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19.愛してる


 それからは目まぐるしかった。

 ライノは帝国と教会にクレアとの婚約を申請し、あっさりと受理された。

 正直微妙な立場の自分と黒騎士の婚約など、許される筈がないと考えていたクレアには驚きだ。

 何を引き換えにしたのかと心配したが、これにはフレドリックの口添えがあったのだという。


 そしてクレアの不安を他所に、帝国で人気のある黒騎士の婚約に国民は沸き、相手がフィガロのあの悪辣王女だと知れ渡っても少なくとも誰にも表立って非難されることはなかった。

 それどころか黒騎士が幼い頃に彼を助け導いた姫として帝国民から支持され、クレアは大いに歓迎された。

 あまりの歓迎ぶりに、クレアはさすがに何者かの情報操作の意図を感じざるをえない。


 そう。帝国の皇太子は、あの時の「借り」をきちんと返してくれたのだ。


 おかげで、ライノは連日ご機嫌である。

 今も居間のソファに座るクレアの隣に座り、彼女を抱き寄せて首に懐いている。屋敷の使用人は長年ライノに仕えてきた者ばかりだったが、こんな風に振る舞う主の姿を見るのは初めてのようでひどく驚いていた。


「あー……幸せです」

「こんなことで?」


 ライノの銀の髪を指先で梳いて、クレアは苦笑する。

 幼い頃、共に過ごした日々では子犬の兄弟のようにじゃれあったこともあるのに、と。


「大切なことですよ、だって姫様は触れさせてもくれなかった」

「……下働きだったから」

「でも、もうこれからはずっと一緒です」


 うっとりとライノは呟く。

 いらなくなったら捨てて欲しい、という約束はちゃんと守って欲しかったが、心から幸せそうに笑っている彼にそれを告げて水を差すのは嫌だった。


「伯爵、仕立て屋がクレア様のドレスを持って参りましたので、離れていただけますか?」


 そこへぴしゃりと声が掛かり、ライノは顔を顰めた。

 クレアが視線を向けると侍女姿のサナが立っていて、ライノといちゃいちゃしているところを見られて恥ずかしさに顔が赤くなる。


 クレアの見張りの為に下働きとして潜入していたサナは、なんとその後フレドリックの密偵の役を辞して今はクレアの侍女をしてくれていた。

 フィガロでの侍女ベリルのように、厳しくも愛情を持って親しく仕えてくれる彼女にクレアは助けられっぱなしだ。

 ちなみにそのベリルは帝国の治めるフィガロ領で、家族全員で無事に暮らしているとライノが教えてくれて、今は時折手紙で連絡を取り合っている。それは、下働きになってから皇城の外の情報を一切得られなかったクレアにとって、何よりの報せだった。


 クレアがソファを立とうとすると、ライノが悲壮な様子でひき止める。


「ああ……姫様、一緒に行ってはダメですか?」

「レディの着替えを覗くおつもりですか?」


 子犬のように眉を下げたライノが可哀想で、うっかりクレアが頷く前にサナがまたピシャリと言う。


 ライノは以前言っていたように、婚約者となったクレアにドレスを贈ったのだ。

 当然ドレスだけではなく他にも様々な物を贈られて、下働きとしての価値観も持ち合わせているクレアはハラハラとした。だがサナに言わせると、彼は高給取りなのに今まで贅沢に興味がなかったので、クレアにどんどん貢いだところで伯爵家の財産は揺らがないらしい。

 ライノが無言でサナを睨むものだから、クレアはそっと手のひらで彼の頬を包んでこちらを向かせた。


「ライノ……ドレスを着たら、お披露目にくるからここで待ってて?」

「はい。なるべく早く戻ってきてください」


 うっとりとした彼に言われて、全く自分の婚約者は甘すぎる、とクレアは唇を噛んだ。

 サナを伴って居間を出ると、侍女である筈の彼女は呆れたため息をつく。


「クレア様、旦那様は猟犬です。甘やかすと付け上がります」

「サナ……分かってるんだけど、どうしてもあの目に弱くて……」

「もう、甘やかした所為で結婚後困るのはあなたなんだからね!」


 友人としての忠告に、苦笑を返すことしか出来ない。

 二人はくすくすと笑い合いながら、仕立て屋の待つ応接室へと向かった。


 そしてしばらくの後。その新しく仕立てたドレスを身に纏って居間に戻ると、クレアを見た瞬間ライノは感嘆の声を上げた。


「姫様……! 綺麗です」


 既製品を手直ししたものではなく生地から選んだオートクチュールなので、藤色に銀糸の刺繍のドレスはクレアの赤毛にもよく映える。


「ありがとう、ライノ」


 クレアとて年頃の女性なので、新しいドレスに袖を通すと気分が華やぐ。控えめだが繊細なレースに触れて、ほう、と溜息をついた。

 壁に飾られた姿見でおかしなところがないか確認していると、ライノが駆け寄ってきて後ろから抱きしめられる。


「ねぇ姫様。これを着てる姫様と出掛けたい。デートしてください」

「いいわよ。次のあなたのお休みの日に、お出掛けしましょう」


 嬉しさでぎゅっと更に抱き込んでくるライノの腕、苦笑して宥めるように撫でるとつむじに何度もキスを落とされた。


「ああ、姫様……夢みたいです。ずっとこうしていたい」

「それは駄目。もうお仕事に行く時間でしょう?」


 ぺしぺしとライノの腕を叩いて促したが、彼は梃子でも動かないとばかりにクレアの頭に頬擦りする。


「ライノ。仕事はちゃんとなさい」

「はい……姫様、どこにも行かずに俺の帰りを待っていてくれますか?」


 そっと腕が緩まり、ライノはくるりとクレアを半回転させて正面から向き合わせる。鮮やかな手並みに、クレアはぱちぱちと瞳を瞬いた。


「ええ、いいわ。ここであなたのことを待ってる」

「……」


 気持ち良く仕事に送り出してやりたくてクレアはにっこりと微笑んだが、何故かライノの表情は冴えない。


「……どうしたの? お腹痛い?」


 つい小さな子供に訊ねるみたいになってしまったが、ライノが首を横に振ったのでそこは安心した。皇太子の警護が職務の黒騎士が、体調不良だとしたら大問題である。


「ライノ?」


 先程まであんなに上機嫌だったというのに、今はシュンとしてしまっている。一体この短い間になにがあったというのだ。


「姫様は、俺がどんな我儘を言ってもいいよって言ってくれるけど、姫様は我儘を言わないよね?」

「う……ん?」


 ライノの意外な言葉を聞いて、クレアは首を傾げた。


「俺に気を遣ってくれているんですか? それとも遠慮させてしまっている? 俺がどうしようもなく幸せなぐらい、姫様も幸せでいて欲しいんです」


 そんな可愛らしいことを言う彼の唇に、クレアは微笑んでキスをした。


「姫様?」

「私だって、すごーく幸せよ。だから、大好きなあなたの可愛いオネダリをたくさん叶えてあげたいの」


 そう言うと、感極まったらしいライノにまた抱きしめられて、クレアは声を上げて笑った。


 たくさん辛い思いもしたけれど、そのおかげで今がある。

 幼い頃にライノを助けたことも、フィガロの滅びを止められなかったことも、下働きとして働いたことも、全て経て、今のクレアがあるのだ。

 ライノに愛し愛される幸福が続いていくとしても、クレアはこれからも自分の心に恥じることのないように、そして悔いのないように一生懸命生きていこうと思う。

 差し当たって、今は。


「姫様、大好きです」

「ありがとう。私もあなたのことが大好きよ、ライノ」


 可愛い婚約者に向けて、愛を伝えよう。


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