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これは夢だろうとハルは当たりをつけた。
けれど真に迫っているのはそれだけこの出来事が自分の中に深く根を張ったからか。
炎が舌を伸ばし頬を舐め上げる。
高熱を孕んだ風が髪を焦がす。
あの時、例えあの男に腕を切り落とされたとしても手を離してはいけなかったのではとハルは思う。
レーヤダーナ・エリス。
子どもの姿をした怪物。
神さまのなり損ないは、欠陥だらけの人擬きだと、あの子の血族は極大の嫌悪と嫉妬混じりの揶揄をする。
その一つについて。
あの子はよく転ぶ。
それは歩く経験が不足しているからとか、子どもだからとかいう理由もあるだろうがそれよりも何よりもまず体を動かすという備わって当然の感覚がないからだ。
階段は言うに及ばず、街道の小さな段差、果ては石ころにまで気をつけなければ躓いて転んでいらない怪我を負っても気にする素振りはまるでない。
動作の始まりが他の人よりも一つも二つも遅いのはそのせいだ。
痛みを感じることも、ほとんど出来ない。単純に、何かに触れているという感覚が至極薄いのだと。触れても触れているという実感があまり持てない。
体の感覚が薄い。
その世界はどんなものか。ハルには分かりようがない。自分の体がないという感覚など、知りようがない。
ただ、酷く危ういというのは想像出来る。
痛みから逃げる、隠れる。そんな当たり前の発想に至れない。
あの子の性質の悪いところは致命に至る傷を負ったとしても、死の淵の半歩手前まで治ってしまうことだ。
それは善意にも悪意にも満ち満ちた祝福で、ある意味呪いのようなものではないだろうか。
生きて死んで、生きて死んで、生きて死んで、生きて死んで、生きて死んで。繰り返し繰り返しその都度生まれて死んで。
まとな人間であれば、そんなものには耐えられない。
痛みに無自覚だからこそ為せる奇跡だ。
心とは命の在り方で、痛みとは生の実感。
それを持ちえない者。心も体も鈍感な物は総じて早死にする。昔、まだ母と一緒にいた幼い頃にそういう人間を何度も見た。
自壊に至る傷を負っても警鐘を鳴らせない。
潜伏期間の長い病のように、少しずつ心と体を蝕んでいく自然死のような自死。
外界からの接触、それに対する反応。
それら全てが鈍い。
無通症、離人症のようなものなのではないかとお抱えの医師は話していたらしい。
レーヤダーナが自分をどう感じ、どう思っているのかなんて、それこそ本人にも理解出来ていないのだろう。
体と心。二つは遊離して、いつも夢遊病の中を漂っている。
だから己が希薄なのは当たり前で、今この時も、あの子は一見、超然としてあるのだろう。
神さまのなりそこないにふさわしい子の姿をして。
そしてハルは見つけた。
立ち込める炎。その只中に。人とヴィルヴィスが相争って共倒れになったその真っ只中。
バタバタと死体と死骸が折り重なった死の集積場で。炎に焼かれ、色んな命が消失していく火葬場で、そこだけがひっそりと静まり返っていた。
呼びかけたはず。
だが声は聞こえない。
けれどあの子は振り返る。
そしてハルを見た。
それは見間違いだろう。そのはずだ。そうであって欲しい。なぜってそうする理由が分からない。場違いすぎる。
微笑んだ。
炎と死と破滅で飾り付けられた舞台の上で。
遠慮がちで瞬きすれば見逃してしまうほどの小さな笑みは、喜んでいるようでとても美しく、この世のものではない。人間が浮かべるものではない。幽玄の世にあってこそ相応しい。
つまりは、不気味で悍ましく、恐ろして堪らなかった。
その一瞬の逡巡が、助け出すという目的を阻害した。
炎に飲み込まれるレーヤダーナの小さな姿。
今度こそ声が聞こえた。それは悲鳴で、確かにレーヤダーナ・エリスの身を案じる響きがあった。そのことに安堵した。
だけどその悲鳴も杞憂に終わる。
なぜか。
炎が割れる。
死体と死骸を燃料として一層激しく燃え上がる炎がソレが近くにあることを嫌がって逃げるように身を捩るから。
死で切り立つ崖の底を歩きながら、いつものように茫洋とした瞳のレーヤダーナが静かにハルに歩み寄る。
一歩も動けないハルの目の前まで達すると、まるで高貴な姫君がするように、手を差し出した。
決断を、問われているのだとなぜか感じた。
この手を取るか、取らざるか、お前が決めろと言われているよう。まるで契約を迫られているようだった。
ここが本当の分水嶺。
立ち去ることも、進むことも、ハルに任されている。
見上げる灰色の瞳は炎の照り返しを受けて緋に染まっていた。
そこに懇願はなく、強要もない。曇り一つない瞳で見つめられている。
ハルが、自分自身の意志で決めなくてはならない。
この手を取らなければおそらく、レーヤダーナ・エリスはハルをその他大勢と一緒くたにしてしまうのだろう。
それが分かってしまうから、留まる、逃げるなんて選択肢は取れない。
この繋がりを断つ。
それは即ち、ただ一人で放り出されてしまうということだ。
ただ命を長引かせるだけの食事。
心の奥底を隠した他人との会話。
頼るものもなく一人で眠る暗い夜。
命はある。意志はない。ならばそれは、生ではない。
それが欠けているのはお互いさまかと、小さな背を見て思う。
「私が探すことを見ていてくれますか」
命を懸けるに値する意志を。
それを得る様を見届けてくれるなら、それがこの子の血肉になるのなら、それが一人の人間を誕生させる助けになるのなら。
どんなにか喜ばしいことだろう。
返答はない。
もとよりレーヤダーナ・エリスは見守っているだけだ。
冷たい手を取った。
決断はここに。
迷いを含んだ決意だけど。
とても小さな、とても大きな始まりの意志。




