14.それ故に、つとめをなげだす
どれほど気を失っていたのか。
ガタンと音がして、クレアはびくりと震えて目を覚ました。
恐る恐る、体を動かすことなく視線をぐるりと巡らせると、場所はどうやら豪華な屋敷の客室のようだ。両手は拘束されているが、クレアが寝かされていたのは寝台の上だったので体は痛めていない。
そこまで確認してからゆっくりと身を起こして部屋を見回すと、扉の横には剣を腰に佩いた背の高い男が見張りとして立っていて、クレアは心の中で悲鳴を上げた。
自分が意識のない間に武装した男がすぐ傍に立っていたのだと思うと、それだけで生理的な嫌悪感と恐怖が沸き上がる。
「……ここはどこです」
その見張りに向かってクレアが問うと、彼は首を振って扉を開く。外にも誰か待機しているらしく、二言、三言会話をしてまた扉が閉じられた。
部屋には窓が一つありカーテンが引かれている所為で今は夜なのだと知れるが、捕まってからどれぐらい時間が経ったのかは分からない。
ここが皇城からどの程度離れているのかも、クレアには見当もつかなかった。
見張りは何も答えてくれないので、クレアはベッドから脚を降ろすと一度立ち上がって体のどこも痛めていないことを確認した。
全力疾走したので脚は疲労していたが、筋を痛めてもいないのは幸いだ。
体を解しながら部屋を見回してみると、調度は豪華だが趣味が悪い。そして武器になりそうなものはあらかじめ部屋から持ち出されているらしく、ピンひとつ見当たらなかった。
いざとなったら、ベッドサイドのテーブルに置かれたランプを引っ掴もう。
「……」
他に出来ることもなく、がっかりしてクレアは再びベッドに腰を下ろす。ベッドは柔らかく受け止めてくれたが、そんなことは何の慰めにもならない。
見張りの男が油断なくその一部始終を見ている気配がして、不快感が増した。
恐らく倉庫での一件で、ニールス侯爵はクレアから目を離さないよう見張りに言いつけたのだろう。
確かに脚が拘束されていない現状、ここまで張り付かれていなかったら自分は思い切って再度逃亡を試みていたに違いない。
さてどうしたものか、とクレアは思案する。
ニールス侯爵は、クレアが誘拐されたところで誰も気にしない、と言っていた。
だがフレドリックはその動きを読んでいてクレアを自由に動き回らせていたのだから、さすがに誘拐されたからといって知らぬふりはされないだろう。フィガロ政権の残党を掴まえたい彼は、クレアの誘拐が発覚すればすぐに探してくれる筈だ。
だが問題はそれがいつになるか、ということだ。
残党を掴まえたいだけなら、そこまで急いではくれないかもしれない。むしろ全員集まってから一網打尽に、とあの皇太子殿下ならば考えていそうだ。
フレドリックの性格を鑑みるとあながち被害妄想だとも思えなくて、クレアはうんざりした。こちらは誘拐された身だというのに。
相変わらず見張りはこちらを睨んでいるし、外からの動きも伝わってこない。
ベッドに座りなおしたクレアは、考えないようにしていたライノのことを脳裏に思い描いた。
もしもライノがこのことを知ったら、絶対に助けに来てくれるだろう。それは何の疑いもなく、クレアは確信している。だが、それはいいことなのだろうか?
フレドリックが秘密裏に追っていた、フィガロ政権の残党。ニールス侯爵はその中で最も大物だが、他の小物もついでに捕まえたい、と考えていたら?
彼らを纏めて捕まえるチャンスを、ライノはクレアの為にぶち壊しかねない。
そもそも囮になることだって必ず反対するに違いないので、フレドリックはライノに告げていない筈だ。
ふぅ、と溜息をつくとその音が意外に大きく部屋に響き、警戒した見張りの男が剣に触れる。ガチャ、という冷たい音が恐ろしくて、クレアは目を反らした。
「……少し寒いわね」
気を紛らわせる為にそう呟いて、クレアはベッドサイドのテーブルに置かれていたショールを羽織る。服装は攫われた時の下働きの粗末な衣服のままだったので、夜になると冷えた。
サナを守らなきゃ、という気持ちを支えに昼間は随分と無謀な動きが出来たが、一人になって冷静になると震えが駆け上がってくる。本音を言うと、こんなところに一秒だっていたくない。今すぐにでも助け出してほしい。
でも、ここにクレアがいるのは、彼女が負うべき責なのだ。
悪辣王女としてフィガロを守り、助けることの出来なかったクレアの罪を今こそ贖う時だ。
そこで、ノックもなくがちゃりと音をたてて扉が開き、クレアは言葉にならない程腹が立った。
国を亡くそうが下働きになろうが、クレアの心はどうしようもなく王女であり続ける。まして人のいる部屋にノックもなく入ってくる無礼に、顔を顰めずにはいられない。
「お目覚めですかな、姫」
「……私を姫と呼ぶのならば、相応の敬意を払って欲しいものね」
現れたのは予想通りニールス侯爵で、庭での問答を忘れたかのようにいけしゃあしゃあと言ってきた。クレアはさっと立ち上がって、ぴしゃりと応戦する。
「はは、威勢がよろしい。本当に、フィガロにいた頃とは別人ですな」
その言葉に、クレアは押し黙る。確かにフィガロの王女として国にいた頃の自分は、大人しくて何も出来ない女だった。
下働きになって失ったものは多くあるが、新しく手に入れたものも確かにある。それらがクレアを強く、自由にした。
「萎れた花のようなあなたも良かったが、じゃじゃ馬を乗りこなすのも面白そうだ」
「……?」
ニールス侯爵の言葉の意味が分からなくて、クレアは眉を寄せる。彼女がどう変わろうと、王女という存在を使おうとしている侯爵には関係ない筈だ。
怪訝な顔をしているクレアを見て、侯爵はわざとらしく笑う。
「ああ、姫には伝えてませんでしたね。あなたには、私の息子との間に次代のフィガロ王を産んでもらいます」
「は? あなたの、息子……?」
「その王族特有の青い瞳を持った私の孫が、次のフィガロの王になるんですよ」
何を言われているのが理解出来なくて、クレアは更に怪訝な顔をする。
しかし、含み笑いを浮かべるニールス侯爵が扉を開き、部屋に入ってきた男を見て呆然とした。
「ルー……カス……?」
そこに立つのは、見間違いようもなく、あのルーカスだった。
彼は庭師の甥としてクレアの前に立っていた時の質素な服装ではなく、侯爵と同じような上等な衣服を身に着けニヤニヤと笑っている。
改めてみると、茶色の髪といい灰色の瞳といい整った顔立ちといい、ルーカスはいかにもニールス侯爵の息子だった。
「あの時、俺の嫁になることに頷いてくれていたら、こんな手荒な真似はしなくて済んだんだがな、クレア」
「……あら、あの時誘われたのは、庭師の嫁だったと思うけど?」
クレアがルーカスを睨みつけると、彼はますます楽しそうに笑う。
「侯爵家の嫁だったら頷いてくれたのか?」
「一分の迷いもなく断るに決まってるでしょ」
「手厳しいな」
「これはこれは……姫はいつの間にか、我が息子と仲がいいようだ」
ニールス侯爵が鷹揚に頷いたので、クレアは眉を寄せた。
「その耳は飾りなの? 侯爵」
本当に王女のままだったならば、ルーカスに裏切られたと知ったショックでこんな風にすぐさま鋭く人を揶揄することなど出来なかった。下働きとして過ごした日々のおかげで、随分と図太くなったものだと自分でも内心で笑ってしまう。
「余裕ですね、姫」
ニールス侯爵こそ余裕の様子で微笑む。その頬を引っぱたいてやりたい、とクレアは睨みつけた。
血統を重んじる国、フィガロ。
特に王族特有の青い瞳は重要視されていて、クレアと同じ瞳を持つ父・オーギュストが賢王である以上にその瞳を持つが故に人気があった。
そして、それに嫉妬した弟のジェラルドがオーギュスト王を暗殺したと疑われていてさえも、王位を簒奪出来たのも王族の血を持つがゆえ。兄弟殺しの罪よりも、正統な血筋。
だからこそ、特別な瞳を持つクレアは王位に就く資格があり、囮になり得ると帝国の皇太子フレドリックは確信していたのだ。
だがニールス侯爵はクレアを王位に担ぎ上げるのではなく、クレアに自分の血の流れた青い瞳の子を産ませるつもりだという。
まったく、誰も彼もが狂っているとしか、思えない。
その悍ましい発想に身の毛がよだった。
「愚かなことを……! その目論見が上手くいったとしても、もうフィガロはないのよ!?」
王家の血を引いた者が誕生したところで、座る玉座などないのだ。
「私が用意しますよ。民だって、すぐに集まります……何も出来なかったあなたの助命嘆願が起こったのだって、いい証拠だ」
「どういう意味……」
そこでルーカスにグイ、と強引に腕を引かれてベッドに押し倒される。彼の端正な顔が近づいてきて、ニヤリと笑う。
いつも見せてくれていた明るく快活な笑顔ではなく、ねっとりと欲望の滲んだ表情にクレアは歯噛みした。向こうで、ニールス侯爵が上機嫌で口上を述べている。
「フィガロから逃げた民は、それでもその青い瞳の王を欲しているんですよ」
その言葉をどう受け取ればいいのか、クレアは困惑した。
瞳の色は、父から受け継いだものだ。勿論かつては、王族として誇らしく感じていた。
でももうフィガロはないのだ。この瞳の色にも、血筋にも、意味はないのに。クレア以外の誰かがクレアの価値を決めて、利用しようとしている。
それはニールス侯爵やルーカスだけではなく、囮として彼女を利用したフレドリックも、亡国の王女だからという理由でクレアに冷たくしてきた下働き達も同じだ。
クレアの価値はフィガロに付随していて、誰も彼女を見ていない。
そう思うと、青い瞳に涙が溢れた。
「ああ、クレア。怖がらなくていい。俺に大人しく従えば、何も怖いことはない」
ルーカスの言葉にクレアは目を細める。合意なく女性を組み敷いていて、なんと勝手な言い分だろうか。
そこで彼の上着の内側に護身用の短剣を見つけて、クレアは縛られたままの手でその柄を掴むと同時に、伸し掛かってくる男の腹を渾身の力で蹴り飛ばした。
「ぐぁっ!? クソッ、この……!!」
縄を切る時間の余裕はない。
涙の溢れる瞳でルーカスを睨み、クレアは短剣を自分の首に当てた。
「何をしている!」
「動かないで!!」
ニールス侯爵が怒鳴るが、もうクレアは怯まなかった。ルーカスは痛いところに蹴りが入ったのか、激しく咳き込んでいる。
クレアの意志はもう決まっていた。誰も彼もが自分を「フィガロの王女」としてしか扱わないのならば、最後ぐらいは自分で選びたい。
フィガロの民の為、ライノの望みの為に生きていたかったが、生きているだけでこんな連中に無駄に夢や希望を持たせるのならば、今となっては忌まわしいこの青い瞳と共にいなくなったほうがマシだ。
囮になる。フィガロ政権の残党を捕まえることに協力する。
けれど、彼らが野望を抱く火種であるクレア自身が消えてしまえば、フィガロ復活などと埒のない夢を彼らが抱くこともなくなる。
ライノのことを考えると、胸が締め付けられるほど辛いが、それでもクレアは気持ちだけは今でもフィガロの王女だ。
誰もが彼女を都合よくそう扱うように、クレア自身にとっても。
ならば、王女としての務めを果たさなければならない。
「ニールス侯爵、あなたの望みは叶わないわ」
覚悟を決めると、自分でも驚くほど穏やかな声が出る。
ちっとも面白くもないのに、フッと笑みがこぼれた。
ざまぁみろ。




