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冗談じゃあないぞおおいこら。あんな化け物相手してられっかってんだ。
単なる魔獣ならともかくとして、あんな悪魔めいたもんどう考えたって俺の担当案件じゃない。専門家はどこだっつの。
戦力差なんぞ口にするのも馬鹿げてんだろ。
まず体格差。見上げると首が反り返って折れそう。いったい俺がどれだけ太ればあんなデカさになるのか。体格差なんてこんな時点で比較にすらならん。
いくら煌力なんてもんが非常識にも小さな子どもが大きな大人に力比べで勝ることがあるってもそれは人間と人間のお話で、そもそもこんだけ規格に差があればそんなもんは考慮に値しない。
仮に俺がどんだけ腕力自慢体力自慢だろうがでかい山を殴って蹴ったところで意味はない。絶対そうなる。
つまりは圧倒的に絶望的。
なによりあんなもんに触ったら絶対に何かよくないものが憑いてくるし感染する。そうでもなくても腐った肉に手を突っ込むとかやってられないありえない。使いもんにならなくなる。病気もらっちまう。
俺の取れる選択肢はたった一つ。逃げ出すこと。あんなもんと正面切って向かい合ったところで百害あって一利なし。それは分かってる。分かってるんだがアレに対して逃げ出す姿勢を見せる勇気が出ない。
そうした途端に串刺しにされるか捻じ切られるか引き千切られるか丸のみされるか。なんにせよ楽しくない未来予想図に口元が半笑い。
こんな時だってのに頭の中に浮かぶのは勧善懲悪なお子さま向け映画だった。どうにも出来ない敵が現れて、やっぱり順当に敗北し、だけど何かの助けだったり支えがあって勝利する。
しょうもない現実逃避の類いで、それでも止められないのはどうしようもないと認めているからか。
確かにどうにもならんだろうって土壇場で神がかった奇跡を呼び込む奴らは存在する。そいつら漏れなく戦場の星だったり英雄とか呼ばれたりする。けれどそれは本当の本当に一握りの星に選ばれてるような奴らで、功徳なんて鼻紙と一緒にゴミ箱に捨ててしまう俺に関して期待できるはずもない。
なにより、奇跡なんてあやふやなもんに期待すんのは自分に出来る全部を試した後じゃあないと格好つかんだろう、ガキんちょの手前。
逃げる。これは大前提で立ち向かうなんて自殺志願者のそれと代わりない。だけど後退のそぶりを見せれば即殺される未来があるわけで。どうするどうするどうしよう。せめてなにか気をそらせる手段の一つでもあれば、ハルがいてくれたら大火力煌術でなんとかしてくれるかもしれん。
巫女様ハル様女神様とひれ伏したくなるわ。
無い物ねだり。女神様に祈っても絶対に叶えてくれやしない。なぜって普段の信仰心が足りないから。
ああ、頭ん中ぐるぐるしてんな。そんなしょうもないことよりも目の前の脅威をどういなすかが重要で正気に戻れ馬鹿野郎め頭花畑ってんじゃねぇよ。なんとかするっきゃねぇんならそうするしかない。出口はすぐそこ。なんとかなる、なんとかする。いつだってそうするように。
だけどさあ、さっきから、頭の中に響く、この音が、うるさくてうるさくてうるさくて、もうほんとうにいい加減にしてくれと。どっから出てんだこのざらつく不快な音。
『□■◆◇▽△▼▲○○』
死肉にたかる蝿が耳の穴に我先にと駆け込んで来るような我慢出来そうにない音。
まったく意味が分からないのにそれが言葉のように聞こえてきたのは音の全部が俺に向かって吐かれていると気づいたからだ。
つまりこれは、
『盗人ガ……』
それは俺たちの使う言葉じゃない音なのに、どうしてか明確な意味と意図を持って聞き取れるようになってしまった。
そしてそれは、まだ忘れるには時間が掛かりそうな覚えのある声で、ふざけんなてめぇそんな様になってまで話しかけてくんじゃあねえよ。醜すぎる半死半魔。とっととくたばっていればそんな無様な姿を見せずにすんだのに。
「こんな清廉潔白な人格者を捕まえて盗人呼ばわりは頂けんな。人を見る目を養う方法から学んでこい。他人さまに、頭下げて」
まだ軽口を叩いてる自分に安心した。ひきつってないか、震えてないか、舌はうまく回っているか。こんな情けない有り様だからせめて見栄ぐらいは張っておかにゃ顔向けできん。
「で、なんなんだよ。俺ん中じゃあお前は終わってんだよ。もう話に出てくんじゃあない。あー、それともあれか。敗者復活ってやつか。猟兵の流儀を弁えろ。敗けたら潔く退場しやがれ」
それが矜持ってもんだろ。
野蛮で冷悧な戦に自ら荷担して、奪い奪われを愛すべき隣人とする彼らだ。当然それが自分の一等大事な宝物だろうと同じこと。怒るのも自由だし嘆くのも自由だが猟兵として生きる以上、私心による再起や復讐など考えないし交えない。それが嫌ならそもそも争いなんぞするんじゃない。
なんて、そんな道理を説いてもこいつには無駄だろう。こいつには自分しかないのだから。
『俺ノ駒はドコダ。俺ノ巫女はドコダ。俺のモノだ。俺の俺の俺の俺の。すべて俺のモノだ。……お前は、お前は何ダッタカ』
見た目通りに頭の中がどうにも腐っているらしい。
俺を覚えているのかいないのか。娘やハルのことは思い出せるのに俺についてはどうにも曖昧らしい。寂しいね。だけどまあ好都合か。だって俺ってばあいつ虚仮にして結構な感じで嫌われて憎まれて殴りあいまでしたからな。だから変に執着とかしてくれてなくて嬉しいわ。
「そいつらならとっくにいねーよ。あんたはここの王さまなんだからどっかいっちまった奴らなんて気にすることなくどーんと構えてくれりゃあいい」
『……イナい』
「そうそう。もうすんげえ遠くにいっちまったからさ。諦めてここでふんぞりかえってくれ。俺はあいつら探しに行くんで」
その巨大な体がどんな構造してんのか知らないが、人間の小さな頭で制御出来るのかは怪しい。その頭だって半分はもう腐ってるんじゃないか。
『……何を言っている』
は?
『この世全てが俺ノものならばオ前の全テも俺ノもの。探ス自由などアリエンシ許さん認メン。ゆえに貴様、俺にナレ』
何を頭腐った台詞吐いてやがんだこの野郎は。
俺になれだと。
意味は分からんがそれがおぞましいとだけは響きで伝わってくる。
『ああ、俺ノ駒にするなどナマヌルカッタ。この世が総ジテ不愉快事に満ちているなら万象全テが俺で満ちれば良い」
言い終わると同時だった。
樹と肉の混合物からなる無数の腕が一斉に槍衾となって襲い掛かってきた。直線的なもの、曲線的なもの。時間差あり。上、左右、背後と逃げ場が前にしかなく、輪から遠ざかるとしてもけれどそこに逃げるしかない
勢いが強くて突き刺さった場所が脆く崩れる。
足場は崩壊。建物倒壊。俺損壊。韻を踏むほど逃げ出せなかったのをめちゃ後悔。
頭腐ってんならもっと単純な攻撃してこいよと毒づきたいが、息もつかせない波状攻撃にそんな余裕がない。しかも向かってる先は不気味な洞にしか見えないやつの大口。玉座でヘルダルフが痴れた哄笑を上げている。
鋸の刃めいた歯は近づいてみれば不揃いの乱杭歯でかみ合わせが悪いどころじゃない。噛みつかれでもしたら死ぬのは免れない上に自分が咀嚼される様を見せつけられるだろう。
そんな死に様はご遠慮願いたいもんだ。
ヘルダルフに近づいた。近づいてどうする。とりあえず殴るっきゃねえだろ。武器なんざこの身体しかないんだからよ!
手甲をつけて下顎に当たるだろう部分を殴りつける。腕がめり込む気色の悪い感触に、届いていない、届かないという直感に実感。逆再生のようにゆっくりと治っていく傷跡。
そしてすぐさまそこから飛び退いて転がる。
なぜってアレの口の端から垂れたクソ汚ねぇ異臭塗れの涎が振りかかってきたからだ。
物理的にも心情的にも当然、あんなもんを頭っからひっかぶるなんて絶対にしたくないしあっちゃあいけない。なので本能的にも生理的にも当然、身体は全速力で回避行動を選択した。結果的に、それは正解と間違いが半々だった。
涎が落ちた先、地面が溶けた。凶悪な酸。それだけでなく、腐れに蝕まれ崩れている。避けて正解。けれど避けたその先でよくしなる腕に弾き飛ばされた。
樹から殴り落とした時の意趣返しのつもりか。子ども向けの玩具よりも転げ回る俺。身体中の空気がいっぺんに押し出されてペチャンコになった気分。
それにこの腕。手甲もごっそり溶け崩れている。あいつの体液そのものが薄い膜となって守っている。蹴り込んでた日にゃあ足をまるごと失くしてたかもしれない。
じゃあ、どうやって攻撃すると悩むような贅沢な時間は与えられなかった。
次弾、斉射。
縦横無尽に降り注ぐ槍の雨をいなし捻り躱して透かす。触れる面は最小限に、それでもどんどん削られていく。
『無様ナ出し物だ。疾く諦め受ケ入レロ。お前を俺ノ末席に加エテやると言ってやってイルのだ。コレ以上の名誉ハない。涙ヲ流して拝領シロ』
響く不快な音に耳を貸すな。今は、どうやってアレを打倒するかだけを考えろ。
だけど、どうする肉体の接触は論外武器と呼ばるものはなく作り出せる力もないそも俺の具象力など知れたものかつ付加力も同じで手詰まり息苦しい弱点逃げて腐るレイたちはどうなってさあ俺はどうするどうするどうなれば。
逃げ惑ううちに手ごろな石が転がっている。そいつを掴み。投げる。ただの人間だったら頭に当たれば中身ごと吹き飛ぶぐらいの本気も本気の剛速球は、確かに表皮を貫いてその内に達したはず。
が、効果はない。どれだけ腐肉の厚みがあるか知らないが、中枢には届かない。俺の目玉が正常なら体に沈み込み、やがて吐き出された。転がり出た石くれは溶かされて小さくなっていた。しかも付けた傷など秒で塞がる。
ただの石っころじゃあそんなもん。半ば予想していたから落胆なんて皆無だけど、ほんのり期待はしてたから舌打ちぐらいは許してくれや。
「お前なんだその姿は」
「この世デ最も美しク尊厳に満ちた姿ダ。平伏シて感激シロ。凄まじい解放感ト万能感。嗚呼コレだ。こうではなくてはならなかった。他ヲ圧倒する力。これこそ俺が持つベキだった正シイ姿で、今までのヒトの姿が誤りダ』
「ああそうかいそうかい。そりゃあまたご機嫌でいいことだ」
美しい、尊厳。
何を言ってるんだこの馬鹿野郎は。そんなもの、今のお前のどこに感じられるってんだ。前よりもよりいっそう馬鹿になっちまってやがんの。
幹の半ばから折れたそれなりに大きな枯れ木を槍のように投擲し突き刺した。さっきの岩くれとはわけが違う大きな質量はたやすく腐肉を突き破って黒っぽい血を流させた。
枯れ木はすぐに貪られるように飲み込まれ、つけた傷もあっさりと修復された。出鱈目な治癒速度。ハルの煌術よりも速いかもしれない。そう、煌術。煌力。そいつらが乗っていない攻撃では傷をつけてもあっさりと治されてしまう。推論が正しいかの検証をするにも使える道具は俺の身体しかないときたもんだ。
これだから戦う手段、引き出しが少ない脳筋はこういう時に困るんだ。
腐蝕と再生。不死身。聖樹の実。こいつがこんな有り様になった想像がまさに実を結ぶ。もしや食ったのか。こいつ。どこでどうやって。そもそも残ってのか。何年熟成されてんのか知らんが生食でもしたのか。腹下すぞ。
「一ついいか」
『本来ならお前如キ下郎が口を利けるものではナイが慈悲をクレてやる。答えテやろう』
「そんな腐った醜い姿になって、どんな気分だよ」
『最高ダ。素晴らしい。もし、以前の俺ガ今の俺を見てしまったら羨ましいと激怒しながら思うダロウ。俺は唯人デハ成しえん領域に至ッタ。恐ロしいだろう。凄まじいダロウ。在るベキ正しい世界。正しい姿。正しい世界』
「あ~……?」
『ああソウカ。ようやく俺は俺が望む俺になったカ。ようやく俺は生まレルコトが出来たのか。そうでアルなら、思うがまま望むまま振る舞い満たさなくてはナラン。アアソウだ……』
それは、どこか惚けていた今までの言葉ではなく。
「つまりだ。小僧。俺を虚仮にしたお前をまずは蹂躙する」
明確に、俺を見定めた端的な敵対宣言だった。
巨体が蠕動する。枝葉が伸びて突き刺さる。その対象は俺ではなく、聖樹の緩やかな死と一緒に枯死していくヴィルヴィスにだった。
彼らにもはや力などなく、無抵抗のままそれを受け入れそして変異する。
屍同然だった体が突然跳ねる。無理やり糸を括られ引き立てられるように暴れだす。それが俺には抵抗しているようにしか見えなかった。
植え付けられたのはヘルダルフの意思と種とでも言えばいいのか。
発芽する。耳を塞ぎたくなる異音に付随する声のない絶叫。まったく別のモノへと己が組み替えられていく恐怖と否定だったのかもしれない。
朽ちて枯れた彼らがヘルダルフと同じような腐った体を億劫そうに持ち上げて俺を一斉に見た。
「俺になれってそういうことかよ……!」
多勢に無勢すぎ。本体だけでも手に余るっつーのにどうしろと。
乱立する巨大な木々の間を縫うようにして全力で駆けて物陰へ退避。
分かってみれば単純で、当然な結論だった。
ヘルダルフの攻撃を受けてしまった者はヘルダルフと同じ、腐って爛れた別の生き物に変じてしまうというそれこそ腐った現象だった。
変異したヴィルヴィスもヘルダルフと同じ特性と持っていると考えた方がいいだろう。触れれば腐る。ふざけんな。
生きてるんだか死んでるんだか分らんままに腐り続けるなんぞ俺はごめんだ。
「どうした小僧! 逃げ回るだけか! 俺を殺そうとした底力はどこだ! 抵抗出来ないのであれば惨めったらしく命乞いをさせたやった後にお前も俺の一部にしてやるぞ! 喜べ、お前如きが王の力の一助になれるのだぞ! クククッ、ハッハッハ!」
ぺらぺらと喋るヘルダルフは頭の中が綺麗にお掃除されてしまったようだ。
言葉は明瞭、感情は爆発、気力充実、体力全快って感じだ。
ヴィルヴィスらに種を植え付けたと同時にそうなったと感じる。
暴走したあの白の魔女と同じか。命を、外より食して補って、それでなんとか維持をする。
俺たちはヘルダルフにとっての餌と同じか。
「それとも、観客がいないと力を発揮出来んか。そうだやつらだ。俺を虚仮にしくさった巫女と駒めらが。ガキもいたな。気に入らん目つきをしたガキだ。あれらを俺にしてやればお前は足掻けんか」
「あぁ?」
聞き捨てならん、その言葉。
けれど頭の中は冷静だ。冷静に、ヘルダルフを潰す為の算段を探している。白の魔女との対峙が活きている。いざ交戦状態に入れば相手に太刀打ち出来そうにない程度じゃあ心は揺れない。
ぶん殴るのがダメならそれ以外の方法を採ればいい。
要は大きさの問題で。
例えば鉄砲玉が貫通したぐらいじゃたいがいの人間は死なない。半端な傷を与えただけじゃあ再生する。だけど大砲なら貫通なんぞせずに粉砕する。再生なんぞする余地がない。俺がするのはそれの拡大再生版。規模がちょいと違うだけ。
上を見る。聖樹と比べるのと流石に小さいが、それでも俺は当たり前としてヘルダルフの巨体すら覆えるほどに巨大な樹と取り付けられた建物。今にも崩れそうなほどの老朽化した。いけるかな。いってほしいもんだまったく。
「お前たちのような駒にも聖域があるのだろう。触れてはならん。踏み込んではならん。なんという増上慢。許せぬ傲慢。それは真の王にのみ許される。ゆえに壊してやろう。その時にお前はどんな顔をする。笑うか、歪むか、ああ、嬲るとはこういう心地か。悪くない、悪くないぞ。素晴らしく愉快だ」
ある意味愕然とした。その言葉の意味するところとは今まで無自覚だったということだ。奪い、侵し、殺すことへの愉悦。他人なんてすべからく駒でしかなく、世界は己一人のみのためにあると完全に思い込む妄信。
俺というムカつく野郎に初めて出会ったことでようやく他人を認識した果てに得たものがそんな下卑た感情か。
薄々思っちゃいたがこいつはガキで小物だ。他人を知らず、社会を認めず、自分の好きなものしか見ないし見えない。それの靄が少しばかり晴れたらこんな様になり果てやがった。
ヤツの性質悪いところってのは中身がくそガキの精神まんまに他より抜きんでた力を持ってたってとこだ。周りにそれを是正できるやつがなく、自分の望み最優先に思うがままに生きてきた。邪魔は力で排除するという単一思考は変わらずに。
イラつくやつだよまったく。
なんて、なんて……!
「てめぇどんだけ俺を笑かしやがんだおい! 今のお前が王さまだって!? 抜かすな間抜け! お前みたいなまるでダメなおっさんを王様だなんて誰が認める誰が思う! お前なんぞクソガキが腐ったままでかくなって贅肉ダブつかせただけの糞じゃねぇか!」
普通なら社会と折り合いをつけて少しでも生きやすいように自分の世界を探して広げてなんとかするもんだ。その手段を知らず学べずほったらかしにされたやつの末路。見本のような駄目な大人が目の前にいる。
なんて哀れ。なんて救えねぇ。笑ってやるしかないだろう。
「どんだけ図体がでかくなろうが腐った性根のままじゃあてめえを見る目なんざ変わんねえよ! 蔑まれ見下され否定される? 当然じゃねえか! 分別なし見境なし遠慮なしでなんもかんも踏みにじってくお前を認める要素がどこにあんだよ!」
「誰が王を認めるか。俺が俺を王だと認めているのだ。有象無象がどう思おうが知ったことではない。だが、崇めひれ伏さんのは許されざる大罪だ。罪は贖われなければならん。しかし俺にも慈悲はある。だから言ったはず。俺になれと」
やっぱりどうしようもなくお互いの考えは嚙み合わない。
当たり前に自分と誰かを同列に置くと、自分だけが頂点で、他は底辺だと断ずるあいつ。
仕方がない。あいつがそれを望み、周囲もそれを望んだ。外の世界での当たり前を見る機会があったにも関わらず、変わらないままを選択したのはあいつ。選択肢にすら上がらなかったかもしれないが。
土台、言葉でどうにかなるようなやつじゃない。行きたいとこまで行ったんだからそこで満足しろ。一人が好きなら一人っきりで絶頂してろよ大迷惑だ。お気に入りの玩具で遊びたいなら自分の部屋で好きなだけ戯れてりゃあいい。
俺の目的を反芻し、周囲を確認し、ヘルダルフを視界に納める。
輪の扉が不安定になっているのが気がかりだが俺にはどうしようもないので後回し。
実行するにあたって必要なのは勇気やら覚悟やら度胸とか根性とか気合いとかそんなもん。
勇気。そんな上等な心根の持ち主じゃあない。覚悟。死にに行くみたいでやだね。度胸、根性、気合い。ある。あるはず。あると思いたい。だから、行け!
飛び出す。
俺に向けられるヘルダルフとその群れの目と目と目。伸ばされる手と手と手。翻る枝葉、乱舞する体躯。耳を通り過ぎていく風切り音。鼻に突きすぎてまいる異臭はとっくに鼻を麻痺させてしまっている。
頬を擦過した瞬間に、そこがごっそり無覚になる。これが喰われるという感覚。要するに、手足さえ無事ならどうということもないってことだ。腐っちまうのは嫌だけど。
揺れる地盤。軋む建物。ヘルダルフの巨体が動くだけと崩壊間近のそれらが悲鳴を上げる。
「飛び回るしか脳がないのか小蝿が!」
飛び回る蝿はうっとうしいだろう。いい気味だ。お前を不快にさせられてんならいい気分だ。
動け、動け、動き続けろ。足を止めるな。走れるだけ走れ。胴体を貫かれるのはまだいい。絶対に手足だけは保全しろ。這いつくばった時はめでたくもなくあいつらのお仲間入りって羽目になる。
上へ上へ上へ。大きな巨木を伝って上へ。崩れる建材に飛び乗って上へ。振りかかる枝葉を打ち捨てて上へ。幹を傷つけ壁を穿ちより脆く。壊れないギリギリまで崩して傷つけ傾けて。
腹の底が熱い。
こんな時だってのになんでだと笑ってしまいそうになる。
なんで俺にこんな本の中にしかないような動きが出来るのか。昔に読んだ東世物の小説に出てくるような忍の者でもあるまいに。今までやったことがないのだから出来るかどうかなんて知ったこっちゃないけど人間やってやろうと思えば出来るもんなのか。いやいや俺の限界値超えてるだろこれ。
新しい発見。戻ったらガキんちょに伝えてやろう。人間、追い込まれれば案外なんとかなるもんなんだと。
それに、あの馬鹿みたいな巨体でついてくるヘルダルフもヘルダルフだ。体を作り替えたのか無数の人のような腕を生やして気色悪く登ってきやがる。やっぱり馬鹿野郎が大馬鹿野郎になったようだ。
天辺近い。空が広く、それでも遠い。つまりもういいかな。もういいだろう。
悲鳴をあげる大木に、ヘルダルフが蛇めいた身を絡ませている。ぎしぎしと傾ぐ不安定な視界。ゆらゆらと揺れる、ともすれば消失していまいそうな平衡感覚。
「逃げるのはしまいか!? あがけ虫けらの哀れな健気さを見せつけろ! これは王命だ!」
そうしてヘルダルフの耳障りな声。あれだ。大鐘が間近で鳴った時みたい。当然、大鐘の方が遥かにマシだ。
広いお空に近づいたせいか、俺の心も広いお空のような心地になった。閉口に呆れとほんの僅かな感心。ほんのり風味で小指の爪の先についた垢ぐらいだけど感心したのは確かだ。
よくもまぁそこまで自分を盲信出来るもんだ。そこだけは認めなくもない。
下を見る。目眩がしそう。無風なのに足の裏がふわふわして腰がぞわぞわして顔面から落っこちていきそう。
これからやることを考えてああ俺は馬鹿だと思ちゃったけどしょうがない。俺、馬鹿だったみたい。
見せつけろって腐った頭からんからんの王さまが言ってんだもん。やつに期待されてもなんも嬉しくないしむしろ小蝿の群れが顔に突っ込んで啄んでくるほど嫌だが応えてやろうじゃないか馬鹿だから。
馬鹿はそこの王さまも同じか。
なにも考えずに追ってきたとした思えん行動。無数の目玉は俺しか目に納めてないように赤く染まっている。それが俺を追い詰めたいとか考えてのことなのか。人間やってたあいつなら少なくとも追ってはこなかっただろう。
どっちにせよこれ以上粘らないでほしい。俺は腐った粘っこさなんて東世に伝わる神秘の食い物しか認めない。
虫けら。その通り。小さな虫のあがき。誰あろう俺がよく分かっている。今のお前からすれば大概のやつがそうなんだろう。でも覚えとけ。そんな小さな人間一人一人にだって相応に捨てられん意地や負けん気があるのだ。
虫けらの健気、意地。その汚い目玉、限界までおっぴろげろや。損はさせない。だからお前も見せてくれ。
「小さな虫に潰される間抜けな王の無様な姿」
笑った。想像すると色々と愉快で口元が歪むのを止められない。気力回復体力充填。だって、もっともっと笑えるかもしれんだろ。下卑た妄想ほど楽しみに出来るものはそうそうない。
聞こえてくる。壊れていく音。傾ぐ視界。放り出されていきそうな体躯。
「ぬ、が、オオォォォッ!」
号砲がお前の叫びってのが残念すぎ。だけどそれに悔しさが混じったらどうなる。無念を滲ませれば。怒りを見せれば。なんて楽しそうな未来予想図。張り切らずにはいられない。そう思い込む。
ヘルダルフの重みに耐えきれず倒壊を始める足場。襲ってくる気持ちの悪い浮遊感はそのまま視界の変転と平衡感覚の失調をプレゼントしてくれた。
眼下に映し出される光景は、そりゃあもう高い。高い。怖い。ちびる。どんなサーカス団だってこんな高さで綱渡りなんかしたことないだろ。
その高さを実感し、これからいざ一仕事とかお前正気かよと小賢しい理性が自分に問いかけさあやれ早くしろ生きてるのなら死ぬまで動けと馬鹿な本能が声高に主張している。
だから行け。そのままだとお前、平たく潰されたトマトペーストになっちまう。
だから行く。走りだす。傾いていく樹と建物の上を宙に落ちないように駆ける。あるいは翔ける。
なるたけ地表が見えないように樹と建物で視界を埋め尽くす。その下にヘルダルフを挟みここに来るまでに仕掛けた小細工を発動する。
一つ。大樹の先端をへし折ってヘルダルフへ蹴りだし射出。二つ。建物を砕いてヘルダルフへ蹴りだし射出。質量、大。着弾、命中。損害確認。軽微。
次弾装填。質量、極めて大。腕と足が断裂しそう。身体を巡る血の道は全身を過去最高潮に駆け回って目を回している。身の程を弁えない荒行に吐きそう。蹴りだし、再度、発射。再度、命中。
体勢崩れ、ふわりと浮かび、見えてしまう遠い地表。
目玉がひっくり返りそう。頭の血が逆さに流れているみたいな気になる。なんだったらこのまま地獄、深淵、奈落に召されてしまってもいいんじゃないと怠惰な俺、腑抜けの俺、気弱な俺が肩を組んで取り囲んで囁く。
気のせい! 思い過ごし! 勘違い!
そいつら全部、そうと断じて次の弾を蹴り飛ばす。
まだ生きてんだ。だったら死ぬまで生きろ。くたばるまで足掻け。死ぬなら死ぬで今ある命を全うしてからくたばれ。命を使い果たしたのだと胸をそびやかして地獄の門を潜るのだ。
いやいやまだ死ねんだろうが俺。あのガキんちょが、人並みとは言わん。最低限、人間の輪の中で生きていけるようになるまではと。俺はあいつのとこに戻んねぇとなんねぇの。
「だからお前邪魔だ! そこをどけぇ!」
どかないんだからしょうがない。排除する。逃げられないだからしょうがない。ぶちのめす。
三つ。突き刺さって潰される目玉いくつか。四つ。防ごうとした腕を吹き飛ばす。六つ。七つ。八つ。大口の中に潜むヘルダルフへ投射。
潰したか。潰れたか。加速していく視界ではっきりと見えやしない。悲鳴はあったか、断末魔は、心満たす末期の叫びはどこだ。それを聞かせる前に地の底に沈むんじゃあない。俺を笑わせろ。王さまの意地を見せろや畜生!
全弾を撃ち尽くし、後は地面との衝突を残すだけ。
レーヤダーナのボケ面やハルの能天気面を思い出し、後ろ髪を引く強烈な誘惑を振り切って、崩れる中でなんとか原型を残していた足場になりそうな樹を見つけしがみついて、しがみつきまくって、繰り返して、なんとか帰るための輪へ近づこうともがいてけれど限界、地面に落下。そして最後――。
衝撃。頭が揺れ、体が揺れ、視界が揺れ、世界が揺れる。
痛いような気がする。
苦しいような気がする。
全身残らず砕けたような音が聞こえた気がする。
腕と手足に腸のミンチをこれでもかと地面で炒めて骨と皮のバンズで挟み血潮のソースでぶちこんだ人肉バーガーの出来上がりってもんだろうか。
呼吸の仕方を教えてくれ。手足ってどうやって動かすもんだった。そもそも繋がってんのか。視界はぐるぐる回っている。眼球とか飛び出てね。いや案外冷静だ。
つか、俺何やったの。何してたの。何でこんな死体ごっこしてんのよ意味分かんねぇ。
なんだか光ってそうなぼんやりした今にも消えそうな輪が目に入る。
ああそうだそうだ。そうだった。あん中に入って戻んなきゃいけねぇんだ。まだ手を繋いでなきゃいかねぇやつんがいるんだ。それにまだ生きてんだから、だったら終わるまで手を繋いでなきゃいけないわけで、ちがうちがう、終わっちゃなんねぇんだまだ。
這って這って這いつくばって手を伸ばす。
だけどまぁ、手を伸ばしたからって届くとは限らないわけで。
「マダダぁ!」
なんだっての誰だっての。
「……俺はようやく王になったのだ! 俺が望み俺が求め俺が叶えた俺の理想に! 俺を認めぬ奴輩に報いを裁きを鉄槌を! 見ろこの姿を!」
うるせぇな。よく聞こえねぇしよく見えねぇんだ。
なぜだかうつ伏せになってた身体をひっくり返す。力が入ってんだか入ってないんだかわかんねぇがとりあえず、身体を起こすことだけは出来たようだ。
目の前には大きな異形。
でかい樹が蛇を象ったような、とにかくでかい姿はしかし、至るところが崩れて破れて腐って爛れ、血を滝のように垂れ流して無惨にもぐずぐずとになっていた。
どんな仕打ちを受けたらああなるのか。きっと人徳を積まなかったに違いない。
「……ははっ。愉快な姿になったもんだな。おらどうよ笑えよ。虫けらにそんな様にされても笑えんなら笑えやおい」
こんなに息苦しいし喉の奥で言葉が詰まって仕方がないのに口から勝手に悪態が飛び出るってことはつまり、目の前の化け物はおそらくどうしようもない程にムカつかせる奴なんだろう。
でももういいや。なんか主張してるけど、なんか冷めた。すんげえ血が出てるからかな。
世の中には優先度ってもんがあって、俺の中であれは最優先じゃあない。あの輪の先にあるはずなんだよ。
「どこに行くッ! 貴様は俺が直々に潰してやる! 涙を流して拝領しろ!」
ああ、うるさい。
「許さんぞ! こちらを向け! 王命に背くか下郎が!」
だから。
「知らんし、どうでもいい」
「きさま!」
なんだって俺がお前なんかの相手をしてやんなきゃなんなかったのか。それは相手してやんなきゃ死ぬんじゃないかって感じだからだ。死ねばそこまで。蘇りなんてない。そうなれば繋いでいた手も離れてしまう。
まだ、だめだから。あのガキんちょすんげぇ危なっかしくて今だって放り出したらどうなることか分からん。傍にいて見てないとはらはらしてきっと死んだ後もモヤるだろ。
だから手を繋いでいたいのだ。
そうじゃなったら誰がお前なんぞの相手なんてしてやるもんか。
「逃がさんぞ。許さんぞ。認めんぞ。俺が俺になったからには俺が望んだ全てが叶うのが道理だ。なんだこれは。ありえんだろうあってはならんだろうが!」
垂れ流される声を背にして地面を這う。
でもダメだな。全然進まん。力入らん。もう落ちそう。暗がりの淵で死神を足を引っ張ってそう。
「俺は王だ! 誰にも俺を見下させん蔑ません否定させん! 俺を前に背を向けるのならいいだろう! 疾く死ね!」
輪に向かって伸ばす。なんにも掴めない。
代わりに飛んできたモノがある。それは光だ。
頬を擦過して化け物に突き刺さったのか、痛がるような音がしたがそれよりも何よりも。
冷たくて頼りなくて、だから繋いでいなくては消えてなくなりそうな小さな手が、俺を引き留めた。
「主役は美味しいところに登場するものさ!」
銃を構えたうるさい冒険家。
そう思った直後に飛んでいく無数の光の槍。周囲を凪ぎ払って掃除の時間だと言わんばかりの大火力。
「ごめんなさい! 繋げるのに手間取ってしまって! すぐに手当てします!」
いや助かったよ。巫女さまハルさま女神さま。
「あんなの相手にするなんてあんた馬鹿なの!」
確かに馬鹿だがお前に言われたくねぇ。相手しないとぶち殺されそうだったんだから。
「さあさみんないざ撤退!」
そんな力なんてない。ないはずだ。ないんだけど。俺を引きずろうとするすんごい貧弱な手があるんだから力入らんとかアホな寝言吐いてられない。
なぜってこのガキんちょまさか心配でもしてんのか。
灰色の曇り一つない目玉には満身創痍でどう表現しても格好のついてない男がいた。間違いなく俺だ。
ありえんだろ。
肩を貸されるのはいい。寄りかかるのだっていい。俺はあんまりの出来の良い人間じゃあないからなんでもかんでもやれたりしない。当たり前に出来ないこと。やれないことが当然あって人の手を借りるのなんか日常茶飯事。
だからこそ、自分にやれることがあるのならやれ。立ち上がるぐらい出来るだろ。出来るのならやって見せろ。
骨が折れて砕けてる?
血を流し過ぎて意識消えそう?
人間の限界超えてる?
それがどうした。
意地張るところだろ。他の誰からないざ知らず、レーヤダーナ・エリスの前で意地も張れない俺なんか俺じゃあない。
なにより、くたばってないんだからそれ程度、出来て当然だろ。
「おし行くぞ」
もうほんと精一杯のいっぱいいっぱいな言葉を乗せて、いつものようにガキんちょの頭に手を乗せた。がっさがさになった髪の毛の感触に洗ってやんねぇとなと場違いな感想を覚えた。
すると後ろから全員が俺とガキんちょを抱える。
青い輪へと一直線――。
けれどそこまで。
輪の中に足を踏み入れる。
ああ、こんなきれいなほしぞら。
なんて、目の中一杯に星を映して限界点。
どんなに意地張っても気合い入れてもどうにもならないことって、あるよなぁ――。




