第1話 破滅フラグは折れるまでが仕事
「――婚約破棄など、断じて承服できません!」
大理石の床に膝をつきながら、私は完璧に計算された角度で涙を浮かべた。眼下で震える白い手は、丁度良い具合にローズクォーツの指輪を光らせている。王立図書館のステンドグラスから差し込む朝日が、このシーンの演出に一役買ってくれたようだ。
(これで3回目の予防線...王子の好感度40はキープできてるはず)
眼前で青い軍服の裾を翻したルドルフ第一王子が、煩わしそうに眉をひそめる。
「アリシア、これは命令だ。政治結婚の必要性が――」
「お言葉ですが」私はゆっくりと顔を上げ、数時間鏡の前で練習した「切なさ3割・尊大さ7割」の表情を浮かべた。「クローデル家の威信にかけましても、このような一方的な決定は承諾できません。少なくとも半年間の猶予を頂戴したい」
(半年あれば北東領地の魔物被害を鎮圧できる。原作だとここで拒絶して即破棄ルート突入だけど...)
王子の手元にある書類――実は密かに魔物の巣窟化している国境の報告書に視線を走らせる。ゲームではこの情報を利用してヒロインが活躍するイベントだが、今は私が先回りする番だ。
「では条件を出そう」ルドルフが騎士の剣のように鋭い目線を投げつけてくる。「来月の北東巡察に同行せよ。貴女が真の貴族としての資質を見せれば――」
(来月!?原作より2ヶ月早い!?)
冷や汗が背中を伝う。明らかにゲームと現実のタイムラインがズレている。これは想定外だ。
「畏まりました」深々と頭を下げながら頭脳はフル回転。(魔物討伐の準備期間が足りない。となれば...騎士団の動員を前倒しにする必要がある。あと食糧備蓄と避難路の確保...)
退出の礼を述べつつ、私は王宮の絨毯を踏みしめる。爪先まで神経を行き渡らせ、背筋を伸ばした悪役令嬢の佇まいを崩さない。
(大丈夫。ゲーム知識だけが武器じゃない。この17年間、領地の財政改革もしてきたし、庶民派貴族としての評判も作ってある)
廊下の窓から中庭を見下ろすと、白いドレスの少女が花壇に佇んでいる。光の聖女リリアン――本来なら最大のライバルになるはずのヒロインだ。
(彼女の孤児院支援には匿名で資金提供してあるし、魔導師ギルベルトの研究にも協力してる。これで敵対ルートは回避...のはず)
ふと、リリアンが不思議そうに空を見上げる仕草に目が留まる。その視線の先には――本来ならゲーム後半に出現するはずの黒い飛竜が雲間に消えていく。
「...え?」
指先が震えるのを感じた。これは明らかなエラーだ。ゲームでは最終章のラスボスである「闇の飛竜」が、まだ封印されているはずの時期に...
「お嬢様、馬車が用意できました」
執事の声に我に返る。深呼吸して香水の香りを胸に満たす。(想定外こそが日常。それがこの世界の真実なら――)
「帰路の途中で商業区に寄って。新規取引の小麦商人との面会を前倒しするわ」
私は悪役令嬢らしく高笑いを演じつつ、頭の中では領地の防衛計画を再構築し始めた。
(生き延びるためなら手段は選ばない。だって――この世界で死んだら、次はないんだから)




