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2.北の獣


 もう十年以上も前の話だ。


 クレアの幼馴染であるライノは、大陸の北端の国で起こった戦争によって滅ぼされてしまった騎馬民族の生き残りである。


 珍しい銀色の髪に琥珀色の瞳を持っていたので殺されることはなく、旅芸人の一座で見世物として扱われていたのだ。

 一座がフィガロ国へとやってきて王の前で芸を見せた際に、檻に入っている姿を見せられたのが彼との出会いだった。


「お父様、あの子はどうして鎖でつながれているの? 何か悪いことをして、おしおきされているの?」


 無垢で無知だったクレアは、ライノの扱いを見てそう父に訊ねた。

 オーギュストは実徳な王だったが、各国を渡り歩き文化の違う旅芸人の在り方には口を挟まない。しかし、娘の質問にはきちんと答えてくれた。

 将来国を背負って立つクレアは、光の当たらない世界のことも知る必要があったのだ。


 旅芸人とは卓越した芸で人を魅了し収入を得るものだと思っていた幼い頃のクレアは、奴隷のようなそのライノの境遇に大きなショックを受けた。

 まだ現実を知るには幼すぎて彼女があまりにも悲しむものだから、さすがに娘を哀れに思った父王は彼の身柄を買い取ることにした。

 人をお金で買うことにもクレアはショックを受けたが、一座にとってはライノは財産の一つだった為その方法しかなかった。

 彼女は己の傲慢さが恥ずかしく、せめて彼への償いに我儘姫がお人形ごっこをしたいわけではない、ということを示すことにした。


「私の名前はクレア。ライノ、あなたのことは私に任せるとおとうさま……いえ、王から仰せつかっています」


 使用人によってぴかぴかに磨かれて質素な服を身に着けたライノは、顔立ちの整った、けれどやせ細った子供だった。

 小柄なのでクレアより少し年下だろうと勝手に思い込んでいたが、実は年上だったことを後に知る。


「はい、王女様」


 驚いたことに、ライノはフィガロ国も含む大陸共通語の発音が完璧だった。遠い国出身だと聞いていたので、まず語学を学んでもらおうと考えていたクレアには嬉しい誤算である。

 ただ読み書きは出来ず、では何故話せるのかというと旅芸人達が喋る様を見聞きして覚えたのだという。


「飲み込みが早いのね、素晴らしいことだわ」

「ありがとうございます」


 ライノは表情に乏しい子供だったが、彼を見世物と鎖から解放したのがクレアであることは理解していたので、彼女には素直に口を開いていた。


「あなたのことを解放出来たのは私の望みだけれど、ただの傲慢だったと私は考えているの」

「それでも、俺があなたに救われたことは事実です」

「……そう言ってもらえると、少しだけホッとするわ」

 クレアは苦く微笑んだ。


「……」

「でも、ただ一時解放しただけじゃあなたを助けたことにはならないと思うの。だから、私はこれからあなたにたくさん勉強してもらおうと思っていて、出来ればやりたいことや得意なことを見つけて、生きていく方針を決めてほしい」

「……」

「勿論、城から出て行きたければそうしてくれて構わないわ。少しなら資金も用立てられると思う。でも少しでも知識や能力を身に着けてからにしてくれると……嬉しいわ」


 クレアはそう言って、ライノを真っ直ぐに見つめた。

 せっかく解放することが出来たのだ、彼には自由に生きていって欲しい。だがこのまますぐに城を出て行ってしまえば、生活の手段のない子供のまま。

 そこで最低限でもいいから、知識やスキルを身に着けて一人でも生きていけるようになって欲しかったのだ。


「何かしたいことはあるからしら? 興味のある方面から勉強していけば……」

「姫様を」


 突然ライノが口を開いたので、クレアは首を傾げた。


「なぁに?」

「姫様を、お守り出来るようになりたいです」


 不思議なきらめきを持つ琥珀色の瞳に真っ直ぐに見つめられて、クレアはぱちぱちと瞬きを繰り返した。ついで、嬉しくなって微笑む。


「そう言ってくれるのは嬉しいわ。でも結論を急がないで、今はまだあなたは何も知らない真っ白な状態なの」

「でもこの気持ちは、変わりません」


 ライノがはっきりと言う。

 彼の今の気持ちは、真実そうなのだろう。見世物、奴隷同然の状態から救ってくれたお姫様。クレアに思慕を抱くのは、自然な流れだ。

 けれどいつか彼もフラットな視点を得て、クレアの行いは人助けではなく彼女のエゴだったのだと理解する時も来るだろう。


「……大人になってもそう思えたら、その時は私を守ってくれると嬉しいわ」


 彼女がそう言うと、ライノは小さく頷いた。


 それからライノはあらゆることに関する教育を受けた。

 彼は吸収が早く武術や学問は勿論、今後どこに行っても生きていけるように、と使用人達の仕事についてもよく手伝い学んだ。

 王女であるクレアに会える時は少なかったが、時折廊下ですれ違う時などは必ずライノに声をかけ、それが彼にはたまらない幸福だった。


 クレアの方でも、奴隷制度は国では廃止されている筈だったのに、ライノのように法の抜け道を使って不遇な目に遭っている者がいる、ということを知れたのは大きなことだった。

 オーギュスト王の意図したタイミングよりはかなり早かったが、唯一の王女としていずれはこの世の汚い面もクレアは知る必要があり、ライノのおかげで傷として残るのではなく、これから是正していくべき課題として受け取ることが出来たのだ。


 しかし、そんな風に穏やかに切磋琢磨出来た幸福な時間は終わりを告げる。

 オーギュストが体調を崩しがちになり、伏せる王の代わりに王弟であるジェラールが政治を執り行うようになっていったのだ。

 するとそれまで何も問題なかった他国との軋轢が問題に上がるようになり、北の国出身であるライノにも厳しい目が向けられるようになってしまったのだ。


 そしてついにライノが官吏達に暴行を受けている現場に出くわしてしまったクレアは、このままにはしておけない、と確信した。


「ごめんなさい、ライノ。ひょっとして以前からもこんな扱いをされていたの? 私、ちっとも気づかなくて……」


 自室に連れ帰ったライノの手当をしながら、クレアは涙を流す。

 彼を城に連れてきたのはクレアなので、ライノが受ける悲しみはすべて自分に起因していると感じてしまうのだ。


「いいえ、姫様。以前はそんなことありませんでした……王様が病になってから、何故か俺を疎ましく思う人が増えたみたいで……」


 ライノは見目麗しくも逞しい青年に成長していたが、だからといって誰かの地位を脅かすつもりはなくただ下働きの一人として黙々と仕事をこなしていただけだ。

 愛する憧れのお姫様に、時折声を掛けてもらえることだけを楽しみに。

 手当をしながら、明らかに仕事でついたのではないと分かるひどい傷跡に、クレアはますます悲しくなった。


「……ねぇライノ。いつか、お城を出て行ってもいいって言ったのを、覚えている?」

「!」


 ライノにとっては絶望的なことだったが、クレアはライノが城から出て自由で幸福になることを望んでいる。幼い頃から、ずっと。

 傍にいたいとライノは泣き縋ったが、クレアは自分の傍に彼がいてはいずれ殺されてしまう、と言い聞かせた。


 そうして、渡せるだけの路銀と他国への通行証を持たせて、クレアはライノをフィガロ国から追い出したのだ。



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