私、クビになった会社の筆頭株主になりました!
株主総会当日、緊張に満ちた顔つきの経営陣や株主たちが会場に集まっていた。筆頭株主として私は発言を求めた。
「皆様、本日は会社の未来のために重要な情報をお伝えしたいと思います」
「なんだ、あの子は……。どうして大株主に?」
かつての上司である佐藤の驚いた顔が目に入った。彼が出席しているのは都合がよかった。
「この会社には、セクハラやパワハラの事実があります」
***
空気が読めない。
自分でもわかっている。大学では常に最前列に座った。一度聞いただけではわからないから、ノートをきっちり取る。試験前、ノートを貸してほしいと頼まれる。貸す。でも、遊びに誘われることはない。
父は証券マンだった。腕利きだったらしい。中学生のとき、亡くなった。母は美しかった。優しかった。でも、病弱で、社会に出たこともなかった。父の保険金で、生活には困らなかった。
大学を卒業し、東京の商社に就職が決まった日。母は泣いた。嬉しそうに。
「お父さん、見てる? この子、ほんまに立派になったんよ」
墓前で、母がそう語りかけた。胸が温かくなった。初めて、自分が誰かの誇りになれたような気がした。
最初の配属先は受付。上司も同僚も、女性ばかり。受付での半年間。毎日が苦痛だった。
「お客様がいらっしゃったら、すぐ笑顔で」
先輩の指示。わかっている。でも、タイミングがわからない。
「もっと自然に! ロボットみたいよ」
休憩室で、ひそひそ話が聞こえた。
「あの子、ほんと使えないよね」
「なんであんなの採用したんだろ」
トイレの個室で、じっと息を殺した。
気が利かない。それは自覚していた。でも、どう気を利かせればいいのかがわからない。半年後、経理への異動を告げられた。追い出されたのだと理解した。
経理では、落ち着いて仕事ができた。大学で習得したExcelとWord。それが役に立った。数字は嘘をつかない。関数は期待通りに動く。自分のペースで処理できる。口頭の依頼は、こっそりICレコーダーに録音した。後で聞き直す。何度でも。そうすれば、聞き漏らさない。適切に対応できる。パソコンが苦手な上司から、頼りにされるようになった。
(自分は、お荷物じゃない)
そう思えた。初めて。
上司は、よく飲みに誘ってきた。
「仕事の話もあるし」
そう言われると、断る理由が見つからない。評価されているのだと思った。嬉しかった。空気の読めなさを、少しでも克服したかった。だから、二人きりの飲み会にも付き合った。
ある夜、上司が妻の話を始めた。
「うちのヤツとは、もう何年もうまくいってなくてさ」
どう返せばいいのかわからなかった。
「私、男性と付き合った経験がないので、そういう話題はよくわかりません」
正直に答えた。上司は笑った。
「じゃあ、経験させてやろうか」
意味が理解できなかった。数秒遅れて、理解した。断った。でも、断り方がまずかったのかもしれない。
一ヶ月後、人員削減の対象者リストに名前があった。人事部長室に呼ばれた。上司も同席していた。笑顔だった。
「君の頑張りは評価してるんだけどね。会社の方針だから」
会社の方針。拒否した私が悪いのか。空気を読めない私が悪いのか。部屋を出ると、廊下で同期とすれ違った。視線を逸らされた。もう、噂が回っているのだろう。
退職して実家に戻った。母が泣いた。
「ごめんなさい、お母さん。期待に応えられなくて」
母は首を振った。
「あんたは悪ない」
でも、母の目は悲しかった。
三ヶ月後、母は亡くなった。心臓の持病。
母の遺品整理をしていると、押し入れの奥から段ボール箱が出てきた。父の日記。何十冊も。母が、ずっと大切に取っておいたのだろう。
証券取引の記録、市場分析、投資判断の理由。細かい字でびっしりと。でも、それだけではなかった。
――今日、娘が初めて歩いた。妻が嬉しそうに電話してきた。早く帰りたい。
――妻の体調が悪い。無理をさせてしまった。もっと早く気づくべきだった。
――娘の小学校の運動会。小さな体で一生懸命走る姿に、胸が熱くなった。
――娘が中学に上がった。最近、反抗期なのか口数が少ない。妻が心配している。でも、成績は良い。真面目に勉強しているようだ。この子なら、きっと大丈夫だろう。
――体調が悪化している。妻には心配をかけたくない。娘の将来のために、保険を増額しておいた。何かあっても、二人が困らないように。
仕事の記録の合間に、こんな言葉が挟まっていた。父は、私たちを愛していた。ページをめくるたびに、涙が滲んだ。
母の遺産を整理すると、驚いた。土地と株式を大量に保有していた。祖父母からの相続らしい。生前、母は一度もそんな話をしなかった。関心がなかったのだろう。総額、十数億円。遊んで暮らせる。一生、何もしなくても。でも、それでは終われなかった。セクハラの記憶。理不尽なリストラ。会社への怒り。これらを抱えたまま、残りの人生を送るのは嫌だった。
(ささやかな復讐をしよう)
そう決めた。
日記を読み始めた。最初は意味がわからなかった。専門用語だらけ。数字と記号の羅列。でも、読み続けた。何度も、何度も。
ある命日、墓参りに行くと、見知らぬ男性が花を手向けていた。五十代くらいのスーツ姿。
「失礼ですが……」
「ああ」
男性は振り返った。
「もしかして、ご家族の方ですか」
「娘です」
「そうでしたか。お父様には、昔大変お世話になりまして」
父の後輩だった証券マン。今は独立して投資顧問をしているという。名刺を渡された。
「何かお困りのことがあれば」
数日後、連絡した。
「父の日記を読んでいるんですが、わからないことだらけで」
彼は快く教えてくれた。
度々、会うようになった。日記に書かれた父の考えを、彼が解説してくれる。父の日記には、会社や業界についての分析がびっしりと書かれていた。最初は何が書いてあるのかさえわからなかった。でも、彼が丁寧に教えてくれた。当時の新聞を図書館で探し出して、日記と見比べた。父が注目していた会社。その後どうなったか。驚くほど、父の見立ては正しかった。ときには、彼も驚いていた。
嬉しかった。父がこんなふうに仕事をしていたこと。その考え方を、少しずつ自分のものにできていること。まるで、父の隣に座って、一緒に考えているような気がした。
半年後、企業分析の視点が身についた。一年後、本格的な相談を持ちかけた。
「ある会社を、買収したいんです」
彼は驚いた顔をした。それから、真剣な表情になった。
「規模は?」
「時価総額で、数十億円」
沈黙。
「本気ですか」
「本気です」
「……わかりました。ただし、これは仕事として受けます。成功報酬で、買収総額の5%。それでよろしいですか」
計算した。でも、この金額を払う価値はある。素人が一人でやれば、確実に失敗する。
「お願いします」
彼は頷いた。
「お父様の娘さんだから、手は抜きません。むしろ、最高の仕事をします」
そこから、本格的な計画が始まった。ダミー会社の設立方法。ステルス投資の技術。買収防衛策の回避方法。彼は持てる知識を全て教えてくれた。そして、実務も代行してくれた。
三年後、過半数の株式取得に成功した。報酬を振り込んだ。高額だが、後悔はなかった。一人では、絶対に成し遂げられなかった。
そして、株主総会の直前。株式を自分の名義に変更した。準備は整った。
***
「この会社には、セクハラやパワハラの事実があります」
会場がざわつく。ICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。
― あなたは態度が硬すぎるんですよ。いままで彼氏ができたことがないのが原因だろうな。男性経験があると、もう少しリラックスして楽しめるし、仕事もうまくいくんだよ。このあと私が教えてあげようか? ―
佐藤の声。あの夜の声。会場が静まり返る。
「こちらは、財務部経理課の佐藤誠氏が部下の私にセクハラ行為を働いている様子を記録した音声です」
一呼吸置いた。
「これ以外にも、彼が不正に経費を着服していたことを証明する書類も持っています」
佐藤の顔が真っ赤になる。
「馬鹿な……! こんなものがどこから出てきた?」
声が上ずっている。
「在職中、上司であるあなたの指示を聞き逃さないよう、できるだけ記録を取っていました」
「み、みなさん、これは業務終了後で、社外での食事のときに言った、じょ、冗談です。ですからこれはプライベートなことで、セクハラやパワハラではありません!」
落ち着いて答えた。
「定時後でしたが、食事をしながら仕事の打ち合わせがしたいとのことでしたので、業務の一環として録音していました」
「それでも、黙って録音するなんて卑怯だわ!」
受付時代の女性上司の、甲高い声。取り合わなかった。
「私は、この会社の未来を救いたいのです」
視線を会場全体に向けた。
「コンプライアンスを遵守できない会社は、社会や顧客からの信用を失います。彼には適切な処分をお願いしたいと思います。これ以上、会社を傷つけることは許されません」
佐藤が立ち上がる。拳を握りしめている。
「これは全部、誤解だ! 私は部下を大切に指導しようとしていただけだ! こんなことで私を切り捨てるつもりか?」
社長が立ち上がった。会場の空気を読んだのだろう。
「佐藤、お前の行為は許されない。これ以上、会社に迷惑をかけるな! 解雇だ! 出て行け!」
佐藤がうなだれ、会場を出ていく。背中が小さく見えた。
(これで終わりではない……!)
社長を見据えた。
「社長、一見あなたは正しい判断をしたようにみえます」
間を置いた。
「しかし、これはトカゲの尻尾切りにすぎません。その、社長の鶴の一声で従業員の解雇を決めるような体制にも問題があります」
会場が再び静まる。視線が集中する。深く息を吸った。
「株主のみなさん、私は、会社の収益が悪化している原因は、会長のみならず経営陣のコンプライアンスを遵守しようとしない姿勢、そして放埒な経営にあると考えています」
経営陣が騒ぎ始める。
「経営方針への提言ありがとうございます。このような提言は株主様の権利であり、また私たちがより良い経営をするための重要なフィードバックだと捉えております。しかし、私たちの経営方針がこれまでにもたらした成果と、これからもたらすであろう成果を考慮に入れていただければと思っております」
「我が社は、短期的な利益追求ではなく、長期的な成長と安定を経営の方針にしています。この方針は時には短期的な成果を犠牲にすることもありますが、長い目では必ずプラスになるはずです」
「それに、市場は私たちの経営を評価していますよ。ここ数年、株価は上昇傾向にありますし、これは我々のビジネスモデルと将来の成長に対する信頼の証だとお考えください」
聞きながら、胸の奥で何かが燃え上がるのを感じた。怒り。それとも、別の何か。抑えていた感情が、一気に溢れ出した。
「なに寝ぼけたことゆうてんねん!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「株価下がらんかったんは、あたしが買い支えてやってたからや。お前らが言う市場ってのは、実質的にはあたしのことやったんや!」
言葉が止まらない。
「もしあたしが市場で株式を売却したらどうなる思てんねん? 連日ストップ安や! そんなこともわからん連中が経営してる会社に未来なんてない!」
息が荒くなっている。
「おまえらに自浄能力期待したんは間違いやった。まぁ、経営はクソやけど土地建物とかの資産はけっこうあるから、外資のファンドにでも売却するわ。会社バラして売り飛ばされんよう、せいぜい頑張れや」
最後に、もう一度会場を見渡した。
「以上、これが会社の未来のための重要な情報や!」
騒然となった会場に背を向け、私は歩き出す。扉を開けた。
――外の光が眩しい。




