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どっか遠慮がちで弱々しいくてもう今にも消えさってしまいそうな、すすり泣くような。
薄暗い裏路地で足首をそっと捕まれたのに、小さくか細いくせにはっきりと耳元のすぐそばで掠めてくるような声。
あ、俺、遭っちゃったのかな。あの無理なの。触れない殴れない蹴れない、けれど向こう側は一方的に障ってくるあんちくしょうども。
なんて勘違いしてしまいそうな触れるか触れないかといった幽かな揺さぶり。
俺の心はドキがムネムネしちゃっているような気がする。
なので、
「……ッ!?」
その手をわしっと掴んだら案外しっかりした感触があるようで、しかもなにやら声も出ないといった風情で驚いているようだった。
まるで幽霊にでも出会ったみたいで失礼しちゃうわ、という話だ。
「生きてました……」
上から降ってくる声に目を開けた。
ハルが覗き混んでた。黄金の瞳から雨粒めいたものが頬を伝って落ちてきた。
「……よかった」
生きてる。誰が。俺が。ああ、頭は回っているようだ。それも正常に。腐ってないのか。
こんだけ近くにいるってのに異常な獣欲が沸かないし気持ちの悪いふわふわした感じもない。
纏わりつくのは虚脱感。燃え尽きた感て言ったらいいか。あれが一番近いんじゃないか。
……ハルの力が注がれた種が枯れたか尽きたか。超人的な力を失った落差で感覚が迷子になったってところか。そんな風に冷静に思考を巡らせられるのは驚きだ。
まあ、俺の意識が保たれてるってことの方が一番の驚きだが。
「なあ、俺はどうなってる」
「どうって」
「ああいや。俺は人間に見えるか」
樹皮に覆われた巨大化した腕。枝葉の生えた異常な背中。黄金の花の咲いた右目。人体から甚だしくかけ離れた姿。
声はいつもの俺の声みたいに聞こえるがそれだって俺が都合良く事実を歪めて認識しているだけかもしれないのだし。
「だ、大丈夫ですよ。いつもの、ふてぶてしくて図太くてたまにこの人頭大丈夫かなって思っちゃうような、いつものあなたです」
「心暖まる返答ありがとうよ」
「ほら、手」
そう言って、視界に映っていたはずなのに意識から外していた手を取ってきた。
確かに、人間の手のように見えた。けれど、やっぱり以前と違うと思う。奇妙なひび割れにも見える痣。血の道に沿ったひきつれ。火傷のような痕は腕を這う蛇を思わせた。
「いつもの、誰かの手をとって、繋いでくれる手です」
「そうかい。ならいい」
ああしまった。
あんまりにあんまりなことが起きたもんで頭が追っついてない。なにが正常だ。寝起きの決まりごとをしていなかった。
視界。なんだか全体的に褪せている。色がなんだか変だ。普段の景色に灰色が混ざったような奇妙な状態。聴覚は問題ないと思いたい。嗅覚はどん詰まり。味覚も同様。触覚は……右腕から右下半身があんまり機能してない。じんと痺れているような、あるいは切り離されてるというか。痛みがないのは、ありがたい。
頭の中身もそんな酷くはない思いたいがこんな状態だと安心はできない。
「お前は……薄汚れっちまってるな」
「ええ。あんまり地面をごろごろとするものではないですね」
戦いの余波を受けてころころしてしまったらしい。髪はぼさぼさ。服は土まみれ埃まみれで細かな傷がついていた。
「レイ、レーヤダーナ、あいつは?」
ハルの顔が曇る。
だったら転がってなんざいられんので立ち上がろうとして無様に転げた。ああくそそうだ。右半分がいかれてんだった。
「無茶をしないでください」
俺に対しては扱いが割りとぞんざいになりがちなハルだがいつもよりも言葉尻に力がない。要するに、俺の状態が酷いってわけだ。いやいや、こいつは怪我人前にして悪態つくようなやつじゃなかったな。
「レイは無事なんだな?」
「大丈夫です。怪我一つ負っていません」
「だったら何があった」
「気を失ったんです。ひどいひきつけを起こして。呼吸も安定していますし大事はないと思うんですけど、あの子のことですから」
何が原因で何でそうなってるのかまるで分からんってわけか。
そう言いながら動かない右半分を支えてくれるのか立ち上がるのを手助けしてくれた。
物騒なことに銃を持っていた。覚えがある。古式ゆかしい形をしたザシャ愛用の一品だった。安全装置……当然のように外れていた。危なっかしいことこの上ない。
「それ寄越しな。ザシャたちはどうなった」
「大丈夫です。戦いに巻き込まれそうにはなりましたけど」
そうかい。この銃が形見の品にならなくてなによりだよ。老い先短そうな婆さんには見えなかったが、身内の不幸を知るとがくりと崩れる人は結構いるもんだから。訃報を告げるのは気が進まん。
もうあいつらがどこにいるかは分からない。出来れば近くであってほしい。歩きづらいことこの上ない。ハルの支えがなかったらそれすらままならん。だからと言って、治してくれなんてのは大樹の巫女さまの言葉を覚えているのなら言えるはずもない。
「なんだよ」
「……あなたがこんな風になっているのは私のせいでもあります。あなたは私を責めても、恨みをぶつけてもいいんです。何を言われても仕方がないです」
俺を窺うように見てるかと思えばなんだよそれは。何言ってんだこいつは。
「意味分かんね。俺がまだ生きてるんのはああなったからだろ。そうじゃなかったらとっくに腐り落ちてくたばってた。まだ生きてる。まだ生きてられる」
むしろありがたいと思っている。
これ以上ないという終わりを迎えるためには、これ以上なく生きなくてはならないはずだろう。
そしてそれは、俺が俺を納得させた上での終わりでなくてはならない。そうじゃないと死ねない終われない。俺を生かしてくれた人たちに胸を張れない。手にかけたやつらにあの世でくだらん生き方だったなと鼻で笑われるなんぞ許さん。
「あいつにゃまだ必要だ。俺みたいなバカ野郎でもろくでなしでも、手をひくやつがな。お前が気に病む必要なんざなんもねえ。そういう気持ちが少しでもあんならあのガキんちょが、せめて半人前ぐらいでいいから人間面出来るまで側にいてやってくれや」
「今は問題がないように見えてあとになって後遺症が出るでしょう。そうなってもそう言い切れますか」
「さあ、未来なんて知らんし分からん。どうでもいいとまで言わないが今はそう言った。そう決めた。ならそうするまでだろ」
ガキんちょを前にしてんだ。せめて恥ずかしくない俺でないと。俺は納得しないぞそんな嘘つき野郎。
「……でも前も酔い潰れたときにもうお酒は飲まないと言って、次の日にまた酔いつぶれたことがありましたね。その時も同じようなこと言ってましたよね」
「それはそれ。これはこれ。そのときはそのとき」
「とても柔軟性に富んだ良い言葉ですね」
「そうだろう。人間、あっちこっちにふらふらするのも必要ってこった。一つのものしか見てないと救いようのない馬鹿に成り果てる例をまざまざと見せつけられたからな」
へらず口が回るようで助かった。
ハルは何度か口元を開けては閉めてを繰り返してたがそれ以上は何にも言わずにザシャたちのいる場所へ連れて行ってくれた。
連れていかれた先の状況は、一言、成る程、というものだった。
「やあ、無事なようで何よりだ、カナタくん」
「依頼人さまの顔を拝めて嬉しいよ俺は」
レイを背負ったザシャが流石に窶れたような様子でへらりと笑った。
背中のガキんちょが青ざめた顔でこちらを見た。意識を取り戻してたらしい。どうなるか予断は許さないが目を閉じて呼吸してるかどうか分からんようになるのよりもよほど安心した。
そして、この場の空気がどこかしら張り詰めている原因は視線の先。
血肉は渇ききり、風に曝されるだけで崩れていく有り様になった、終わりを秒読みに迎えるヘルダルフの残骸と、それを前にしてナイフを突きつけたまま微動だにしないラニーだった。
上半身、それも右半分しか残っていないのにまだ息があるのが信じがたいが、あの奇跡みたいな種の恩恵に肖った身としては否定もしきれん。
それに、ありゃ搾り滓でしかなく、放っておいても崩れて消える。今度こそ間違いない。けれど、どれだけ矮小になろうがそれはヘルダルフであったものだ。潔く、最後を受け入れるなんてしないだろう。
器は崩れていても、あの目、眼光だけは衰えていない。
「おいラニー」
あいつの全神経はヘルダルフに向かっているようだった。その表情がどんなものかは背中越しには分からない。
「あたしはね」
腹の奥底から絞り出すような声だった。
「こいつをぶちのめす。そう決めて、そう生きてきた。母さんと父さんの仇で、あたしにとっては絶対に許せない敵で、あたしの手で止めを刺すんだって決めて……」
恐れか迷いか両方か。どちらにしろ、ここでヘルダルフをその手で殺さないという選択肢はないだろう。ラニーが生きてきた時間への正当な清算。ヘルダルフがなしてきた無法への代償。
それは正しくあるべきだ、と俺は思う。
血を分けた親をその手で殺めるなんてと咎める頭の可笑しな道徳家はここにはいなかった。ハルも含めて。ラニーの中にもそんな半端はないだろう。
では何を躊躇する。
「こいつがいなくなったらさ、あたし何したらいいの。どう生きていけばいいの。何にも分かんない。何にもない。怖いよ。あたしには何にもなくなっちゃう」
新しく生き甲斐でも見つけたらいいだろうとか、それを探すために人生はあるだとか、中身のない空しい言葉はなんの助けにもならん。人生かけてラニーを助けてやるつもりでもなければ言えるはずもない。
俺はそんな出来もしないしやれもしない無責任な放言、するつもりはない。
そして好きに生きて好きに死ねとも。流石にそれは、情がなさすぎるってもんだろ。だからきっと誰も何も言わない。
ラニーがこの先、どんな風に生きるつもりだろうとしても、それは本人が見つけて決めなきゃならんものだろ。そうじゃないと、俺なら納得は出来ない。
「何をしている駒風情が……」
誰がどう見たって無様なだけの残骸に成り果ててもなお不遜。
その言葉には力があった。ラニーもザシャもハルも俺も、聞かざるをえないほど、言葉には力があった。屈辱、憎悪、憤怒にまみれた誰かの心をどろどろに腐らせるような言葉だった。
「命を与えてやったのだ。お前がなすべきことは決まっている。俺に命を捧げろ。すべてを捧げろ。それがお前に与えられた義務としれよ」
この期に及んでどんな言い種だ。
だけどそれは同時に、この期に及んですら変わらないヘルダルフという男の自我の強さを示していた。あるいは盲信狂信か。誰も彼もが口を閉ざしてなにか信じられないモノを見るように、ある男の残骸を見ていた。
「光栄だろう。涙を流して拝跪しろ。お前のごとき塵芥が王の力の一翼になれるのだ。捧げろ、捧げろ、捧げろ」
同時にそれは、壊れ果てていた。
正しくそれは、残骸だった。
かつてヘルダルフという男が刻み付けた記録を繰り返すだけの器官に成り果てていた。
だからこそ、それから吐き出される言葉はヘルダルフのものでしかなくなによりも……。
「……ふざ、ふざけんじゃない。ふざけんじゃない! あたし、あたしは、あたしの命は! 母さんと父さんがくれたもんだ! あんたじゃないあんたなんかじゃない! 消えろ消えて! あたしの前から、あたしの中から消え失せろ!」
ラニーがナイフを振り上げる。
息が荒い。体が震えている。心の琴線は切れている。けれど振り下ろせないままだった。
「あたしは、あたしは、あたしはぁ!」
そう言ってついに、意を決して振り下ろす。
それは、素人目にも分かる容易に避けられる、だけど今のヘルダルフには絶対に不可避な一撃で、ハルもザシャもその軌跡を見守っていた。
だからそれに気づけたのは俺だけだった。
曲がりなりにもあいつとは一番、殴りあった。気色悪いし腹立たしいが、あの男を一番、理解してるのも俺だったのだろう。
それは相互理解などでは絶対にない。ただ一方的な判断で決めつけで、だけども絶対の確信をもっていた。
故に。
銃声、二発。そしてラニーの髪を焦がす一条の熱線。
「お前なら、そうすると思ったよ」
最後まであの男の意志を吐き続ける器官だからこそ、そうするだろうと考えられた。
胸に一発、頭に一発。胸の方は外れたな。使ったことのない銃で、なんの癖も知らない銃だったから仕方がないか。
「あんた……」
銃は嫌いだ。撃たれれば痛いし死ぬかもしれない。
銃は嫌いだ。誰かを殺した感触がしないから。
「悪いな。民間人を見殺しには出来んのだわ」
ああ、本当、銃は嫌いだ。




