、この世の何よりもウマイ飯…いいや、あれは新たに産まれた世界に調和をもたらす」

「あの警部」

「なんだ」

「行きます」

「よおし、俺の奢りだ。マズイなんて言わせんぞ?」


どの道連れてかれることは確定だったのだ。

新興宗教の勧誘じみてくる前に、ダニーはサンデーの誘いに乗って、カフェ・ヴォルゲッテへと足を運ぶ。


道中、道端の街灯の短い明滅が、オフィスの空気を思い出させる。ルッチの忠告が、何度も脳裏を掠めていく。


ネズミなんて居ない。裏切り者なんて居ない。

そう何度も言い聞かせたが、ダニーの中で育ち始めた疑いの芽は、もう萎れる事はない。


裏切り者は、誰だ。


一つの前提が、産まれてしまった。



∀本日の一杯

○アニチェ

アニゼット、アニス酒。その名の通り、アニスシードから作られる蒸留酒に砂糖と各種スパイスをブレンドしたもので、地中海周辺諸国で古くから親しまれてきたお酒。基本的には無色透明だが、水で割ると柔らかな乳白色になるという、ウーゾ効果という性質を持つ。

アニスの花言葉は「活力」「人を騙す」「慈愛」。

香りなんかに騙されないと自信のある方は、ストレートで。

エマルションの移ろいを楽しみたい方は、水割りでどうぞ。



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