11.任されている仕事
「え……?」
「俺が……俺がお前をこんなところから連れ出してやるよ」
「急に何を言ってるの、ルーカス」
クレアは手を取り返そうと引いたが、ルーカスに強く握られていて放してもらえなかった。自分の体が自分の自由にならないことに、クレアは本能的に怯える。
「手を離して」
「一目惚れって信じるか? クレア」
更に手を引き寄せられて、手の甲に彼の唇が近づく。キスをされるのだと気付いて、クレアは抗った。
「嫌! やめて!」
恐ろしくなって叫ぶと、すごい速さと力でルーカスの腕が跳ね除けられて、クレアは何者かに後ろから抱きすくめられる。
しかし、こちらはちっとも恐ろしくなかった。
抱きしめられた瞬間、相手が誰なのか分かったからだ。
「姫様に触るな」
厳然とした強い口調。鋭利な刃物のような声。力強い腕と、抱き寄せられた温かな胸。
「ライノ・ブレイク……」
ルーカスの呆然とした声に、クレアを抱きしめているライノはフン、と鼻で応えた。
本来ならばクレアはライノの腕も拒絶しなければならないのだが、先程恐ろしい目に遭ったばかりの所為で思わず彼の腕に縋ってしまう。
それに気づいたライノは、ますますクレアの体を深く抱き込んだ。
「お前、見ない顔だな? 姫様に何をした」
「い、いや、俺は別に……」
鋭い琥珀色の瞳に睥睨されて、さすがにルーカスも怯えた様子を見せた。彼は口の中でモゴモゴと言いつつ、俯いたままゆっくりと立ち上がる。
今にもルーカスを斬り捨ててしまいそうなライノに、クレアは気力を振り絞った。
「ライノ! ルーカスは、私が絡まれているところを助けてくれただけなの!」
「だけ? でも姫様は怯えてたじゃないですか」
抱き込まれたまま、宥めるように彼の手がクレアの頬に触れる。ルーカスの時とは違いライノに触れられるのは何も怖くなくて、むしろ心地いい。
それが答えなのだ、とクレアにはよく分かっていた。だが、それを告げるわけにはいかない。
「それは、ええと……お、驚いて……」
クレアが目を泳がせると、ルーカスは身の危険を感じたのか素早く後ずさった。
「急に手を握って悪かった、クレア」
「ええ。ルーカス……それに気持ちは嬉しいけど、さっきのお話はお断りするわ」
はっきりとクレアがそう言うと、ルーカスは一瞬傷ついたように灰色の瞳を細めた。だがすぐに彼らしい明るい表情に戻る。
「あ、ああ、分かった」
「助けてくれて、ありがとう」
クレアがそう告げると、ルーカスは頷いて籠を抱え逃げるようにして去って行った。
せっかく友達が増えたと思ったが、これから彼との仲はギクシャクしたものになるだろう。だが求婚を断っておいて仲良くしたい、だなんて烏滸がましい。
ルーカスがクレアに好意を抱いているのならば、遅かれ早かれこうなってしまっていたはずだ。クレアは彼を選ぶことは、ないのだから。
そこまで考えて、すっかりライノに身を預けてしまっていたことに気づきクレアは慌てて身を捩る。ライノの腕はあっさりと外れ、二人の間には隙間が出来た。
「姫様。本当に大丈夫? 怖い目に遭ったんじゃないの?」
「平気よ。でもちょっと……困ってはいたから、助けてくれてありがとう、ライノ」
クレアがそう言うと、ライノは頬を緩めて嬉しそうに笑う。ソワソワと手が彷徨い、クレアに触れたがっては離れていくのがいじらしい。
「……騎士服が汚れてしまったわね」
地面に転んだ所為で、今日のクレアはより土埃にまみれている。最高級の生地で縫製された黒衣の騎士服を汚してしまったことは一目瞭然だった。
「こんなのどうでもいいよ」
「よくないわ」
「洗濯すれば綺麗になるし」
「誰がすると思ってるのよ」
クレアがそう言うと、ライノは困ったように眉を寄せる。
黒騎士の黒衣ならば、下働きではなくもっと階級が上の使用人が洗濯するだろうが、それでも洗うのがライノ本人ではないことは確かだ。
「姫様、言うようになりましたね」
「下働きが板についてきた、と評判なのよ」
わざと胸を張って言うと、ライノは可笑そうに肩を震わせる。それからほつれたクレアの髪を指で梳かした。
髪はいつも乱れているし、肌も荒れている。ライノの大好きなお姫様の姿とはかけ離れている筈なのに、彼の指先は相変わらず恭しく愛情に満ちていた。
「雑用なんてやったこともなかったのに……いつも、どこにいても姫様は全力で頑張ってて、すごいです」
「……当たり前のことをやっているだけよ」
「その当たり前が、なかなか難しいんですよ」
クレア自身から見ても今の自分の姿は見すぼらしい下働きの女なのに、ライノがうっとりとこちらを見つめてくるので恥ずかしくなる。
「ボサボサなのに、恥ずかしいわ……」
「姫様はいつでも綺麗です。頑張ってる姫様が俺は誇らしいし、大好きですよ」
「……でも下働きを辞めさせたいのでしょう?」
クレアが言うと、ライノはそこは頑として頷く。
「頑張る姫様のことが大好きだけど、俺は姫様に何一つ苦労も辛いこともして欲しくないんです。何の憂いもなく、幸せでいて欲しい。出来れば、その側に俺を置いて欲しい」
「……」
ライノはいつもクレアの欲しい言葉をくれる。
甘やかして欲しい時に甘い言葉をくれて、褒めて欲しい時に優しく誇らしいと言ってくれる。
その上で愛する人に愛を告げられて、クレアの心ははクタクタになった。抗うことが難しい。
この愛を何故受け入れてはいけないの? と心の中でもう一人のクレアが暴れている。
「……ライノ」
そっと彼の名を呼ぶと、すぐに琥珀色の瞳がクレアの青い瞳を真っ直ぐに見つめてきた。呑まれてしまいそうな、深い琥珀。それに身を委ねられたら、どれほど安心して幸せな気持ちになるだろう。
だが、クレアはまだただの下働きのクレアではない。悪辣王女にはまだ、仕事がある。
「私、今大事な仕事を任されていて……」
「うん?」
ライノは不思議そうに首を傾げる。
彼は恐らくそれが下働きの仕事だと思っているのだろう。それでいい。クレアはわざと誤解されるような言い方を選んだのだ。
「その仕事が終わっても……まだライノの気持ちが変わらなかったら、もう一度言ってくれる……?」
こんな言い方は卑怯だと分かっている。
囮は危険な役目で、フレドリックはクレアに護衛も付けていない。だから、フィガロ残党が無事釣れたとしても、その時にクレアが無事かどうかは分からない。
事が起こる前にこんな約束をしてしまえば、優しいライノはクレアにもしものことがあった後もずっと約束を覚えておいてしまうだろう。彼を縛るような言葉は、告げるべきではなかった。
でも、とクレアは自分に言い訳をする。
この仕事が無事に終わった後ならば、クレアは自分を許せるような気がしたのだ。ちゃんと囮としての役目を果たし、フィガロのクーデターの悪夢に決着をつける。
そうして初めて、悪辣王女と訣別することが出来てライノに向き合えると思ったのだ。
彼の愛を受け入れたい。クレアだって、ライノを愛しているのだ。
王女の責を下ろして、彼と幸せになりたかった。
「勿論! ずっと待ってるし、何度でも言います。姫様……」
思わず、といったようにライノに正面から抱きしめられる。力は強かったが抱擁は柔らかで、彼が喋ると触れ合った体が振動するのが愛おしかった。
「ありがとう」
クレアの言葉にライノは何度も頷き、いつまでも離してくれなかった。




