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5.明朗な高貴

 

 ようやく、明らかに渋々しょんぼりと肩を下げて城の方へと戻っていくライノを見送って、クレアは洗濯の準備に取り掛かる。

 水は冷たいし治る前にまた荒れるあかぎれにはうんざりするが、ここから逃げ出すつもりはなかった。

 せっかくライノが拾ってくれた命だ。自分から捨てるつもりはないし、だからと言ってライノの願い通り彼にさらに保護されるわけにはいかなかった。


 ただでさえ、フィガロ王女なんかの助命嘆願の所為でライノの帝国での地位は脅かされている。

 この上さらにクレアを自分の庇護下に入れるとでもなれば、騎士としての名誉も伯爵としての地位も危うくなるだろう。


 城というある種特殊なパワーゲームの盤上での戦い方は、元王女であるクレアの方が心得ている。

 ライノは純粋すぎるのだ。クレアを救いたい、その一心だけでいるには彼の今の地位は高すぎて、そして親族の後ろ盾がなく脆過ぎた。

 今や急成長しすぎたライノを疎ましく考える者は城内に多くいて、彼らはクレアというウィークポイントを突いてライノを失脚させる、もしくは力を削ぐことに躍起になっているのだ。

 そんな輩にいい様に利用されて、可愛いライノを不幸にしてたまるものか。


 クレアは元王女としての知見と、ライノへの庇護欲だけで現在の状況を乗り切っていた。

 本音を言えば、ライノの提案に頷いてしまいたい。

 あの潤んだ熱量を保つ瞳を見つめ返し、何からも守ってくれる長い腕に抱きしめられて生きていけたら、どれほど幸せで甘美なことだろう。


 あれほど一心に愛情を示されて、心の揺らがない者などいない。まして、クレアとて昔から彼のことは弟のように大切に思い、それ以上に強い恋情をずっと抱いてきたのだから。


 荒れていくフィガロに絶望せずにずっと王女としての矜持を保てていたのだって、どこかでライノは幸せに生きていてくれる筈、という希望をよすがにしていたからなのだ。


 でもそれではダメだ。

 クレアとライノが一緒になったところで、ライノに利益はない。彼を幸福に出来ない自分など、彼には必要ないのだ。


 そこにひやりとした声がかかる。


「クレア嬢」


 全くライノを含め、誰もかれもがクレアの仕事を邪魔をしにやってくる。

 ライノの邪魔にならず彼の失脚を望む者の糾弾材料にならずに過ごすには、クレアは無難に下働きをこなすのがベストの筈なのに、これではちっとも仕事にならない。


「…………何か?」


 渋々顔を上げると、黒髪に緑の瞳の青年がへらっと笑って立っている。桶の中の水をその顔にかけてしまえたらどれほどスッキリするだろうか、と不穏なことを考えつつ、クレアは最上級の礼を執った。


「ご用でしょうか、皇太子殿下」

「ちょっと面貸してくれ」


 にっこりと胡散臭く笑ったのは、フレドリック・ロガ・ローデュバル。この帝国を統べる皇帝の長子、皇太子殿下だった。


 皇太子殿下の執務室に連れてこられたクレアは、勧められたソファに無表情で座る。

 部屋にはフレドリックと彼の直属の部下が二人だけ。人払いがされていた。


「ライノからの申し出は、断ってるな?」


 向かいのソファに座るなり前置きなくフレドリックに言われた言葉に、クレアは鼻白む。


「発言を許していただけますか?」

「許可する」

「…………御自ら頻繁に確認にいらっしゃらなくても、ちゃんとライノの申し出は全て断ってますわ。そんなに心配なら、私をさっさと城から追い出してくださいませ」


 クレアが嫌味たっぷりに言うと、控えていた部下達はぎょっとした。皇太子たるフレドリックにこんな失礼な言動をする者はいないのだろう。

 しかしクレアは自分は不敬で殺されることだけはない、と確信していたので予め許可も得ていたことだし、と忌憚なく言葉を発した。


「あなたを城から放逐したら、ライノも出て行くだろう」


それを聞いて、思わずクレアは溜息のように笑みをもらす。


「……初手で失敗なさいましたこと、皇太子殿下。ライノが私を見つける前に、どさくさに紛れて私をさっさと殺しておくべきでしたのに……」

「そうだな、心底後悔している。フィガロへのクーデターの最中、あなたが誰よりも早くライノに見つかってしまったことが、今となっては悔やまれる」


 フレドリックは行儀悪く舌打ちしたが、クレアはその通りだと苦笑してしまう。

 かつて、クレアによってフィガロ国から逃がされたライノ。帝国に向かった先で彼を見出したのが、お忍びで視察をしていたこの皇太子殿下だったのだ。

 彼はライノの人並外れた能力を瞬時に見抜き、彼が順調に騎士見習いになるとすぐに自分の下に付けたのだという。

 いくら実力があっても注目されているのといないのとでは、出世のスピードが違う。そういう意味でフレドリックに見出されたライノは幸運だったのだろう。


 めきめきと頭角を現し、結果黒衣の騎士となり見事フィガロ国のクーデターの際にクレアの命を救ったのだ。

 そういう意味では、フレドリックはクレアの恩人といっても差し支えない。だがその恩人は心底クレアのことを苦々しく思っているようだ。


「ライノは帝国にとって貴重な人材だ。亡国の姫なんぞにやるのは惜しい人材なんだ、分かってくれるかクレア嬢」


 彼にそう言われて、クレアは当然と頷いた。


 お忍びで騎士見習いを装っていたフレドリックは、ライノに同期のフリをしていたらしい。その間に紡いだ友情は本物で、黒衣の騎士としてのライノは勿論、友人としてのライノも離しがたいのだとか。

 帝国の皇太子にこれほどまでに望まれているライノが、クレアは誇らしい。フレドリックの言葉にはクレアに対する棘があるが、現状を考えれば当然だと考えていた。


「私には身に余る子です。しっかり捕まえておいてくださいませ、皇太子様」


 黒衣の騎士の嘆願を却下することが帝国政府には出来ず、クレアは生きながらえた。だがそこまでだ。

 ライノがクレアを安全で何不自由ない場所に置きたい、という願いまでは却下され、彼女は下働きとなった。


「あの子の幸せの為ならば、あの子自身に嘘をつくこともしてみせますわ」


 誰よりもクレアを優先しようとするライノ。だがクレアは、ライノに彼自身を優先して欲しかった。

 中から見ていても、フィガロは腐って溶け落ちていくのがよく分かっていた。


 叔父である王がそうしていることを理解しつつ、当時ほぼ軟禁状態だったクレアにはどうすることも出来なかったのだ。

 多くの人を苦しめた。止められなかったからといって、王女のクレアに責任がないわけではない。

 失われゆくフィガロ国と、首を跳ねられる叔父王。それらと命運を共にするつもりだったクレアの下に、ライノは眩しいぐらいの光を引っ提げて現れたのだ。


『あなたがいらないならその命、俺にください。あなたが欲しい、あなたしかいらない』


 熱烈な告白のようなその言葉は、死を覚悟した恩人を現世へ繫ぎ留める命綱だった。

 もう十二分にクレアはライノに救われた。

 あとは彼の人生に邪魔にならないように、生きていきたいだけだ。クレアが生きること、それがライノの望みなので死ぬわけにだけは、いかない。


「……それで……今日はいつもの確認だけではありませんわよね? わざわざ私をここまで連れていらしたのだから」


 クレアがそう言うと、フレドリックは顔を顰める。

 本当にフィガロが健在であったのならば、この賢い王女と政治的に敵対するのはかなり厄介な相手だっただろう、とフレドリックは考えていた。

 先代王の世間知らずな一人娘と捉えるには情勢に聡く、状況を読むのに長けているのだ。クレアがもしも王女ではなく、王子として生まれていれば或いはフィガロの未来は変わっていた、と思えるほどに。


 実際は先代王が亡くなった際にはクレアはまだ幼い雛で、その所為で叔父に王位を奪われてしまったのだけれど。


「逃げ延びたフィガロ政権の生き残りが、不穏な動きをしているらしい。唯一生き残った王族である、あなたを担ぎ上げようと考えているかもしれない」

「それはそれは……」


 クレアはそれを聞いて顔を顰める。

 叔父王の悪政の元で甘い汁を吸うばかりだった者達が、今更どの面下げてクレアの前に現れるというのだろう。

 見てみたい気もするが、帝国としては脅威ではなにしても併呑した国の政府関係者がしゃしゃり出て来るのは見過ごせないだろう。摘める内にさっさと謀反の芽は摘んでおきたい筈だ。


「……分かりました。もし接触された際には必ず殿下にお話しすると誓います」

「ライノには言うなよ」


 そう言われて、過保護なことだ、と自分の行いは棚上げしてクレアは笑った。


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