ミヨリ
ミヨリは宛のない旅をしている。ミヨリという名も本当のものではなく、誰かがつけたあだ名だった。そのあだ名を彼女は大切にしていて、ミヨリと名乗っている。
彼女がさ迷うのは現実感のない無人の世界だ。交差点や歩道橋は誰も歩かず、垣根の向こうから談笑も喧嘩も、はたまたテレビドラマの音もしない。言わば人が神隠しにあったように消失している。いいや、人だけに留まらず生物が存在しない。不気味な静寂が支配する異様な世界だ。
いつからかミヨリはこの人のいない世界に迷い込んだ。きっかけは学校が終わり、人間関係に疲れ果て、公園のベンチでぼんやりしている時である。遠くから聞こえていた救急車のサイレンや車の吹かす音、夕暮れ時に響く子供の笑い声―それらが不意に止まった。最初は気のせいかと思い、ぼんやりしたまま不思議な事もあるものだと関心さえしていた。
しかしいくら経っても喧騒が戻ってこない。
心のピントがやっとあってくると、異常事態なのだと初めて気づく。―周囲に誰一人いないではないか。先程までブランコを漕いでいた子供たちは?それを見守っていた親は?ベンチで眠っていたおじさんは?
きいきいとブランコだけが余韻で揺れている。忽然と姿を消した周りの人々にミヨリは恐怖した。
―公園がいきなり無人になることだってたまにはある。ならこの奇妙な間から逃げればいい。そう思い、公園を後にした。
ミヨリを捕らえた「魔の手」はそんな生易しいものじゃあなかった。すれ違う人も野良猫すらいない。
泣きわめいたり母の名を呼んだりもした。自宅まで走って、家族を探した。どこにもおらず──夕ご飯だけがテーブルに並べられていた。
これは悪い夢だ。そう言い聞かせ、家族の帰りを待った。──当然帰ってこなかった。
泣きながら食べ、自分の部屋に閉じこもり感情に任せて眠ってしまった。稚拙な想像で明日になれば元通りになると信じ…。
明くる日も家族は現れない。何かの災害か、映画のように宇宙人のせいか。さまざまな憶測を立ててみたけれども、解決策は浮かばなかった。そこでこの状況を反対に利用してやろうと試みる。
学校に通ってみたり、漫画喫茶で何日も篭ってみたり、カラオケをしたり、世間で不良と呼ばれるような破壊行為に挑んでみたり、万引きをしたり──常日頃だったら咎められるようなことを出来る限りやってみたりもした。いくらアクションを起こしても注意する人や警察も現れない。
なのに相変わらず朝ご飯や夕飯は現れる。破壊した窓ガラスやシャッターも応急処置がなされ、まるで別世界での人々が「そこ」にいるかのような奇妙な疎外感があった。
言わば人が神隠しにあったように消失している、のではない。自らが神隠しにあったのだ。
仲間外れにされたのはこちらの方だった。分かり切っていたことだけれども、ミヨリには耐え難いものであった。
安息の場だった家にいるのも苦痛になり、見慣れた町並みも恐ろしく異質なものに思えた。ここに居続ければいつか自分は壊れてしまう。
それから生まれ故郷を離れ、ミヨリは放浪者となった。
最低限の荷物を持ち、宛もなく道を行く。バスも電車もない、徒歩の旅。
薄闇が商店街を隠し、電灯が「××商店街」の文字をほのかに照らす。この摩訶不思議な世界はずっと夕闇に支配されている。朝陽を拝んだのはもう遠い昔のことのよう。
歩き疲れ、そろそろ寝床を探さなければと家を品定めしているとこのご時世に珍しい、鄙た銭湯を見つけた。
番頭はおらず、更衣室は無人だ。なので遠慮せず服を脱ぎ、近くに置かれていたシャンプーを手に銭湯に入る。煮えたぎるような熱さの湯加減はいかにもな感じで粋だ。
ミヨリは何が粋だなんて正確には理解していない。けれどそれっぽい気持ちで、髪を洗い、そこらに置いてあったタオルで髪を拭いた。色褪せた演歌歌手のポスターが壁に貼られ、昭和時代の香りを漂わせている。レトロな雰囲気の銭湯にぴったりのそれはサイン入りで大切そうだ。
牛乳を拝借して椅子に座る。扇風機がはたはたと音を立ててたまに風をよこした。
もしこんな事態にならなければ銭湯なんかに足を運ばなかっただろう。「幸せ者」であった自分が遠くに霞んでいる。でも幸せ者からしたら今の自分は手の届かない理想像かもしれない。人というのはそんな生き物だ。
「おじゃましました。」
しっかりと髪を乾かした後、彼女は無銭を決める。この世界は通貨の概念がない。お金を払った所で損得が生まれないからだ。