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 決断は苦手だ。


 自分について。自分に関わる誰かについて。それが大事なことであればあるほど重くのし掛かってくるものであればあるほどに。


 なぜって、大事なこと。大切なこと。それらは全て、自分ではなく母が決めてくれていたことだ。


 けれど母はもういない。自分のことは自分で決めなくてはならなくて、自分に関わる誰かについても自分で決めなくてはならなくて。


 選択肢が数あるのならば最善を選びたい。そう思うのは自然なことだろう。


 その決断が誰かにとってより良いものになるように。そんな結末が来ますようにと願って迷ってそっと手を伸ばす。


 小さなあの手を取った時にそうありたい。そういう姿を見せていけたらと。そんな私から何か得られるものがあったらいいなとまだ形になってすらいないあやふやな願い、誓い、想い。


 けれど決断には責任がついて回る。それが自分のみに降りかかるのならまだしも他の誰かに、身近な誰かを傷つけ縛ってしまうなんて、それはどうしようもなく怖い。


 迷いに迷って手を伸ばした結果が最悪だなんて納得したくない。


 目の前に広がっている場面でよりよい終わりを辿る選択肢はどれなんだろう。どれを選べば幸せな終わり方に辿り着けるだろう。


 死体と見まがうようなソレをハルは膝をついて厳しい目で見ていた。


 ソレ、とは異形となったヘルダルフと馬鹿げた戦いを繰り広げ生き延びられたカナタ・ランシアであり、その身体は少しずつ、だが確実に腐敗が侵食していく。


 手の施しようがない。


 自分がこれまで磨いてきた知識や技術が何の役にも立たない。調薬、調合の道具が手元にあったとしてもそれがなんになる。ただのお荷物じゃないか。


 もし母が存命で魔女の業をちゃんと教わっていたのなら何かしら出来たのだろうかと考えて、それこそ何の役にも立たない逃避だと嫌悪する。


 頼れるのは自分の煌術のみで、心のどこかで拠り所にしていたそれ。これがあるのだから母のような卓越した薬学の知識がなくても最後にはなんとか出来るはずだと根拠もなく思わせていたそれ。誰も彼にも効く万能なものではないのだとレーヤダーナ・エリスという実例がありながらもまだ信じていたそれ。怪我をした野良犬を可哀想だと治した。翼の折れた鳥を可哀想だと治した。病床で死の淵にある立ち上がれない老人を可哀想だと治した。だからこそ母から使うことを禁じられたそれ。


 頼りにしていたそれは、対処療法にはなっても根源的な快癒には繋がらない。治した端から再び腐り始めていく。病気なのか呪いなのかあるいはその両方か。


 凶悪なのは治す度に腐敗の侵食速度が上がっていくことだ。何がなんでも逃さない。俺の印を刻まれたのだから俺の望み通りに俺のようになった腐り逝けという妄念めいたものが剥がれない。


 ハルに出来るのはより惨たらしい終わりを迎える時を少しでも遠くに引き伸ばすことだけだった。


「巫女さま! どうにもならないんですか!?」


「落ち着きたまえラニーくん。ハルくんが懸命にしていないわけがないだろう。それでもどうしようもないのだ」


「だって! こいつがこうなってるのはヘルダルフのせいで! だったらそれは他人のこいつじゃなくてあたしが受けるべきじゃん! 落ち着いてらんないよ!」


「それでもだよ。レイくんも静かに見守っているのだ。僕たちが出来ないはずがない。そうだろう」


 それは自分に言い聞かせるような言葉で、ザシャも流石に動揺している。


 彼にしても誰かの死の淵に立ち会って、そのままお別れしたなんて経験は幾度がある。冒険家本来の仕事場は鋪装されない獣道を踏破する危険と隣り合わせのものだ。その道程で失われる同僚、友人だっていた。それでも慣れることはない。


 レーヤダーナは腐っていくカナタを見ていた。いつもと同じ漣ひとつない灰色の瞳からは感情といったものが窺えない。けれど一瞬でも漏らさないように見つめていた。


 手を繋いでいた。握っていた。


「大丈夫。大丈夫ですから。なんとかしますから」


 なんとかする。その意気はいい。肝心なのはどうするか。手段。方法。明快なそれが手のうちにない。


 自分自身、どうしたらいいのだと叫びたい。だけどザシャの言ったようにレイがそれをしていない。だったら自分がそんな真似出来るはずがない。


 聖樹の都への祭壇。そこがカナタの死に場所に相応しいかと聞かれればそれは違うと言いたい。


 そりゃあ普段の彼は基本的にだらしなくて部屋の片付けだってまともにやらないし脱いだら脱ぎっぱなしだし寝る場所さえあればそれでいいとか思っていて、酒癖も悪くて飲み過ぎて吐くし知らない人と外で酔いつぶれたりしているし、宵越しの金は持たねぇとかとか宣って博打に酒飲み女遊びその他諸々とダメが乗算されていく男だ。


 よくそういう関係に間違われるが、異性としての魅力なんかぜんぜん感じない。


 まず自分の人間力というものを徹底的に見直すべきなのだこの人は。


 そんな有り様なのにレーヤダーナといる時は自分の振る舞いを棚においてしかめっ面して偉そうに常識を述べるのだ。しかも割りとずれてるんじゃないかと。


 それでもいつだって、先に生まれた人間として少しだけでもよりよい方へ、普通じゃいられない、まもとじゃありえない、それはこの先も絶対に変わらないとどこかで予見していてもなお、普通の生活、単純な幸福、平凡な人生、そんなものがお前にだってあるんだぞって行動して語りかけて最後にはぐりんぐりんと乱暴に頭を撫でて。


 以前に言っていた『ただの人間にする』という言葉がどんな意味を持っているかは知らないけれど、そんなものは抜きにして普段から見ていれば分かるし伝わってくる。


 この人がどれだけレーヤダーナ・エリスを大事にしているのかなんて。


 そんな人がここで死ぬ。


 彼自身がそれをどう思っているのかなんて分からない。人は死ぬ。それは絶対で、死ねばそれまで。覆してはならない一線。甦らせるなんてとんでもない。死者への冒涜、たった一つの命に汚物を塗りたくる最低の行い。彼自身が死んだとしても甦らせるなんてふざけんなと考えているような人だけど。


 だからこそ生きている間は、それこそ死が訪れるまでは足掻いてもがいて抵抗し、それこそ暴れまわってどうにかしようとして、だけどどうにもならなかったのなら仕方がなしに不貞腐れながら受け入れるのだろう。


 きっと今この瞬間も。


 レーヤダーナ・エリスは奇跡を起こさない。出来損ないの神性。その奇跡は破壊をもたらす破滅の業を色濃く帯びているそうだ。だから仮に奇跡が起こったとしても呪いめいた腐敗が瞬時に消え去り治るだなんて誰にとっても望ましい形をしているとは思えない。


 ハルに提示されている選択肢はそう多くなく、さらに決断と責任が伴うもので、その全てが誰にとってもより良い結末に繋がりはしない。


 一つ。このまま彼を見送る。論外だ。


 二つ。このまま術をかけ続けて決断を先伸ばしにする。意味がない。


 三つ。どうにもならないのであればせめてこの手で終わらせる。国境の紛争地帯での猟兵同士の争いや国軍の匪賊奸賊討伐の最中ではよく見かけた光景だ。もちろん、そういった人たちであればそうなる前に事前に同意書なんかを用意しているものだけど。


 そして迷っている時間もないようだった。


 音がする。


 こことは隔てられた違うまるで場所からここに向かって、今やたった一人きりの聖樹の都で、腐敗と再生を繰り返す王さまになりおおせた化け物が、お前たちは肉体から魂に至る存在全てが俺の物なのだ。ゆえに逃がさん。捕まえねじ伏せ蹂躙し、俺の末席に加えてやるとおよそ狂った笑いをあげている。


 異変はすぐに。


 気づいたのはハルで、絶望的な視線をそこに向ける。


 輪の扉が開かれていた場所。すぐさま閉じて、追ってこれないようにしたはずなのに。染みが浮かぶ。何もないはずの中空に。それは腐敗。今もカナタを蝕み進む、何物も逃さないと猛り狂う意思の現れだった。


 そして誰もが尋常でない気配に気づく。


 触れられない世界の向こう側でけたたましく声を張り上げ笑う化物が手を振り回している。


 誰かが息を飲む。呼吸が止まり、その一点を見つめ、やがて耳に突き刺さる異音と同時にそこに皹が入る。


「巫女さま! そいつら連れて逃げて!」


 ラニーが鋭く叫ぶと同時。硝子が砕けるようにしてその異形が姿を表した。


 ひどく損耗している。損壊は全身に。再生よりも腐敗の速度が上回るのか酷く爛れている。カナタが何かしたのだろうか。そうであってもなお巨体。他を圧倒する威圧は健在。まともに戦える者がいないのならすぐにでも飲み込まれるだろう。


『俺ガ王俺ガ王俺ガ王……。逃がさん許サン平レ伏せ全テ俺になれよ塵メラが……。俺にナレよ。腐れよ爛れよ全テが俺にナレバァ』


 こんな姿になった時からまともに物を考える機能は失われているのか、それともこんな姿になる前から本当はそうだったのか、ヘルダルフは支離滅裂な念を巻き散らしながら静かに狂い嗤っている。


 聖樹が崩れてもまだこれは続くらしい。


 魔女の左目が伝えてくる。資格なき者。繋がりのない者。認めずまた認められなかった者が実を食したとて、急激に起こる存在構成組成変異形状変化煌素変容に耐えられない。無限に腐り、無限に再生を繰り返す怪物に変容してしまう。それでは当初の目的、真なる人には、王に至らないし至れない。試験。被験。治験。そして実証を繰り返すこと数千数万になるほど回を重ね、得られた回答は実に平凡で、資格ある者に時と大をかけて馴染ませるしかなく。


 そうなのだ。重要なのは実ではない。実は過程で生まれた不完全な不死の形にすぎず、本当は、本当は……。


 振り下ろされる巨大な腕。レイを抱え、カナタを引きずってその場所から逃げようとし吹き飛ばされた。直撃こそ避けられたものすぐそばで爆発が起こったのとたいして違いはない。追いかけてくる衝撃に背中を押され、巻き上がる粉塵が実に細やかに傷をつけてくる。


 こちらはこの人と違ってそんなに頑丈に出来ていないのだ。


 だからそんな程度で体の中のどこかが傷ついて、喉の奥から鉄錆の味が駆け上がってくる。


 ずいぶんと柔い体だとハルはいまいましげに眉を歪めた。


 叩きつけられた腕は地面を削り、その周囲を腐らせ液状化させている。腐敗、腐乱、腐臭。緑豊かな自然に打ち込まれた異物が大地に潰瘍を植え付けていく。


 ラニーは、ザシャどうなった。彼らも自分と同じように吹き飛ばされたのか。しかしザシャの使っていた銃が落ちている。


「あなた、こんなとこまで何をしにきたんですか」


 一人ぼっちの孤独な王国で空しく威張り散らしていればいいのに。そうでなくてはならないのに。出てきてはいけないのに。


「願いが叶ったのでしょう。王になったのでしょう。それがあなたの至上の望みだったんでしょう」


 腐り落ちる複眼が見下ろしてくる。


 知れたこと。王であれば国是を示さなくてならん。俺を認めぬ誤った世界は正されなくてはならない。故に侵略し、支配し、布告を敷く。地平の続く限り進軍は止まず。屍山を積み上げ血河を築き、俺の意思が世界に満ちるまで。それが債務というものだ。


 ハルは心底疲れるとため息を吐いた。


 なんて限度も際限もない妄想。自分の望みを叶えない世界が悪いと癇癪起こす子どもよりもなお酷く、みっともなく、救えない話。


「本当にどうしよもない人ですねあなたは。俺の意思を世界に満たすって、結局あなたは見たくないものは見ないし聞きたくないものは聞きたくないと、何にも変わってないじゃないですか。そんなに世界がうっとうしいなら一人っきりでどこかに、それこそ聖樹にいればいいじゃないですか。望んでいた実の力を得たんでしょう。もう誰もあなたには敵わないし誰もあなたを害せない。それ以上に何を望んでいるんですか。何が欲しいんですか」


 答えなど聞きたくもないが。


 世界を正しくするなど宣っているが、要するに自分を馬鹿にする周りが許せない、という話なのだろう。言葉にするのも恥ずかしい。なんてありふれていて、そうだからこそ笑えないし付き合いたくない。


 押し付けがましい債務に唯々諾々と従うわけがない。自分たちは彼の臣民ではないのだ。侵略してくるのなら相応の報復で抗わなくてはならない。どんなに小さな国土でも大切な居場所を踏み荒らされたくないのなら。


 選択肢はあるのだ。


 ただ、そこに必要とされるものがある。


 犠牲と代償。それを支払う勇気。その責任を背負う覚悟。


 決断を。


 囁かれた大樹の巫女の言葉がよぎる。


『水を注げば種は芽吹き、花信を告げる奇跡が生まれる』


 それが不幸の種と同じ意味を持っているとしてもこの瞬間を乗り越えなければどのみち終わる。


『それは大地を終わらせる業を孕んでいる』


 この決断に巻き込むことを許してください、なんて言わない。


『どんな花も育つ土壌がなければ必ず枯れる』


 小さな手。とても冷たくて、だから繋いでいないと不安になる。


 レーヤダーナが見ている。目には不安もなにもない。相変わらず超然としているというか、あるいは何にも考えてないのか、二人がいればどうとでもなるよと楽観なのか、信じているのか信じられているのか。とにかく将来はとんでもない大物になるのかもと身内の贔屓目で楽しそうな未来を描いたり。


 今はまだただの妄想でしかない夢の形。


 それを形にするためならばいいだろう、なんて同意だって求めない。


 言葉は胸に、覚悟をここに。誓いと共に。


 これは私だけが知っていればいいこと。私がこれから背負う業。


 水はすでに用意されている。目の前の王さまがわざわざ設えた。


 最後に、かの巫女が伝えた言葉とは。


『君が望み君が選んで君が与えたならばそこに契約が生まれる』


 それがせめて、双方向の約束事であればよかった。同意なし宣告なしの一方通行な契約締結なんて悪魔だってしない。だから戒めを魂に刻み込もう。誰かの生涯を潰すのだろうから。


 優先順位を思い出す。


 自分たちにとっての最優先はいつだって決まっている。彼がいつか決めたように、私も今日この日に決めている。死が蔓延る炎の中で、小さな手にもう一度出会った時にそう決めた。


 注ごう。芽吹かせるため。


 水を、血を、命を注ぐ。


 糜爛の死に体となりつつ彼に。


 ああ、ただ。


 口づけなんて流石に無理だ。ある意味、特別な相手ではあるけれど。お互いに恋人云々ではないのだ。そう、あなたが言ったように、一人のよく分かんない子を鎹とした戦友。


 そんな相手になんにも気づかない間に奪われたりするのはこの人だって嫌だろうし、なにより私だって年頃の乙女の端くれ矜持が許さない。お互いにとって良くないことだらけだ。例え自分だけが意識して覚えているのだとしても。


 だからこうした。


 口の端から流れる血。それを傷つき横たわるカナタ・ランシアへと。一滴。二滴。三滴。ああ足りない。だから鋭く噛んで流れ出す血の滴。唇を近づける。そこじゃない。零れてしまいそう。髪の毛が邪魔。かきあげてさらに注ぐ。もっと多くもっと深く注ぐ。彼の魂、精神、器に水が染み込むようにもっともっともっと。


 私の匂いで溺れ死ぬほど。


 お願い目覚めて。じゃないとこの世であなたが最も大切にしている子がどうなるのかだって分からない。ついででいいからこの旅の同行者についても助けてあげてほしい。私は、ついでのついでそのまたついでぐらい。そのぐらいの順番で思い出してくれると嬉しいです。


 聖樹よ寿げ。あなたの残した呪いが再び芽吹く。


 微かな交感に刻まれた警句が鳴り響く。


『けれど忘れないで。不相応に芽吹いた種はいつか必ず枯れるものだから』

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