4.そして現在
どんっ、と肩を押されて、クレアは抱えていた籠ごと転倒した。
「やだ、汚ぁい」
「お姫様は洗濯も出来ないの?」
くすくすと笑う声に、クレアはキッと眦を吊り上げる。
「きゃーこわぁい」
「悪辣王女に首を刎ねられちゃう!」
きゃっきゃっと嫌味たらしく笑う下働きの少女達に向けて、クレアは地面の砂を握りしめると立ち上がりざまにバサリと投げ放った。
「ちょっと!」
「何すんのよ!!」
「それはこっちのセリフよ、下働き風情が偉そうに! あなたたち、本気で首を刎ねられたいの?」
彼女が啖呵を切ると、少女達はじりじりと後退し何事か捨てセリフを放ってばたばたと逃げて行った。その背をきっちりと見送ってから膝をついたクレアは、零れた所為で土がついてしまった洗濯ものを籠に詰めていく。
「まったく……どうせ転ばせるなら、洗濯前になさい! 洗いなおしじゃないの」
この寒い季節に水場で懸命に洗ったシーツの山だ。
午前中に洗いきって干しても、夕方にきちんと乾いているか心配なぐらいだったのに、また大急ぎで洗濯しなおさなくてはならない。
クレア・フィガロは、かつて大陸の東に存在したフィガロという国の王女。
だった。
宝石のように複雑に輝く青色の瞳はフィガロ王族の特徴であり、今や彼女一人しか持っていない色である。
フィガロは乱れた王政に疲弊した民衆が、帝国に助けを求めて起こしたクーデターにより滅ぼされた。
しかし、実際に政治を乱れさせて民を苦しめていたのがクレアではなかったことや、ずっと彼女がささやかに民を助けていたこと、そして何よりクーデターの一番の功労者がクレアの助命嘆願をしたことから、彼女だけが王族最後の一人として生きながらえたのだ。
そして彼女は今、帝国の皇城で下働きをしている。
籠を抱えて水場に戻ると、ちょうどそこに背の高い青年がやってくる。
銀の髪に琥珀色の瞳、目を惹くほどの整った顔立ち。纏う騎士服は、帝国最強の騎士を表す黒衣で、袖と襟には赤糸の刺繍で特別な意匠が施されていた。
あのクーデターの夜にフィガロ王城の謁見の間にいた、黒鎧の騎士が彼だ。
ライノ・ブレイク。
彼こそがクーデターの一番の功労者であり、幼い頃に別れたクレアの幼馴染だった。
「姫様!」
彼はクレアに気付くと、ふにゃりと目元を緩めた。まるで雪の花がほころぶ風情に、クレアは顔を顰める。
籠を地面に置くと、粗末なスカートを摘まんで美しい所作で礼をした。
「おはようございます、ブレイク伯爵」
彼女がそう言うと、ライノの表情がハッキリと曇る。
「そんな呼び方しないでください。昔みたいに呼んでほしい……」
「……過去がどうであろうと今のあなたはライノ・ブレイク伯爵様で、私はただの下働きです。言葉を交わすことも許されない身分ですわ」
「姫様!」
たまりかねたライノは、クレアの腕を掴んだ。
力は強いが、こんな時でされクレアの腕を痛めないように加減されているのが分かる。
「お願いだから、名前を呼んで、姫様……」
クレアよりもうんと背が高くて、帝国最強の騎士の称号と伯爵位を得ているというのに、その表情は迷子の子供のようだ。小柄なクレアが見上げるとその悲しげな顔がよく見えてしまい、彼女の胸も締め付けられる。
ここでハッキリと拒絶しないとライノの為にならない、と分かっているのにクレアにはそれが出来ない。
どれほど強く大きくなろうと、称号や地位を得ようと、クレアにとってライノは可愛くて泣き虫の可愛い子だ。
フィガロから逃した、とはいっても急に追い出されたライノがその後どれほど苦労したかはクレアには計り知れない。まして、帝国最強の騎士にまでなるには、それこそ血の滲むような努力が必要だっただろう。
「……ライノ」
そっと名を呼ぶと、彼の表情はぱぁっ、と輝く。
「うん、姫様!」
「……何度も言っているでしょう? もう私は姫ではないのよ」
「でも俺にとって、姫様は姫様だよ」
頑是ない子供のようなことを言われて、この問答も何度目だろう、とクレアは溜息をつく。
「もういいでしょう? ……あなたも仕事に戻りなさい」
「今日は午前中は非番なんです。姫様の仕事を手伝わせて」
「馬鹿言わないで。帝国最強の騎士に洗濯なんてさせられないわ」
「俺だって、姫様の手がこんなに荒れる仕事、させたくない」
ライノはクレアの手を両手で包んで、辛そうに呟いた。
王女として生まれ、傅かれて育ったクレアの手はいつもすべらかで美しかった。幼い頃その優しい手に髪を撫でられることが、ライノにとっては何よりも至福の時間だったのだ。
今はあかぎれが目立ち、手触りは驚くほどざらりとしている。誰より大切な人であるクレアがこんな苦境にいることが、ライノには耐えられない。
「……あのね、ライノ」
静かなクレアの声に、途端ライノは泣きたくなった。
いつものように、宥められてしまうのだ。
何度頼んでも、クレアはこの状況から抜け出そうとしてくれない。ライノが得た地位を使えば、クレアを何不自由なく暮らさせることなんて簡単なのに。
「聞きたくない」
「ダメよ、聞きなさい」
こんな時だけ「姫様」として諭してくる。ライノの最愛は、とても厳しくてひどい人なのだ。
「私はもはや何の価値もない、それどころか忌むべきフィガロの悪辣王女なのよ。生きながらえているだけで感謝しなくてはいけないの」
「……俺が姫様の助命嘆願をしたのは、こんなひどい環境にあなたを置いておく為じゃないよ」
ライノは悲しくて顔を曇らせる。
フィガロを滅ぼしたクーデターの際、帝国最強を示す黒衣の騎士であるライノはいの一番に王城に乗り込み誰よりも活躍した。彼はあっという間にフィガロ王城を制圧し、悪政の源であったクレアの叔父、現在の王を素早く拘束したのだ。
その王と共に処刑される運命を当然のように受け入れていたクレアの命を救ったのは、ライノだった。
彼はその為だけに強くなり、その為だけに生きてきたのだから。
「失礼ね、そこまでひどい状況じゃないわよ。仕事もあるし、寝床も食事もある」
「……でもあなたは、本来ならこんなところにいていい人じゃない」
「そうね、本来なら処刑されるべき人よ」
「そういう意味じゃない!」
ライノが吼えると、クレアは肩を竦めて笑った。
「ねぇライノ、あなたのおかげで私は生きているわ。下働きを不幸のどん底みたいに言うのは、他の下働きの人に失礼じゃない?」
「それは……そうだけど……でも姫様は特別な人だよ……本当はもっと……」
眉を寄せてライノは抵抗してみせる。だがクレアに穏やかに諭されると、彼はどうしても抗えないのだ。
「もう王女じゃないから、特別でもないのよ。案外この暮らしも悪くないから、心配しないで。ね?」
「姫様」
ライノの琥珀色の瞳に、涙が盛り上がる。それを見てクレアは苦笑を浮かべた。
「しょうがない子ね。こんなに大きくなっても泣き虫なんだから」
「だって俺……姫様を助けたい。もっともっと幸せになって欲しいのに」
しょんぼりと項垂れるライノに、クレアは笑ってしまう。もう十分助けてもらった。
「嫌ね、この暮らしは悪くないって言ってるでしょう。十分幸せよ」
「でも……」
「生きながらえて、立派に成長したあなたが活躍する姿を見ていられるのだもの。幸せよ」
嘘だ。
多くの国が併呑されて出来た帝国、その皇城には様々な国の人が集まっている。
ただの下働きであっても母体となる国の出身かどうかは大きな意味を持ち、ましてクーデターで滅ぼされた国の王族であるクレアへの風当たりはひどく冷たい。
同じ下働きでも、彼女とそれ以外の人々への扱いは随分と違った。
だが他に何と言えただろう? クレアの為に強くなり、クレアを助ける為に騎士になったライノ。
彼に、これ以上何と言えただろうか。
「私の可愛いライノ。心配しなくていいのよ」
「……本当に? 姫様は……今の暮らしで、ちゃんと幸せ?」
ライノの瞳がNOと言って欲しい、と訴えている。
クレアがNOと言いここから逃げ出したいと一言言えば、彼は何もかも捨てて彼女を攫い遠くへ連れ出してくれるだろう。だがそれではダメなのだ。
亡国の王女の為になんか、今までライノが必死に築いてきた地位も名誉も投げ打って欲しくないのだ。
「ええ、幸せよ」
だからクレアは意識して強く微笑んでみせた。
言葉にして、それが真実であるかのように振る舞う。滅びゆくフィガロで、クレアがし続けていたことだった。
ああ、あの悪夢はまだ終わっていない。クレアにはそう感じられた。




