八話『彼女がなりたかったもの』
御璽が杏奈に顕れてからたった5日。
その5日間で王都周辺は建国以来、類を見ない悪天候により大打撃を受けていた。
雨は弱まり、びゅうびゅうと風が吹き荒ぶ中、一台の馬車が走っていた。行先は、王都の教会が管理する森の奥に建つ、白亜の塔だ。
「霊羅の塔って階段しかないんでしょ?
え? もしかして今から最上階まで登んなきゃないの?」
「……最上階は個人の居室になっているので、11階にある応接室を利用します」
最悪じゃん、と変わらず悪態を吐く杏奈を見ながらジェイドは握りしめた拳が震えるのを収めようと、小さく息を吐いた。
王都は暴動一歩手間の緊張状態が続いていた。
この国は、女神の力を授けられた聖女によって、過度な不作や水害などの天災がほぼ全くといっていいほど起きない国だ。
もちろんこんな急な悪天候に対応できるものなどいないし、王都周辺となれば貴族や声の大きな商人も多い。
普段当たり前に享受している平穏が手に入らない時、人間は酷く傲慢になるらしい。
怒りの行先はもちろん、初めは教会に向いた。
聖女の仕業だとなんとかしろと不平不満が相次いだ。しかし、どこからともなく、王宮に聖女を騙る女がいて、それが聖女の邪魔をしてこのような天気になっているーーーーと、事実と嘘を混ぜたようなそんな噂が流れはじめてから不満の行先は変わった。
王宮、強いては王族と杏奈に。
教会側も王宮側も、箝口令が敷かれていた。
それでも、どちらも一枚岩ではないし、話すなと言われても「すこしくらい」と話したくなるのが人間というものである。
噂と噂がくっついて憶測を呼び、小さな事実にその噂の信ぴょう性が増していき、気づけばそれが皆の真実として「偽聖女を出せ」と王宮の前には人々が押しかけていた。
「約束を違えないでくださいね」
打つ手がなくなりかけたジェイドは、アンネローゼに会わせてくれれば天候を回復させるという杏奈の言葉を信じ、面会許可をとった。
事情を添えた手紙をつけ、アンネローゼからも『熱が下がらないので長時間は無理だが自分も現状には心を痛めているので力になれるのであれば』という内容の返事が来た。
以前貰った手紙より弱々しい文字に、彼女の体調が思いやられジェイドは胸が締め付けられる思いだった。
「だいたい、もっと前に会わせてくれたら良かったのに断ったのは聖女サマのほうじゃん。
あ、今はもう聖女じゃないんだっけその女」
ギリッ、と奥歯の鳴る音がした。
それでも国のために、ジェイドは杏奈をアンネローゼの元へと連れていったのだった。
・・・・・・
「なんでぇ!!」
塔の応接室に現れたアンネローゼを見るなり杏奈は金切り声を上げた。正確には彼女を支えて現れた彼を。
「イグ様!! なんでその女といるの!!!」
「その名で呼ぶ許可をした覚えはない」
ぴしゃり、杏奈を見ずに一言で答えた彼は、アンネローゼを見ながら優しく微笑む。
「気にせんでええよ。飲み物もってこよか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとう」
優しくリードしてアンネローゼを座らせた彼を見ながら、ジェイドも歯噛みした。
自分がしたいことを他の男がしている。自分は好きな人を罵る女を、国のためとはいえ好きな人に会わせている。傷つけるかもしれないとわかっていて。
どちらがアンネローゼに寄り添えているのか、それが如実に現れていて、添い遂げられないのならせめて王子として気高くいようとしていた彼の小さな矜恃さえもグチャグチャにされた気分だった。
「ふざけないで!!!」
音を立てて杏奈はテーブルを叩いた。
唇が怒りで震え、髪の毛は逆立ちそうなくらい彼女は煮えたぎった。
「なんでよ! あんた転生して攻略失敗してるんでしょ!? そんな隠しルートあたし知らないわよ!!! どんな手を使ったのよこのアバズレ!! くそビッチ!!! この世界もジェイドもイグもあたしのなのに触んないでよ!!!!」
思いつく限りの暴言とともに、杏奈は手近な紅茶をアンネローゼに投げた。アンネローゼを待つ間に出されたのだろうぬるくなった紅茶の入ったカップは、アンネローゼを庇った紫髪にぶつかって、彼の美しい眉目に紅茶が滴った。
「自分の顔鏡で見てこい。お前みたいな不細工みたことないわ。性根が腐りきってる」
「イグさま……」
冷たいその言葉にびくりと肩を震わせながらも杏奈はその男の横のアンネローゼを睨んだ。
「そうやって弱々しいふりしてたら男の人が庇ってくれるから楽よね! あたしにどんな恨みがあるの!? 自分だけ可愛こぶったり被害者ぶるのやめてよ!」
「いい加減にしてくれ!」
自分勝手な言い分が止まらない杏奈に、たまらずジェイドが声を荒らげる。
杏奈は絶望したようにジェイドをみた。
「ジェイドまで!! どうして」
「貴方は、聖女の力を持っているのかもしれないが、聖女などでは、決してない……わたしの聖女はアンネローゼだけだ……」
冷たいどころか、温度のない言葉だった。
失望すらも通り過ぎて、杏奈の方を見ていても、そのエメラルドの瞳はなにも写していなかった。
「すまない、アンネローゼ。
この国をなんとかしたいがために無理を言って不快にさせたことを詫びる。……なにか別の方法を考えるよ」
「いえ、お気になさらず。
それから、天候の乱れは明日には落ち着くと思います」
「……! まことかアンネローゼ!!」
腰を浮かせたジェイドに、うっすらとアンネローゼが微笑む。
目の下の濃いクマや疲労困憊しているのだろういつもの煌びやかさもなく、申し訳ないと頭を下げて異界の少女を連れてきたジェイドが、自分が寝込んでいる間どう過ごしていたのかアンネローゼには想像できた。
「ええ、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした。おそらく大丈夫ですよ」
その言葉にジェイドはほっと胸を撫で下ろした。
が、それでおしまいにできないのが隣の女だ。
「なによ……なんでよ……」
杏奈は泣きじゃくっていた。
聖女と崇められるどころか偽聖女と民衆には罵られ、キャラクター達は塩対応ばかり、最推しのイグナシオに関しては一度しか会えず、聖女の力を手に入れても彼女の世界は変わらなかった。
そして、イグナシオとジェイドは明らかにアンネローゼに心を向けていた。自分が、自分そこにいるはずなのに、と、ボロボロと涙を流し、顔を赤くしながら杏奈はアンネローゼをなおも睨んだ。
「あたしが、みんなに愛される聖女になるはずだった、のに……」
泣きながら告られるその言葉に、アンネローゼは嘆息した。
「愛されたいと望むなら、聖女なんてやめておいたほうがいいですよ。愛だの恋だのから程遠い生活ですから」
アンネローゼから見れば、彼女は聖女を夢見るただの女の子だった。聖女であることを望んでいるようで望んでいない。
そんな彼女にかける言葉はそれだけだった。