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 喘鳴。

 ひぃひぃひゅーひゅーと、咽の奥から鼓動のようにしぼりだされるそれはどうしようもなく苦しみを帯び、そしてどうしようもなく終わりに向かってひた走っていると告げていた。

 元より枯れていた大樹が急速にひび割れ崩れ、果てていく。

 大樹の真っ只中、空より放り出されたヘルダルフは運良く幹から突き出ていた枝葉の一つに引っ掛かり、無様にも程がある姿で葉にしがみつき枝を這いつくばって命を繋げていた。

 そうは言ってもその身体は大樹と同じようにひび割れ崩れ、一秒毎に終わりへと近づいていっている。

 こうなると命を永らえたのが良かったのか悪かったのか、どう思うかは人の感想に別れるだろうが彼の心中に巣くっているのは一つだった。

 怒り。

 役に立たない部下ども。血を分けてこの世に産み落とさせてやった出来損ない。立場を弁えず王に歯向かう愚物なる巫女。とりわけただ一つ残った実を貪り喰ったあの小僧については千度、万度と魂肉体なにもかもを引き裂いてもまるで足りない。

 この俺を取り巻く全て、一切合切灰塵と化せ。皆灰となって俺が根を張る為の養分となればいい。

 それを願い望んでも叶うはずもない。それも当然、この男の選択肢に女神に祈るなどという他者に己の運命を預ける行為は存在しない。何時だって侵し奪ってそして壊す。己の願いは己で至る。欲しいままに思うがままに、己の手でなしてきた。

 その生において、己が道を他者の主導に任せない。人としてどれだけ劣悪であってもそれだけは誰もねじ曲げられない事実であった。女神など望みを叶えるための道具に過ぎず、己を不完全な者にしたのなら許せぬと忌み嫌ってすらいた。

 ゆえにその毒にしかならない怨嗟を聞き遂げるのは女神ではなくむしろ悪魔の類いだろう。

 だからこそ、なのか。

 ヘルダルフへと歩み寄る一人の男の姿があった。ハルがある意味ヘルダルフよりも警戒し、不気味に感じ、笑顔混じりに女神が大嫌いだと吐き捨てたセヴェロである。

 元より、聖樹へ至るまでの契約。セヴェロはヘルダルフにとって仲間ではないし、その逆もまたしかり。お互いが誰に殺されようがどこで野垂れ死のうがどうでもいいことに疑いはない。

 それにも関わらず、セヴェロは素晴らしい友を見るような目で、まるで聖職者めいた慈しみを称えた目でヘルダルフを見下ろしている。

 まさか神父よろしく慰撫でもしにきたわけでもあるまい。仮にそうだとしてもヘルダルフの方が受け入れるわけなどない。彼としても百も承知だろう。であれば、ここに現れたことには何の意味があるだろう。

 あるいは神父にあるもう一つの貌。即ち死人を弔う葬送人として役割なのだろうか。 

 恐ろしさはない。あれだけ柔和な笑みなのだから。安心してしかるべきだ。他を傷つけない笑みなのだから。

 慈父の笑みを題材に絵画にすると判を押したように彼のような人物が出来上がるのではないだろうか。

 つまり、貼り付けられた笑み。

 赤子、子供、大人に老人。健常なる者、病身にある者。そして死の淵に足を捕らわれている者であろうと皆、等しくこんな想いを抱くのではないだろうか。

 気味が悪い。

 それは己を最も高みに置くヘルダルフも例外でなかった。

「ああ、ああ。なんてこと、なんてことだ。こんなところで死に瀕しているだなんてそんなこと王さまにあっちゃあいけないなぁ。君の故郷の産みのご両親や血を託したご老人がたになんと申し開くのか。おっとっと。そんな人たちは君にはいなかったねぇ。いやいや、私としたことがこれはいけないいけない。事実はきちんと整理されているべきだ。そうだろうヘルダルフ」

 こんな有り様になってすら、そんな自分に気づいて認めるものかと黙ってセヴェロを睨み付けるヘルダルフ。最も、既に言葉を発する事すら難しいだけかもしれないが。

「寡黙なのは君の美点でもあり欠点でもあるなぁ。人として生きていくのなら自らの意志を誰かに伝えるのは非常に重要なことだ。それは言葉で、目で、手で身体で、あるいは行動や生き様で。赤子ですらしていることだよ。いやいや、彼らの方が大人よりもよっぽど強く意志を伝えているね。お腹を空かせては泣き、排泄をしては駄々をこね、楽しければよく笑い、眠たければすぐに寝る。まったく、彼らほど眺めていて楽しい生き物はそうそうないよ」

 迂遠で要領を得ない言葉の連なりはこの男の特徴で、聞いていて愉快になった試しはなく、今この時もいらだちが募っていくだけだった。

 つまり、貴様は何が言いたいのだと不愉快さを隠しもせずに睨み付ける。

「それだよそれ。人は意志を発してこそ生きているのだと証明出来る。しかし悲しいな。悲しいね。友人である君にそんな目を向けられるなんてこの上なく悲しいなぁ。君とはそれなりに長い付き合いなのだからもっと打ち解けてもいいものなのにねぇ。大昔の君であればそんな態度はしなかったのにねぇ。いやぁ時の移ろいとは残酷なものだぁ」

 その言葉はヘルダルフをして戸惑わせた。

 確かにこの男とはそれなりに長い付き合いになるがせいぜい十年そこらだ。自分の子ども時分など知っているはずがない。

「不思議かな。不思議かね。ああ、嘘でも冗談でもないよ。私は、君が、子どもだったころを実際に知っているし見ているしなんなら触れてすらいる。君は覚えてすらいないだろう。なにせ子どもと言えば子どもだが幼児ですらない赤子の頃なのだから。まあもっとも、その頃の私と今の私は随分と様変わりしているからねぇ。例え記憶があったとしても気づかないのは無理もない」

 ……何を言っているのだこの男は。常々狂っているのではないかと思わせる言動に態度だったがこれは極めつけだ。赤子の頃など知る由もないが、それでも五歳程度の記憶はある。その中にこの男の下品な笑みなど残っていない。

 初めて会ったのはいつだったか。そうだ。まだ今よりもまもとなセヴェロだった。

 端的に言って卑屈な男だった。

 聖樹について傾倒していたのは昔からだったがその頃のこの男ときたら矮小かつ脆弱で、他人の才能や功績を憎み妬み全てを己の功にしなくては気のすまないありふれた人間だった。

 それが変わったのはいつ頃だったか。あの夫婦。シュラ―ルとかいう冒険家。セヴェロよりもよほど聖樹に肉薄し、かつセヴェロが憎み疎ましく思っているからこそ目を離せない不幸な人種。その殺害を依頼された頃からか。あるいはその殺害を遂行した後からか。

 人が変わった。少なくとも卑屈と見られる要素はなくなった。

 所詮、下らない社会とやらに溢れる塵芥。それがどう変節しようがしまいがどうでもいいこと。己以外にほとんど興味を持たないヘルダルフだったから、気づいてはいても追求しようなどと欠片も思わなかった。

 セヴェロ・エイフレット。見慣れていたはずなのに、まるで初めて見るかのようなその顔は影になってまるで見えない。いや顔など元よりなくて、影そのものが顔なのか。親愛を込めた赤く裂けた口元だけが見える全て。

「事実はきちんと整理されているべきだと伝えたね。では問題。聖樹の王となるべくして生まれた君はどうして加護を持っていなかったのだろう。おっと生まれながらの欠陥だなんて言葉で片づけないでおくれよ。それは答えとはほど遠い。行き詰まった血族。枯れ果てた血脈。それらによってもたらされた結果などでは決してあり得ない」

 ではなんだと言うのか。

「君は己の印を見たことがあるかな。聖樹の一族には必ずその身体のどこかに印が現れる。ああ、原種であれば身体の内にも現れ、さらには体表面のいずこかに花が咲いていたものだ。そして彼らは地上の人との交配を重ね、後代では進化か退化か淘汰の過程か、とにもかくにもある種の紋様が浮き出るようになった。それこそが現代における聖樹の民の証。君は、己が聖樹の民たる証を君の目で見たことがあるのかな」

 ない。

 なぜならそれは己の背中。首を回したところで見れはしない死角にあるはず。

 いつも、いつでも、周りが自分の証はこれこれこうだと話す度に冷めた目で眺めていた。

「おやおや、おやおやおや。それは己が王であると信じている君にしてはあり得ない手際じゃあないかな。なぜ他者からの指摘だけで満足しているのかな。なぜ己の目で見ようとしないのかな。王であると強く自負する君にとって、その印は補強材料になっても損はしないはずだが」

 そんな必要はない。

 己が王であることなど当然で、印がどんなものかなどなんの意味もない。ヘルダルフ・アレクセイが王であるのはこの世に生まれ落ちた時に決まっている。

「素晴らしい信仰で、素晴らしい頑迷さだ。私としては好ましくあるが、それと同時にそれがひどく歪なものであると理解出来る。なぜ君が王なのか。なぜ君が王とされたのか。ああ、その才能。自己の祈り。他者への強制服従は確かに王となる者の一つの形かも知れないがそれは君が求めた君だけの星の輝き。王にも様々な形があるのだからそれだけで証を立てたとは言えないね。だからまずはほら。自らが聖樹の民、彼らの王であると証すのならば印を示し身を立てなくてはならないだろう。なのに君ときたらまるででたらめな順番だ。はっはっは」

 まだ言葉の意味すら理解出来ない幼い頃に確かめようと気の迷いで考えたこともあったが人は己の背中を見ることは出来ない。

 鏡を合わせればそれも可能だろうがヘルダルフは傲慢ではあっても自己陶酔とは縁が無い。己の肉体の隅から隅までを眺めて充足を得る精神性をしていない。セヴェロの妄言など蔑むべきもので一顧だに値しない。

 だが死の影に足首を掴まれた状態で、まったく無意味な発言をするだろうか。セヴェロであれば他者を嘲弄する為だけにしても可笑しくはないだろうが。

「君を産んだと主張するご両親、君こそ王だと称え敬うご老人がた。彼らの言葉など、君にとってはさほど価値のないものだろう。ならばどうしてそんなものを無条件に信じられる。己の目で確かめるほど世界を認識する最良の術はない。他者からの賞賛は心地よいだろうが、同時に空々しく寒々しくもある。そんな言葉に踊らされる者ほど滑稽なモノはない。なにより君は己の信奉者。その手の下らぬ輩と一緒ではないだろう」

 だから、何が言いたいのだ。

「いけないな。実にいけないねヘルダルフ。君は頑迷だが馬鹿ではない。これだけの言葉を羅列されれば気づいてもいいはずだ。最早再起など望めぬと悟った一族。そこに()()()()現れた最後の希望。けれどなぜか現れぬ聖樹の加護。にも拘わらず王だと褒め称える血族たち。そして王たる者が背負う証は言葉の上でしか存在しない。最後に私は、君が赤子の頃を知っている、見ている、触れている。この手に抱えて祝福を贈ってすらいる。なぁ見て見ぬふりはいけないよヘルダルフ。意志持つ人とは、己にとって都合の悪い事実ほど直視すべきなのだから」

 それは不思議と真摯な諫言めいてそれこそ女神に使える信徒のようですらあった。

 セヴェロの言葉。それぞれの連なりと繋がり。それらから見えてくる顧みなかった事実とはつまり――。

「そう。君は、聖樹の民の王ではない。君を生み落としたと主張する者らは両親ではなく、我らが王と君を仰いだ者らはまったくの他人。望まれた役割は見せかけの希望。我らの血はまだ枯れ果ててはいないのだとまやかしの幻想に浸る愚者たちの玩具。それこそが真実。君の姿」

 そんなもの――。

「その生まれはどこにでもいる捨てられた赤子。そのまま野垂れ死んでいたはずの浮浪児。未来はなく過去もない。それこそが彼らの望み。特別な背景など必要ではない。欲しいのは愚かな自分たちを騙す希望の種。誰でも良い。どうでもいい。野に転がる石ころをどうか見繕ってくれと頼まれたので彼らの望みに寄り添う一粒を送り届けたのが私だよ」

 ――――――。

 ――――。

 ――。

「どうかな。どうだね。自分が信じていたはずの過去に裏切られた心地は。その心に覚えるのは諦念と悲観かあるいは憤怒と再起か。君の生まれに関わった身であり君を見守ってきた者としては出来れば後者であって欲しいと願い、そしてまた、そうであると信じているが……。なあ、ヘルダルフ。返答は如何かな」

 そんなもの――。

「知っていたさ」

 だから民の証を示すことなどそもそも不要。

 知らざるを得ない。

 他より優れているのは素晴らしい。それは分かる。けれどそれは己が誇っていればいいもので、殊更に誉めそやされるものではない。空虚な賞賛。空疎な崇敬。ましてやそんな耳心地の良い言葉の洪水に溺れさせられればその裏にあるモノが見える、聞こえる、理解出来る。

 王であってくれ。王であってほしい。願いの裏にだけどお前は王になんかなれやしない。王なんかじゃあないと木霊する嘲りと蔑みの楔。

 故に許さん。

 その耳喧しい妄言など全て塞いでやる。一言たりとも耳に入れるものか。お前たちこそ俺の言葉に溺れれば良い。

 王であると望んだのが貴様らならば、誰が何と言おうと俺こそが真実、聖樹の王であると。

「素晴らしい素晴らしいよヘルダルフ。その言葉が聞きたかった。王であると望まれその実、王にはなれぬと蔑まれ貶められた子よ。君は血族によるものでなく、あくまで己の力、己の血こそが王たるに相応しいと信じているのだね。ああまったく。まったくもって。そうでなくては。そうではなくては私もコレを持ってきた甲斐がない!」

 そうして真っ暗で真っ黒な、影でしかない身体から差し出されたのは何かの実。

 それはまさか――いやありえん。それは全て焼失しこの世から失われたものではないのか。

「これこそ君が望んだ聖樹の実。件の彼が持っていたものなど萌芽していない紛い物の種にすぎない。王となる者が食した時、その実を不死とし無限の力を授けるとされる伝説の一つ」

 それは蒼い。蒼く沈む柘榴のような、瞳のような。

「だが心せよヘルダルフ。これはまさしく王しか食してはならない禁断の果実。相応しくない者が口にすればどのような結末が訪れるか私も分からない。過去、そういった不心得者がいたのは事実だが、まあ、一様に悲惨な結末を辿ったのは言うまでもない。死すら生ぬるい地獄に落ちるだろう。さあどうするただ一人のヘルダルフ・アレクセイ。王と決意している者よ。ここで誰でもなきままに朽ち果てるかそれとも――」

 それこそ愚問。

 王であるならそんなものは一口で食らい飲み込み己の物とする。その程度の気概なくして何がヘルダルフ・アレクセイか。

 我が生は、何時如何なる場合においてもヘルダルフ・アレクセイでなくてはならない。ヘルダルフ・アレクセイが王なのではない。王がヘルダルフ・アレクセイでなくてはならない。

「だからこそ、君にこの実を捧げたい」

 満足げに頷き微笑み、セヴェロはその実を手渡し身を翻す。真っ暗で真っ暗な、影そのものの姿。

「貴様、何者だ――?」

 セヴェロ・エイフレットなどという男ではない。彼は凡俗で奇矯な男ではあったがここまで人を外れていなかった。聖樹の実を手に入れているなどありえない。

 彼の目的は、聖樹へと至る栄誉を手にすること。

 そんな俗な願いなど歯牙にもかけず、今目の前にいるこの男――いやそもそも人なのか。声音こそ確かにセヴェロだが。目は霞んで姿を結ぶことすら満足に出来ない。視界は暗く、影が影を引き連れて歩いているようにしか見えない。

「私は――だよ」

 肝心要のその部分。

 耳に入っているのに分らないし。

 けれどそれが、位相のずれた深い地の底から這い上がるような悪寒と怖気を齎すヒトではないモノの嗤いであるのだけは理解した。

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