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7.騎士の願い

 

 下働きの朝は早く、夜は遅い。


 クレアが身に纏っているのは支給品の質素で固い生地のブラウスとスカート、その上に飾り気のないエプロン。硬い皮のブーツも支給品だ。王女時代にメイドが丁寧に梳ってくれていた長い赤髪は、今は艶もないし手触りも悪い。肌にも爪にも艶はないし、手は水仕事で荒れている。

 憧れの姫様の姿を今も大切に胸に抱いているライノにとっては、現在の自分は随分みすぼらしく見えるのだろうな、とクレアは一人で頷いた。


「……でも、フィガロの民を苦しめてしまっていた時よりも、気持ちだけはずっと楽だわ」


 大切な人が辛いぐらいならば、自分が辛い方がクレアにとってはずっといい。

 下働きとして慣れない仕事を課せられているし、他の下働きの少女達には地味に嫌がらせを受ける日々だが、それらは全て自分の手の届く範疇のこと。逆に考えれば、自分自身の努力で状況を覆すことが出来る筈だ。

 そう考えてクレアは気持ちをしゃっきりとさせると、今日の仕事へと向かった。


 下働きは、侍女やメイドのように仕事の区分が決まっているわけではなく、仕事は雑用全般と多岐に渡る。

 特に、クレアのような厄介な立場の下働きは、その日によって様々な仕事を押し付けられていた。

 他の下働きとの折り合いが悪かったり、フィガロの元王女が顔を出しては不味い場面だったりと理由は様々。

 その所為でクレアは突然その日初めての仕事を押し付けられることもしょっちゅうで、すると当然満足に仕事も出来ない、というレッテルを貼られてしまうのだった。


「こんな簡単なことも出来ないのかい!? 元王女様ってのは本当に使えないね!」


 案の定今日もそう言われて、掃除係の下働きに叱られていた。


「申し訳ありません……!」


 クレアが深く頭を上げると掃除係の年配の女性は腹立たし気に溜息をつき、三つの木箱の中にずらりと並んだ燭台を示す。


「今夜の晩餐会に使うから、夕刻までにこの燭台を全部綺麗に磨き上げておきな!」

「は、はい!」


 ざっと見ても燭台は全部で百個ほどあってクレアは青褪めたが、仕事に拒否権はない。他の掃除係の様にテキパキと臨機応変に働くことが出来ないのだから、せめてコツコツとした作業で数をこなすしかない。

 年配の女性が別の仕事へと向かって行ったので、クレアはまずは他の人の邪魔にならないように燭台の入った木箱を抱えて用具室を出て、裏庭に面した外ベンチへ運んだ。


「さて、急がなくちゃ」


 往復して三箱全て運び終わるとベンチに腰を据え、用具として支給された柔らかい布とクリームを使って一つ一つ磨いていく。

 クリームのおかげでみるみる綺麗になるものの、数がどうしようもなく多い。まだ午前中だが、夕刻が期限だとすれば昼休憩を摂っている暇はないだろう。

 晩餐会は皇太子と側近達の、内輪の食事会という体のビジネスディナー。今日はその準備で上級使用人達は勿論、下働きに至るまでバタバタとしている。城の端の用具室、更にその外ベンチで黙々と作業をしているクレアに構う者は誰もいない。

 途方もないが、黙々を作業に没頭すること自体は悪くなかった。


「これで、やっとひとつ……」


 やがてピカピカになった燭台をみて、ほぅ、と溜息をつく。

 今日は誰にも呼び出されず、静かに没頭出来そうだ、と二つ目の燭台を手に作業スピードを速めた。


 それから時間が経ち、昼休憩を告げる鐘が遠くで鳴っているのが聞こえたが、クレアは最初に考えた通り昼食の時間を削って燭台磨きを進めるつもりだった。現時点で、なんとか半分ほど磨ききることが出来たので、このペースで進められれば夕刻に間に合う。


 しかし早朝から続けている作業、しかも休憩なしとくれば、だんだんと疲れが出てきて効率が落ちていく。

 つい最近までお姫様として傅かれる生活をしていたクレアは、他の下働きに比べて体力も持久力も劣っていた。


「……ん」


 疲れて手が痺れてきて、ついにペースが落ちてくる。

 ちっとも難しいことは言われていない、座ったままだし燭台をひたすら磨くだけ、という簡単な仕事の筈なのにそれすら完遂が危うい状況にクレアは情けなくなった。

 そこに、


「姫様?」

「……ライノ」


 驚いたように琥珀色の瞳を丸くしたライノが現れて、驚きと安堵の感情がない交ぜになってクレアは思わずポロリと涙を零してしまう。

 それを見て、ライノは血相を変えてクレアの足元に跪いた。相変わらずの上等な黒衣の騎士服。その膝が汚れることを構う様子はない。


「姫様! なにかあったんですか? どこか痛い? 辛いことがあった?」

「違うの……ライノの顔を見たら、安心しただけ」


 泣いてしまった自分が恥ずかしくて、クレアは慌てて目元を拭う。

 ライノはしばらくオロオロとしていたが、本当に怪我をしたり具合が悪いわけでもなく、ただ安心して思わず涙が零れてしまったというクレアの主張にようやく納得してくれた。


「この燭台を全て磨くんですか? 無茶でしょう、誰か呼んできます」


 ざっと状況を見たライノが立ち上がってそう言うので、クレアは作業の手を止めずに首を横に振る。


「いいえ。先輩の掃除係は、私に他に出来ることがないのでこの仕事を回してくれただけで、意地悪をしようとしたわけじゃないわ。だったら、一人で磨ききることの出来る量を渡されている筈でしょう?」


 この忙しい日に、わざわざクレアに嫌がらせをする余裕のある者はいない。

 だったら掃除係として、この燭台磨きは適正な量の仕事なのだ。


「じゃあ……せめて、俺も手伝います。ずっと下働きをしている者達と同じように仕事をこなすなんて、まだ無茶です」

「駄目よ。フィガロはもうないし、私は二度と王女には戻らない。これからは、こういう仕事を他の人達と同じ様にこなしていく必要があるの」


 さきほどクレアが自分を情けなく思ったのは、元王女だからと言い訳をしたくなかった為だ。

 こうして生きていくしかないのだから、自分が以前何者であったかなど、関係がない。下働きとしてきちんと仕事をこなしたかった。


「でも……昼食も摂っていないようですし……せめて、姫様が食事をする間だけ、俺が替わるとか……」


 跪いたライノの傍らには、美味しそうなハムと野菜のサンドイッチの入ったバスケットがあった。一緒に昼食を摂ろうと思ってきてくれたらしい。


「ありがとう。でも、私が頑張りたいの」


 心遣いは嬉しいが、ライノに甘えて生きて行くわけにはいかない。クレアの返事に、ライノは迷子の子供のように視線を彷徨わせた。


「姫様……でも……でも、俺になにか、出来ることはない……?」


 しょんぼりと眉を下げる美丈夫に、思わずクレアはきゅんとなってしまう。

 作業を手伝ってもらうわけにはいかないが、ライノが来てくれた瞬間ホッとしたのは事実だ。


「じゃあ……退屈かもしれないけれど、ここにいてくれる? 次の予定の時間まででいいから」

「傍にいてもいいんですか?」


 パッ、とライノの表情が輝く。

 いつもは素っ気なくあしらっているのにクレアの方から傍にいて、と言われて喜んだのだ。


「うん……ライノが傍にいてくれたら、頑張れる気がして。……ごめんね、都合のいいことばかり言って」


 クレアは、申し訳なく思いつつ我儘を口にする。それを聞いたライノは、嬉しそうに笑って首を横に振った。


「俺が、姫様の傍にいたいんだ。それで、姫様の力になれるなら、いつまでだって一緒にいたいよ」

「……ありがとう」


 ライノの存在に励まされて、クレアはまたせっせと燭台磨きを続ける。

 彼はその隣に座って、磨き終わった燭台の数を数えたり他愛のない話を聞かせてくれたりしたが、クレアの望み通り作業を手伝うことはなかった。


 そして夕刻。なんとか無事木箱に入った全ての燭台を磨き終えて、クレアはそれを用具室に運び込んだ。

 ちょうど掃除係の年配の女性がチェックにやってきたので、報告をする。


「ああ、ご苦労だったね。ちょっと量が多かったんじゃないかと思ったけど、こっちまで手が回らなかったんだよ」


 彼女の言葉にクレアは目を丸くすると、掃除係はバツが悪そうに肩を竦めた。


「悪かったね。でも全部磨いてくれて助かったよ。今日はこれで終わりにしていいよ、ご苦労さん」

「はい。お疲れさまでした」


 ぽん、と肩を叩かれて、クレアはほっとその肩から力が抜ける。

 掃除係が去ってから磨きに使った道具を片付けようと外ベンチに向かうと、そこにはまだライノが待っていてくれた。


「ライノ。長い時間付き合ってくれてありがとう」

「どうしたしまして。俺も……久しぶりに姫様と一緒に長くいられて、嬉しかった」


 ライノは嬉しそうに笑って、こちらに歩み寄ってくる。たっぷり酷使した所為で痺れているクレアの手をとって、労わるように恭しく撫でた。


「姫様、すごく頑張ってたね。……本当に、俺が守らなくても、俺がいなくても……姫様はちゃんとやっていけるんだ……」


 クレアが仕事をきちんとこなしたことが誇らしく、けれど自分なしでやっていけそうなことが寂しいらしい。複雑そうに眉を顰めるライノを見て、クレアもつい微笑んだ。

 そう、まさに、自分は大丈夫、というところをライノに見せたい気持ちもあった。でも結局彼に傍で見守って欲しい、と我儘を言ってしまったのだから、大成功とはいえないだろう。

 だが、ライノがいないとダメだ、とは絶対に言えない。言ってはいけないのだ。


「……そうよ。私のことは大丈夫だから、心配しないで、ライノ」


 我ながら綺麗に笑えた、とクレアが内心で自画自賛していると、ライノはまだ丁寧に撫でていたクレアの手を更に持ち上げた。

 そして、ちゅっ、と音をたてて彼はクレアの手の甲にキスをする。


「……ライノ」


 咎めるように名を呼ぶと、ライノは唇を尖らせて拗ねた表情を見せた。


「姫様が大丈夫でも、俺が大丈夫じゃないです。心配させて。大切にさせて。姫様のことが大好きなんだ」

「…………」


 ここで黙るからダメなのだ、と分かっていても、クレアはライノを強く拒否出来ない。

 心の中で、囮としての使命感やフレドリックとの約束の為にライノを拒否しなければという思いと、クレアだって愛するライノを受け入れたいという誘惑が争う。

 それでも、今はもう無くとも、クレアはフィガロの悪辣王女である。


「しっかりなさいな。あなたはもう、帝国の黒衣の騎士なのよ」


 クレアの拒絶は、ライノにひどく傷ついた顔をさせてしまった。



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