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猫の九生

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 

 真っ白な空間にいる。

 あらゆる匂いを拾い、嗅ぎ分ける鋭敏な鼻でも、どんな小さな音でも方向を特定し、聴き分ける繊細な耳でも、何も感じられないこの空間。

 本来なら危険を察知できないことに恐怖を覚えるはずなのに、その恐怖すら感じない異常性に、当初は随分と警戒していた。

 しかし、こうして9回目ともなればなんと言うことはない。日常生活でこのような空間はないし、ここに来てようやく以前にも来たことがあったと思い出すくらいだ。

 ただ、いつものように寝ていればいい。危険もなければ刺激もない、おまけに時間の経過もわからない空間でできることはないのだ。

 強いてできることを挙げるならば、周りにある色とりどりのビー玉を転がすくらいだろうか。

 初めてこの空間に来た時は一個だけだった玉が、夢を見るたびに1つずつ増えていき、今回もまたひとつ新たに加わって合計九個ある。

 ころん、と何となく新しい玉を右手の指先で突けば転がる。左手で反対方向に。そしてまた右手で。少しずつ前へと進んでいく玉のスピードがどんどんと速くなり、気付けば全力で追いかけていた。

 こつん、と別の玉にぶつかって予想外の方向に跳ねてはっと我に返った。周囲にいくつものビー玉があるということは、元の場所に戻って来たらしい。

 玉を追いかけることも飽きたことだし、やはり寝るしかないはずが、どうにも目が冴えていた。

 先ほどまで追いかけていた目の前にある玉から目が離せない。

 ……そういえば、この色はなんだろう。

 青や緑、黄色とも違う見たことのない色。

 転がっている他の玉も、以前ここに来た時とは違う色をしていた。

 そう気付いたら、猛烈にそれが何かを確かめたくなると同時に、どうにも空腹感を覚えた。

 これまでの夢ではお腹が空いたことはなかったのに、今回だけなぜか食べたいという欲求が湧き上がる。

 食べられそうなものは、目の前の玉だけ。

 どうせ夢なのだから食べてしまおう。

 一番小さな黒い玉をちろりと舐めると舌先でしゅわしゃわと溶ける。


 寒い。お腹が空いた。みんなどこ?

 寒さと空腹で小刻みに揺れる体で懸命に母や兄弟を呼ぶ。その声は自分の耳ですら微かに聞こえるだけだった。

 それでも、動くことすらままならない体では、声を上げることしかできない。

 その声も、だんだんと間隔が開いていく。

 あぁ、このまま死ぬのかなぁ。

 眠気に抗えずにそのまま瞼を閉じた。


 これは、初めてこの夢を見た時の直前の記憶だ。

 そう。お腹も空き、寒さと家族のいない心細さで、このまま死んでしまうんじゃないかと怖かったのだ。

 もっとも、夢から覚めたら家族はいたのだけれども。

 そう思い出しながら、口の端をぺろりと舐めた。

 空腹は少しだけ満たされたけれど、満腹にはほど遠い。今度は藍の玉に狙いをつけて口を開いた。


 しとしとと雨が降っていた。

 濡れる体を不快に思いながら、一番下の妹を探すために駆け回る。妹は体が小さくて力も弱いから、守ってあげないといけなかったのに、どこに行ったのだろう。

 声を張り上げても、行ったことがない場所まで足を伸ばしても、結局、妹は見つからなかった。

 母はただ、どうしようもなかったのだ、とだけ言って、そのまま黙ってしまった。

 その夜は、いつも体を寄せ合っていた妹の体温がなくて雨に濡れたからか、震えるほどの寒さを感じながら眠りについた。


 これは、2回目の夢を見る前の記憶。

 あの時は体を小さく丸くして眠りに落ちた寝床の冷たさが悲しかった。

 もっとも、目が覚めたら妹は体をくっつけて寝ていたけれど。

 くあっと大きくあくびをして、次の玉を選ぶ。

 この、青よりも深く、藍ともまた違う色にしよう。


 怒声を浴びる。

 長い棒のようなものを振って追いかけてくる大きな体から全走力で逃げる。

 急カーブを勢いよく曲がり、そのままの家と家の間の小道に体を滑り込ませ、息を潜める。

 見失ったのか、そいつは悪態をついて息を荒げたまま去って行った。

 ちょっと食べ物を分けて貰って、のんびり日向でうたた寝を楽しんでいただけなのに。

 嫌な気分を忘れるために、別のお気に入りのお昼寝スポットでふて寝をした。


 これは、3回目の時のだな。

 お腹いっぱいで気持ちよく眠っているのを邪魔する奴は嫌いだな。

 もっとも、目が覚めたら嫌な奴はいなかったからいいんだけど。

 軽く伸びをして一息つくが、満腹にはまだ足りない。

 今度はこの見たことのない色にしよう。


 後ろ脚がジクジクと痛い。

 いつもの道を散歩をしていると犬に遭遇してしまい、咄嗟に逃げた先は見知らぬ土地。

 犬がまだいる可能性もある以上しばらくは戻れない。今後また似たようなことが起きるかもしれないので、探索を始めたのがよくなかった。

 出会った同胞は気が立っていたらしく、挨拶しようとした瞬間に殴りかかられた。咄嗟に反撃するもそのまま喧嘩に突入した結果のこのざまだ。

 ひょこひょこと片足をなるべく地面につけないように不恰好に歩く。ドロリと伝う血の匂いが不快だった。

 当分、これは痛むだろう。

 挨拶をしようとしただけだったのに!

 思い出すとふうふうと息が荒くなる。何とか気を落ち着かせていると、早く怪我を治すために普段よりも早く寝ることにした。


 あれは腹が立った。

 4回目の時を思い出すとまたムカムカとしてきた。

 もっとも、目が覚めたら傷は綺麗に治っていて、また元気に走り回れたからいいんだけど。

 しかし、ふと先ほどの光景に違和感を覚える。

 そういえば、血が見たことのない色をしていた。

 あの色は、と記憶をひっくり返していると、先ほど食べた玉と同じ色をしていた思い至る。

 あれは、見知らぬ血の色だったのか。

 鮮やかな色に痛みの記憶が合わさって、ぞわり、と背筋が泡立つ。

 あんな思いはしたくない、とため息をついて気分転換に緑色の玉にかぶりついた。


 お気に入りのソファでまどろんでいると、そっと背中を撫でられる。

 いつものご飯の時間だったらしい。

 ゆっくりとご飯を食べ終えて、気分転換に窓際に行くと犬の吠える声がした。外を見ると犬がリードを力強く引っ張って飼い主に怒られている。それでも犬はグイグイと前へ進もうとしていたが、伸びていたリードが巻き取られて大きな声で叱られていた。

 いつもの光景か。

 興味もなくなり窓際から離れて家の中を気の向くままに歩き回った後、もう一眠りしたくてソファで横になった。

 そのまま寝入りかけたタイミングで頭を撫でられたが、気分じゃなくて頭を左右に振る。すぐに離れた手をよそに、眩しさから逃れるように手で顔を隠してふたたび心地よい眠りについた。


 あぁ、これは5回目だ。

 それにしても、犬はあんなに不自由を強いられて嫌じゃないのかな?

 気持ちよく好きなタイミングでご飯を食べたり、自由に散歩できるのって大切。それが許される環境ってホッとするし信頼できるから撫でられても嫌じゃないし気持ちいいんだよね。

 もちろん、目が覚めても好きに過ごせて良かったなぁ。

 ほかほかした気持ちで次の玉を狙う。

 ちょっと怖いけど、この見知らぬ血に似てるけども柔らかい色をしている玉にしよう。


 つん、と背中に何かが当たって振り返った瞬間。

 細長い緑の何かが目に入って体が大きく跳ね上がる。

 こっちは心臓がバクバクしているのに聞こえてくる聞きなれない笑い声。

 見知らぬ人が家にやって来たと思ったらコレだ。

 ジリジリと距離をとっていると、近くのドアが開いて咄嗟に隙間を縫って走り出した。タイミングもよく、玄関の扉も開いていた。

 外に飛び出して、沈み始めた太陽を横目にそのまま駆け出した。


 あれはびっくりした。

 6回目のことを思い出すとちょっと心臓がドキドキする。

 驚かしてきたうえに、それを笑うなんて全くなんてやつだったんだろう。

 もっとも、家に戻って寝て起きたらそいつはいなかったからいいんだけど。

 そういえば、夕日の色もまた違っていた。

 さっき食べた球と同じ色をしていたってことは、あれも見知らぬ夕焼け色だったのか。

 なるほど、と1つ頷いて残りの球を数える。

 青と黄色と白。

 なんとなく目についた青に顔を近づけた。


 ゆらゆらと目の前で羽が揺れる。

 右。左。時に床を這うように。緩急をつけて動く羽を目が自然と追いかける。

 高速で目の前を横切るそれに反射で手を伸ばすと大きく弧を描いて頭上に逃げた。咄嗟に全身のバネを使い空中へと飛び上がって捕まれば羽は大人しくなった。

 戦利品をちょいちょいと突いて遊んでいると声をかけられた。振り返ればお皿にはいつものご飯に大好きなトッピングが載っていた。

 その匂いを我慢できずに走り寄って食べるとあっという間になくなってしまった。空っぽのお皿をじっと見つめる。

 静かに、おとなしく、見つめる。

 見つめているとご飯が追加されると知っている。

 そして、普段より食べたらいつもよりもたくさん遊んでくれるのだ。

 満足するまで遊んだ後、お気に入りのベッドへ横になると睡魔が襲ってきた。それに抗うことなく素直に目を閉じた。


 これは7回目だな。

 ご飯やおもちゃをじっと見つめれば、願い事は叶うのだ。

 しかも時々、予想を超えてお気に入りのご飯や新しいおもちゃが出てくるから、今回はどうだろう、とワクワクしながら待つのも悪くない。

 もちろん、目が覚めてからもワクワクできたしね。

 次はどうしようかな。

 ウキウキしながらちょっと悩んで、黄色の球に手を伸ばした。


 柔らかな毛布に寝転がり、全身を伸ばす。

 そのままのんびりしていると不意に名前を呼ばれハッと目が覚めた。いつのまにかお腹を上に向け熟睡してしまっていたらしい。

 仰向けの姿勢のままぼんやりしているとお腹を撫でられた。さわさわと手が上から下へと何度か往復して、そのまま喉、頬、耳から頭へと撫でくりまわされる。

 絶妙な力加減にうっとりとするのも束の間、手がそっと離れていった。心地よさを追うように体を起こすとご飯の時間になっていたらしい。のんびりと食べ始めて、すっかりキレイになったお皿に満足感を得た。

 お腹いっぱいに食べた後はソファでくつろぐ。

 静かにゆったりと流れる時間。心地よさにうつらうつらしていると、まんまるに膨らんだお腹に軽く触れられて、くすぐったさに身じろぐ。その手はそのまま背中に周り背筋を繰り返し撫でてきた。温かな手を感じながらそのまま眠りに落ちた。


 あの手の温かさは気持ちがよかった。

 満腹で微睡むのも格別だし、8回目のことを思い出して心がほかほかする。

 もちろん、目が覚めても温かな手もおいしいご飯も当たり前にあったし。

 うーん、もうそろそろお腹いっぱいだけど、この白い玉はとってもおいしそう。でも、もったいなくてもうしばらく眺めていたいような、早く食べたいような。

 ちょっと躊躇って、数秒見つめる。

 ミルク色の表面がゆらゆらと柔らかに光る。

 その優しい色に誘われるようにそっと口に含んだ。

 

 寒くてお腹が空いていたけど、大きくて温かな手に包まれから怖くなくなった。

 目が覚めたら兄弟はいなかったけど、大きくて小さな君がいたから悲しくなかったよ。

 高い声を上げてよたよたと拙い歩く君に、追いかけられてすぐに隠れたけど、君が泣いたからちょっと嫌だった気持ちは消えたんだ。

 力一杯に撫でられたのはちょっと痛かったけど、怒ったらすぐにやめてくれたね。

 いつも一緒に遊んでくれるのに気が向かない時はそっとしておいてくれたから、君の側にいると安心したんだ。

 大きい音にびっくりして家の外に逃げちゃったこともあったけど、一生懸命探してくれてそれからは気を付けてくれたね。

 そろそろかな、って思っているといつも真っ先に遊んでご飯をくれたから、いつもそわそわと待っていたんだ。

 優しく撫でる手もおいしいご飯も静かな時間も全部当たり前にあったから、毎日嬉しかったよ。

 

 少しずつ体が動かなくなっても、ご飯が上手に食べられなくなっても、寝てばっかりになっても。

 目が覚めた時に隣にある温もり。微睡の中で感じる手の柔らかさ。呼びかけてくる甘やかな声。鼻をくすぐる優しい香り。

 ずっと君は変わらなかったね。

 きっと、幸せってそういうこと。


 あぁ、違うや。

 ここに来る直前、夢現の中で撫でてくれる手は震えて少し冷たくて、声は少しだけ鼻声で、病院に行った後だったからちょっと慣れない匂いがしてたな。

 それだって、きっと幸せなんだって知ってるよ。

 


 気がつけば白い空間に戻っていた。

 

 知ってたよ。

 本当は、知ってたんだ。

 ここは夢だけど夢じゃない。

 新しい命をもらう前に、ちょっとだけ過ごす不思議な場所。

 だから、いつものように新しい道が光るのを待っていたらいいんだ。

 だけど、もうちょっとだけ。もう1回だけあの白い玉が出てこないかな。

 

 きょろきょろと周囲を見回すと、ぽうっと道が淡く光った。

 その先は真っ白で何も見えないけど、だけど安心するような、ずっと幸せにたゆたっていられそうな気がした。

 

 そっちに歩こうとしたら、ぽうっと反対側が光った。

 その先はたくさんの色が入り混じっていて、綺麗な色もあればちょっと嫌な色もあった。

 

 どっちに進もうかな。

 でも、そろそろ眠くなってきたし、白い道の方が気持ちよく眠れそうだな。


 一歩、足を進めた時。

 甘やかな声が聞こえた。

 思わず振り返る。

 さまざまな色に染まった先から、呼びかけてくるのは丸く柔らかな声。

 もっとその声を聞きたくて、耳を澄ませて色とりどりの道に近づく。

 一歩進むごとに少しずつ大きくなる声。

 だんだん早足になっていく。

 優しい香りに誘われるようにその道を走り出す。

 色鮮やかな道を駆けていくと、そっと体に触れる手の柔らかさも感じ始めた。

 

 走る。

 どこまでも。

 走る。

 この道の先まで。

 走る。

 君に、また会えるように。

 

 

 もうすぐ、会えるよ。

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― 新着の感想 ―
新着からタイトルに惹かれて読みに来ました。 猫さんが新しい命をもらう度に少しずつ良い環境?になっていき、9回目の猫生で幸せを知ることができて良かったです。 昨年見送った愛猫を思い出して涙しました。 大…
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